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タモさんと架空対談したベルクソンって誰?

『超時間対談』タモリ×ベルクソン

まず、導入だけ引用します。

ぼくは確かに早稲田大学の文学部で西洋哲学を専攻したが、学生時代は専らモダンジャズ研究会の司会とマネージャーに忙しくて十分な勉強はしていない。

どういうことでベルクソンなどという方と対談するハメになったか解らないのだが、まあ、あの人は『笑い』という名著も書いているということだろうしと、そのへんの恐ろしいほど安易な企画に編集部が乗ってしまったからなのだろう


どうせ哲学者ならニーチェなんかに興味があるかと言わせてもらったら、少しハイブロウすぎるからと断られてしまった。

いま考えれば、豪華でありえないメンバーたちによる“遊び心”の本がありました。和田誠さんが絵を担当し、山下洋輔さんもいるからして、それなりにちゃんと“遊んだ”のだろうと推察します。開高健×ヒトラーの回などは内容からして構成作家・ライターのものとは思えません。

いずれにせよ、タモさん(以下タモリ)の架空対談は誌面上で実現しました。お互いに知らない状態から会話が始まります。前半タモリがユダヤ人ジョークで怒らせ、ベルクソンが退場。後日、ハナモゲラ語を使った謝罪の手紙を送り、再度対談を行うという凝った構成。ここもタモリっぽい。

ここで架空対談の相手ということに立ち返ってみたいのです。『タモリのTOKYO坂道美学入門』や『講演大王』で語っていたことをふまえると、キルケゴールでもいいし、ハイデガーでもよかったはず。なぜベルクソンだったのか。彼が『笑い』でまるまる一冊本にしたことは承知の上、ベルクソンという人間そのものに興味が出てきました。

ベルクソンって、そもそも誰?

ベルクソンってエラい人

彼が何を考えていた人よりも、周りからどう思われていたか。ここからは入門書をベースにカンタンにひろってみます。『ベルクソン―“あいだ”の哲学の視点から (岩波新書) | 篠原 資明』には、こんなふうに描かれています。

・「(中略)ベルクソンの影響は20世紀哲学の重要著作に数えられる二冊のタイトルをみるだけで了解されよう。すなわち、ハイデガーの『存在と時間』と、ホワイトヘッドの『過程と実在』である。」

・「また、文学においても、ベルクソンと縁戚関係にあたったプルーストの大作『失われたときを求めて』を挙げるまでもなく、ベルクソンの時間哲学の影響はあまりにも大きい」

・「ベルクソンを20世紀最大の哲学者と見なしていた西田幾多郎や、晩年のベルクソンをパリに訊ねた九鬼周造など(中略)」

いや、どうやらすごいらしい人なのです。

そのすごさを入門書の言葉を借りて網羅的に伝えようとすると、こんな表現になるのだと思います。

ゴーギャンのタイトルにもある「われわれはどこから来たのか。われわれは何であるのか。われわれはどこへ行くのか」このような根源的な生成と存在の問題に対して、19世紀の科学革命の成果を取り入れ、また神と宗教から逃げず、問題的を行い、適切にアプローチしたこと。

ベルクソンと小林秀雄

実は哲学者以外でも日本人に多大な影響を与えています。その人物はあの小林秀雄。

・「端的にベルクソン主義者といえる人物としては、やはり、小林秀雄が挙げられるだろう。哲学者の全集で読破したのはベルクソンのものだけだと公言していた、この著名な批評家は、満を持すかのように取りくんだベルクソン論『感想』を未完のまま放棄することになった。」

小林秀雄の哲学は90%がベルクソンでできているという声もあります。直観を重んじる箇所などはとくにその影響が伺えます。

たとえばまずベルクソンの考え方 芸術家と直観の関係について

言語のヴェールとの関連で見れば、その何ものかは、よりはっきりするはずだ。というのも、同じ語で呼ばれているというだけで、差異があるところに、人は同じものしか見えない傾向があるからである。たとえば、白いチョークを、白と呼ぶだけで、紙の白さ、シャツの白さ、窓の外の雲の白さなどとの差異を、つい見失ってしまうのだ。

続いて、小林秀雄の美に関する考え方

美しい花がある、花の美しさという様なものはない。彼の花の観念の曖昧さについて頭を悩ます現代の哲学者の方が、化かされているに違いない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに神妙で深淵だから、彼はそう言っているのだ。『当麻』

「美しい花がある。花の美しさなどどいうものはない」という有名な文は、断片的な解釈ではありますが、ベルグソンの「直観」が下敷きになっているように感じます。

ちなみに『学生との対話』では、小林秀雄が「ベルクソンをお読みなさい」と学生たちに勧めています。いたるところでベルクソンが話の中に出てくるんですね。

ベルクソンと落語

中村昇『落語哲学』では、もちろんベルクソンの『笑い』の引用があるのですが、「回顧的錯覚」というベルクソンの概念を使って落語「甲府い」を解説しています。

ベルクソンに「回顧的錯覚」という概念がある。私がいま哲学を生業にしているのは、幼い頃詩について思い悩んでいたからだといったとしよう、しかし、幼い頃私は、漫画を描くのも好きだったし、プロレスもウルトラマンもお坊さんも好きだった。死について悩むだけの暗い子供だったわけではない。

なるほど、いまの状況から出発して、都合のいい原因をひとつ見つけて因果関係をつくることが「回顧的錯覚」。時間の流れのなかで「たまたま」という可能性が「かならず」という現実につぎつぎと変わっていく。

そういった不思議さに、因果をつけて錯覚してしまうのは、至極まっとうなこととも思えてきます。

ベルクソンがそもそも何を考えていたのか知りたくなってきます。

ベルクソンはこんなこと、考えていた

最後に、ベルクソンが考えていたことも少しは知っておきたい。ということで初学者のための良著『続・哲学用語図鑑』を引っぱりだして、断片的にクリップし、輪郭だけでも浮かび上げられればと思います。

・ベルクソンは、私が近くしたモノとそれに対する私の意識の2つ1組をイマージュと呼びました。そして世界は私のイマージュと他者のイマージュで成り立っていると考えました。

・ベルクソンにとって世界は単純な物質ではありません。かといって心の中だけにあるわけでもありません彼にとって世界とはイマージュの総体です。彼は物質と精神といった単純な二元論で世界をとらえませんでした。

・ベルクソンにとって時間とは、意識の中に感情や記憶が絶え間なくあらわれることで持続する、質的変化のことなのです。彼はこうした時間の性質を純粋持続(デュレ)と呼びました。

・時間は物質のように観察することも外側からみることもできません。ベルクソンは、世界のあり方を物質の数や量としてだけとらえる物理的な見方に異を唱え、純粋持続(デュレ)という考えを対置したのです。

心身二言論のデカルトや、物自体という概念を提唱したカントをふまえた考えのようです。

ベルクソンの時間論はむずかしいのですが、ほんとざっくりいえば、時間とは意識の流れであるという主張なのだと思います。時間は相対的であるというアインシュタインはどう感じたのでしょう。

ベルクソンご本人の本も読みたいなってことでありまして、初学者の入門書としては『精神のエネルギー 』、小林秀雄という点では『小林秀雄とベルクソン《増補版》「感想」を読む』。このあたりはチェックしておこうと思います。

かけあしになりましたが、最後はベルクソンを好いていた稲垣足穂の言葉で締めたいと思います。

「小林秀雄のベルクソンと稲垣足穂のベルクソンとの違いを知って貰いたい」『ヰタ・マキニカリス』

というわけで以上です!

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