「「砂の城/遠藤周作」を読んで」
・25「負けちゃだめだよ。うつくしいものは消えないんだから」
・40「」
遠藤周作著、「砂の城」。
東野圭吾の手紙という作品と通うものがあると感じた。
世間に大々的に報じられる事件。
それらの情報を受け取る側、傍観者である私たちは、報道時に極端に切り取られた情報だけに触れている。
それを目の前に意見を述べる私たちは滑稽であり、とても浅はかであるということをどうしても忘れてしまう。
報道される容疑者の残虐さに恐れおののき憎んでしまうけど、
私たちの浅はかさのその残虐さも決して忘れてはいけない。自覚しなくてはいけない、と教えられる。
他の動物と大きく異なり、人間は誕生てから数年は決して一人で生き抜くことはできない。生みの親でなくとも、自分より強い存在を頼りにしなくては決して命を繋いでいくことは不可能なのである。
どんな人にもそんな時代があったということ。どんな人も誰か強い存在に大切に守れていたということ。大切に一生懸命守っている人がいたということ。
生まれながらにして「悪人」はいないし、
そもそも「悪」の面しか有していない人なんて存在していないのだ。
誰もがダイヤモンドのように沢山の面を有していて、その中の一面に「悪」もあり「善」もあり「優」だって「憎」だってあるということ。
この書籍の題材である「良いもの」「美しい」もの。
とても漠然としている。
主人公も呆然としてしまっている。
そしてきっと、どんどんと多様化しているのではないだろうか。
自分にとってのそれを見つけること、見失うことなく、ぶれずにそれに突き進むこと、どんなに難しいことか。
でも、まさに「絶望」してはいけない。
途方に暮れ、呆然とした上で、そこから立ち上がり、踏ん張って生きていかなくてはならないのだと思う。
「病気」は明らかに、だれにとっても確かな「悪」だ。
翻って、それらと戦うこと、向き合うことは「善」である。
それって凄く安心感があるな、って思ってしまった。
「悪」があれば同時に「善」が立ち上がる。
「悪」があると安心することができる。
だから自ずと「悪」の存在を欲しているのではないだろうか。
確かな悪は「病気」。
犯罪も悪を感じるけど、「善」も含む大きなものの中の小さな一片であると考えると一概に100%確かな悪とは言い難い。
そう考えると恵まれたこの社会において確かな「悪」はほとんどない。
だからこそ「善」も見つかりにくい。
「自分」の中になる「悪」を自覚して、それと戦うこと。
その中で自然と私らしい私だけの「善」が立ち上がってくるのかもしれない。
砂の城では、逮捕・射殺という極端な形で二人にとって「美しいもの」「っ善いもの」がことごとくもはや残酷なまでに事実として否定された。
でもきっと、ここまで極端に浮かび上がらないにせよ、誰もに歪みがあり、でもそれを必死に、もしくはとても自然に正当化している節があるのだと思う。
また、時代によっての見え方の違いもあるかもしれない。
私は二人をどこか軽蔑し否定してしまっているのかもしれない。
でも彼らは今の私と同じように「自分の納得する選択」をしているに過ぎない。
私と彼らは何も変わらないのかもしれない、そう思うと怖くなる。
法律は守る。
→法律が正しいとは限らない。変え行くためにそれを破り戦う必要があるのかもしれない。
友人・家族・恋人、どれだけ自分にとって大切で特別な存在であろうと「生き方」を委ねてはいけない。
でも、それに「幸せ」を感じる人もいるのだろうか。そういう形もあるのかもしれないと考えると、少なくとも私はしたくないと思う。
頑なさと柔軟さのバランス。
これは本当に難しい。途方に暮れてしまう。
頑なになる部分は、なるべくなるべくそぎ落とすように点検し、小さなものにしておく。
その小さな部分を満たすために、その方法はなるべく柔軟に軽やかに考えてみる。
「どうしても」という一点は何がなんだも死守し、それ以外は軽やかに譲れるように、手放せるように。
そんな生き方はどうだろうか。
まだまだ程遠いけれど、そんな生き方を。