「 「苦しみ」と仲良くやっていこうという提案/仏教の視点から 」2023/08/24
苦労は困難はその人の魅力になる。
苦しさを乗り越えた人には不思議な魅力が宿る。
その考え方はもう古いのだろうか。
苦労や困難は極力減らされ、なるべく出会わないに越したことはないのか。
それでも、どうしようもなく否定できない自分がいる。
何重にも予防線が張り巡らされたこの時代。
昔は技術がないがゆえに、訪れる苦しみを無力にただただ迎えるという選択しかなかったのだ。
明日どころか、ほんの先の未来でさえ予想することはできなかった、と考えると、現代よりも何倍も自然や病気などの困難は恐ろしいものとして存在していただろうと容易に想像することができる。神が必要とされる理由もわかってくる。
やがて困難を迎え打つ技術が発展を遂げ、現在に至る。
先人のおかげで色々なしがらみや枷がすこしずつ解き放たれている。
きっと想像もできないくらいの沢山の恩恵を受けている。
欠きや傾きを沢山有している私は、もし今ではない時代に生きていたらと想像してゾッとしてしまうことがある。
ただどれほど技術が発展しようと、次々に困難は現れるものなのかもしれない。
どんなに環境が整備され、予防線が張り巡らされたとしても、困難はきっとどこかに隙間を見つけて静かに忍び寄って私たちの前に立ち現れるのかもしれない。
というよりも、私たちは「困難」をどんな状況からも見出してしまう生き物なのかもしれないとすら思ってしまう。
そして、この流動的に移ろう世界で、やはり完全に未来の予測はできないのだと思う。
コロナ。病気。家族の死。友人や恋人との別れ。自然の脅威。
四苦八苦。苦しみについての一例として、仏語としての意味は下記の通りだ。
根本的な苦を生・老・病・死の四苦とする。
・生苦 衆生生まれることに起因する苦しみ。
・老苦 老いていくことに起因する苦しみ。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる。
・病苦 様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる。
・死苦 死ぬことへの恐怖、その先の不安などの自覚。免れることのできない死という苦しみ。また、死ぬときの苦しみ、あるいは死によって生ずるさまざまな苦しみなど。
根本的な四つの苦に加え、
・愛別離苦 親・兄弟・妻子など愛する者と生別・死別する苦しみ。愛する者と別離すること
・怨憎会苦 怨み憎んでいる者に会う苦しみ
・求不得苦 求める物が思うように得られない苦しみ
・五蘊取蘊 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならない苦しみ
の四つの苦を合わせて八苦と呼ぶ。
仏教の歴史は諸説あるが、釈迦が入滅してから2565年目となるという。
そんなずっと昔から苦しみは人とともにあり続けたということ。
どうしても「自分だけがどうして…」と思ってしまうが、全ての人に共通にあるものだと捉える軽やかさも有すことができたらいいのかもしれない。
大きく心を動じる必要がないくらい当たり前のこと、と思えたら。
いざ苦しみの渦中に立つと、思考の柔らかさがなくなってしまうが、忘れずにいたい。
苦しみを超えた時、もうひとつ魅力的な存在になれるかもしれないこと。
人は苦しみをどんな時も見つけてしまう不思議な生き物だということ。
だったらその逆の「楽しさ」や「ときめき」も見出せる術を備えているかもしれないということ。
そして、人はずっとずっと昔から「苦しみ」と共にあったということ。
そんなことを考えていたら、
折り合いをつけて仲良くやっていく道を見つけた方がいいような、そんな気がしてきてしまう。
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