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孤独

「人は誰しも孤独である」

最近、生活の中で孤独を感じることが多くなってきた。

なんだろう。この拭えない孤独感は。

あんなに周りに「僕という人間を認識してくれる人」がいた小学生や中学生時代。

高校から感じ始めた違和感。

何故だろう。


「あぁ、僕はいるよ。ここにいるよ。」


と言わんばかりのSNSの発達。
かく言う僕も、このnoteが1つの存在証明の手段となっているのだろう。

ここぞとばかりに今日あったことをSNSに書き込み、
「『こんなことがあった私』を見て。」と主張する。

ああ、やっぱりみんな孤独だ。


Instagramなんて自己主張の頂点である。
人の良い部分、生活の中のほんの一部の、1割にも満たない、上澄みの幸せや充実だけ取り上げてアップする。

“残りの9割以上の闇を隠して”


まあそれでも、よくよく考えてみれば当たり前の孤独なのかもしれない。

小学校や中学校では、こんな言葉をかけられる
「集団行動だ」
「皆と同じように動きなさい」


皆が薄々感じている、この間違った教育方針の話はさて置き、

みんな同じように動いているのだから孤独など感じることがないのが当たり前。
学校に行けば人がいて、家に帰っても家族がいて。
(いや、人それぞれか。)


そこから高校、大学と進学していくと、かけられる言葉は変化する。
「あなたのやりたいことはなに?」
「個性を出せ」
「人と違ったことをしなさい」


掌を返したかのような教育。
「人と同じことをする」ことが間違いになる時。

でも今まで教育された集団行動精神はこびりついて離れない。
それでも必死に、自分の道、自分だけの道を見つけようともがいてもがいてもがき苦しむ。

どこか苦しそうな人が多いのはこれが原因か。


そんな風な道のりを辿って気付くのは
「今、もがきすぎて苦しい」あるいは「疲れた」
ということ。


そして感じる孤独感。
とても大きな孤独感。


個性を探しに、皆バラバラとなる。拡散していく。


拡散していかないとダメなのはわかっている。
誰にも真似できない、代替の効かない自分にならないといけないのはわかっている。
卓越したスキルを身に付け、人と違う行動をし、常識を疑わなければいけないのはわかっている。
深い思考をするには一人の時間が圧倒的に必要であるということはわかっている。


ただ、それを続けることは、
すなわち孤独と向き合うということ。

価値というピラミッドを駆け上がれば上がるほど、
同じ階にいる人が減り、本質的に自分のことを理解してくれる人は居なくなるということ。

希少価値は、時には孤独感をも生み出す。

私はそれがどうしても憂鬱で仕方がない。

大業を成した人は、みな同じようなものを味わっていたのだろうか。

誰か、この孤独感を吹き飛ばす術を教えてくれ。



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小林和樹/ダイヤモンド
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