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❶比叡山の西麓に生まれる生源寺(滋賀県大津市坂本) 誕生した三津氏の館に、最澄が自ら建立した寺。最澄は14歳で近江国分寺で得度して、奈良の東大寺戒壇院で受戒し僧になった。 ❷比叡山を拠点にする延暦寺(滋賀県大津市坂本本町) 最澄は20歳で比叡山に草庵を結び、一乗止観院と名付けた。遣唐使で渡った唐から帰国した後も、第50代 桓武天皇の許可を得て比叡山を拠点に、唐から持ち帰った天台宗を広める活動をした。亡くなった後に、開創した時の年号をとって延暦寺とされた。 ❸4か所目の戒壇
菅原氏は大王の喪葬儀礼に従事した土師氏一族であったが、住んでいた地にちなみ改名した。道真の3代前から中国史を中心とした学者の家系となり、「菅家廊下」という私塾を運営。菅原 道真は藤原家の勢力に対抗する第59代 宇多天皇の信任を受け、多くの官職を歴任した。第60代 醍醐天皇の代では右大臣を務めるが、昌泰の変で大宰府外帥に降格され、2年後の903年、大宰府で亡くなった。連座して子息や関連の文官が処罰を受けた。 ❶住んでいた場所菅原院天満宮神社(京都市上京区堀松町) 菅原 道真
坂上田村麻呂は4代の天皇に仕えた。第50代 桓武天皇より征夷大将軍に任ぜられて陸奥鎮守府に赴き、蝦夷の首長・阿弖流為を連れ帰京した。 ❶ 田村麻呂の氏寺、清水寺にある阿弖流為の碑(京都市東山区清水) ❷ 山科の墓所(京都市山科区勧修寺東栗栖野町) 平安京を守るように立ったまま東を向いて埋葬されたと伝わる。 【全国の史跡】 ❶ 鎮守府兼陸奥国府 多賀城政庁跡 (宮城県多賀城市市川城前) 724年築城。 ❷ 伝 阿弖流為・母禮の塚 (大阪府枚方市牧野阪) 片埜神社隣
空海は讃岐国から都に出て、おじの元で勉強し官僚になるため大学に入るが、中途で辞め、私度僧になる。東大寺戒壇院で得度し、遣唐使となった。 ❶ 唐から帰国し逗留した神護寺809年、京に入ることを許された空海は和気氏の氏寺・高雄山寺に逗留した。第52代 嵯峨天皇との距離も近く、交流が始まる。先に高雄山寺で講義をした最澄とのやりとりの舞台ともなった。824年に寺名を高雄山寺から神護寺に改める。 808年に十住心論を清書した堂宇が新京極通にある。十住心院と言われていたが、後に第55
和気氏は第11代 垂仁天皇の子・鐸石別命を祖とする氏族。曾孫の弟彦王が第14代 仲哀天皇の皇后・神功皇后に反逆した忍熊王を和気に関を作り滅ぼした功により、備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)を与えられて土着し、代々郡司などを勤めた。その12代後裔が広虫・清麻呂となる。 郡司の子息は朝廷に仕えるのが習わしで、まず姉の広虫が采女として平城京に行き、第46代 孝謙天皇に仕えた。後を追い武官として仕えた清麻呂は、769年道鏡が皇位に就こうとした際、否定する信託を宇佐神宮から持ち帰り流
秦氏は4世紀頃に秦国から百済を経由して日本に渡り帰化した弓月君を中心とする氏族。養蚕や土木技術などに秀で、秦酒公は第21代 織絹雄略天皇に禹都萬佐(うつまさ=太秦)の姓を賜った。 秦河勝は聖徳太子に仕え、四天王寺の建立や悲田院などの慈善事業に携わったと伝わる。丁未の乱では物部守屋との戦いに寄与し、聖徳太子に随行して山城国(京都)に拠点を築いた。 ❶ 本拠地・太秦広隆寺(京都市右京区太秦蜂岡町) 603年または622年、秦河勝創建の秦氏の氏寺。本尊は聖徳太子。 木嶋坐天照
文徳天皇は 842年 伴氏・橘氏が排斥された『承和の変』の後に、藤原良房に推され天皇となった。良房の娘・明子との皇子は、3人の兄達を退け第56代 清和天皇となる。文徳天皇は祖父・藤原冬嗣の願った藤原北家の興隆に立ち会うこととなった。 ❶ 大原野神社(京都市西京区大原野南春日町) 850年、文徳天皇は祖父・藤原冬嗣の願いを思い、藤原氏のため大原野神社に壮麗な社殿を造営した。大原野神社は750年創建で、桓武天皇が平城京から長岡京へ遷都した際、皇后の藤原乙牟漏が藤原氏の氏神である
清和天皇は9歳で即位し、祖父・藤原 良房が摂政として政務を行った。876年、第1皇子である9歳の第57代 陽成天皇に譲位した後、27歳で出家し畿内の寺院を托鉢巡行した。愛宕山麓の水尾で苦行をして隠遁地とするが、寺院建立中に粟田の円覚寺で病のため崩御した。 ❶生誕地宗像神社(京都市上京区京都御苑) 現在の京都御苑内にある。曾祖父・藤原 冬嗣の頃より藤原氏の邸宅だった。 ❷御霊会を開催神泉苑(京都市中京区御池通神泉苑町東入る門前町) 858年に京都で洪水があり、862年には干
❶平安京 大極殿遺跡碑(京都市中京区聚楽廻東町) ❷平安神宮(京都市左京区岡崎西天王町) 1895年、内国勧業博覧会開催に際し、平安遷都1100年を記念して桓武天皇を御祭神に創建。大内裏の朝堂院や応天門が、8分の5の大きさで復元された。 ❸桓武天皇 柏原陵(京都市伏見区桃山町永井久太郎) 桓武天皇は 775年 父・光仁天皇の後継者問題を経て781年皇位に就く。784年長岡京へ遷都するが、藤原種継暗殺事件で和気清麻呂らの提言で 794年 平安京に遷都。蝦夷征討では坂上田村
早良親王は第50代 桓武天皇の弟。781年に皇太子となったが、長岡京造営の際、藤原種継暗殺に連座したという疑いを受け幽閉された。淡路国に配流の途中49歳で薨去。後に『御霊』という考えのもととなった。 ❶幽閉場所乙訓寺(京都府長岡京市今里) 早良親王は長岡京のそばの乙訓寺に幽閉され、無実を訴えて絶食したと伝わる。 811年 第52代 嵯峨天皇により別当に空海が任じられ、乙訓寺に逗留した。 ❷薨去の場所高瀬神社(大阪府守口市馬場町) 淡路島に配流される途中、この辺りで亡くな