○ 『みんな水の中』とさまざまな青、半透明のヴェールを纏って
家族と過ごす年末年始、20代後半になっても家族や両親の実家に戻ればその関係のなかで子ども扱いをされる。家父長を中心に据えた暗黙の序列が揺らがないよう、従属的、受動的な姿勢をやんわりと強いられる。正月は毎年、親戚に会う前から自分に蓋をするような心持ちを準備していく。大人として尊重されない場所で自分を出してもその度にポキポキと折られて人知れず静かに傷ついて(周到に、不要に自尊心を損ねられて)帰ってくる。
初詣なども済ませ、正月のあの何とも言えない儀式的な雰囲気も薄れて、ようやく自分の時間に戻ってくる。曖昧にでも自分に不本意なこと、不快なことには応答しなかったことがせめてもの抵抗、と思い返す。
横道誠『みんな水の中 「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』読み始める。
ふと、横道誠さんのことを知ったのって何がきっかけだったんだっけ。
こういうとき、日記アプリの検索機能が役立つ。
一番古い結果は2022年5月、『イスタンブールで青に溺れる』が出版されて、本屋に並ぶのを見に行ったのがはっきりとしたきっかけだったらしい。
「図書館の帰りに駅前の本屋で横道誠『イスタンブールで青に溺れる』を見つけて、立ち読み、初の海外旅行がウィーンだったこと(私も初めて訪れたヨーロッパはウィーン)、ああわかる、ところがあって購入。」
全編エッセイであることもあって数日で面白く読み終えた。
少し経って、2023年2月に『ニューロダイバーシティ』(青山誠さんとの編著)と『創作者の体感世界』を購入して、後者をすぐ読む。9月に柴崎友香さん『あらゆることは今起こる』を読んでいる途中で、やっぱり『みんな水の中』も読みたいな、という気持ちがあらためて湧いてきて購入。自分ごとというのもあり、仕事時間のなかで読むのは負担になりそうだったので、年末年始の宙に浮かぶような何にも属さない時間を利用して読む。せっかくの長期休みだから、浸りながらじっくり読み進めたい。
本書は障害の社会モデル(障害の発生場所を環境に見る。対となる立場は「医学モデル」で障害の発生場所を個人に見る。)の立場から発達障害を「脳の多様性」として捉え直し、その1つとして扱われる「自閉スペクトラム症」の当事者である著者が、自閉スペクトラム症とその周辺について、参加している自助会などのコミュニティでの交流、当事者研究の成果としてまとめた一冊。
詩、論文、小説の3つの異なるアプローチで構成され、一冊の本を読みながら異なる場所を経験するような、たとえば現代美術館で絵画、彫刻、インスタレーションを鑑賞するような、一方行に進む読書とは異なる空間的な読書体験をもたらしている。それに、論文内では横道さんが見ている世界を表した写真がところどころに展示されているのにも出くわす。
読了してまず驚くのは、自閉スペクトラム症の周辺を説明するためのキーワードとトピックの多さ。111のキーワードが互いに関係し合いながら連ねられており、多いながらも具体的なエピソードとしての密度も高い。
物事に対する得意/不得意が、ときに極端な発達障害を「発達凸凹」と言いかえてみる、という意見について冒頭で触れられる。私自身も「凸凹」を凸の方である集中力とか情報処理能力みたいな部分で、学校教育などの足並みを揃えての学習のタイミングでなく、時間をかけながら自分に合った方法と継続可能なスピード感を探り、大人になりながら補い、埋め合わせてきたという実感がある。
読み進めるなかで共感したASD(自閉スペクトラム症)に共通するとされる感覚は、外部の認識や接触の際に生じる「水フィルター」と「ガラス越し」、「ばらける体」。幼少期から馴染み深い。
私にとっては半透明のヴェール。周囲から自分をひとりでに守りたいと感じるとき、ヴェールを被せる。ハロウィンのおばけの仮装みたいに、一枚の薄い大きな布を頭から全身にすっぽりと被って風を受けながら歩く感じ。気分では透明マントみたいな効果があって、気配も消してくれる。視界は周囲の反射光で白っぽくぼんやりとし、周囲の音は流し聞きするラジオの音声のように意味を持たなくなっていく。そんな、身体をなしにして虫が飛ぶような軽さで周囲を把握しようとする感覚は幼少期から馴染み深い。
ウィリアムズや綾屋が「ガラス越し」とたとえるような、周囲(定型発達者)との断絶感を、私は「フェンス越し」のように感じていた。よく田舎の駐車場の敷地を示すのに設けられている針金を編んで作られたフェンス。空気や空間は共有しているとわかるのに、どうしてか容易にあちら側には加わることができない。ただ、それは私にとって「断絶感」と言うほどの強い疎外感を与えていたのではなく、むしろ互いが心理的安全性を担保するための緩やかなバリケードのように感じていた。どちらかの意思によって強制的に設けられたものというよりも、互いにとって適切なゾーニングというか。
馴染みのない身体の動き、かつその順序が規定されており正確に再現しなければならないときとか、身体がばらけていく感じがする。大体は落ち着いて進めればどうにかなるのだが、それに取り組みはじめるときの、ばらけていきそうになる身体のパーツを繋ぎ止めておかなければ、というヒリヒリとした緊張感には覚えがある。
五感に関するトピックのなかで横道さんは「いろんなものを食べると、いろんな味がして体がばらけそうになる」と書いている。私は何種類かのおかずがワンプレートにまとめられている食事やビュッフェでいろんな料理を取るのが好きなので、いろんな味がするときに体がばらけそうになったことはなく、それはどんな感じだろうと、体験してみたくなる。
現在の困りごとと照らして読んだのは、無自覚な「医学モデル」的立場から「障害」について独断的に推測・判断されることに対する歯痒さと、周囲との意思疎通の難しさについて。
発達障害者だけでなく定型発達者もまた脳の多様性を生きているということは前提とされているが、発達障害者と定型発達者は異なる文化を生きている(WindowsとMacの違いともたとえられる)とすると両者の間で起こる齟齬や理解し難さに対する解決の糸口は見えやすくなる。
冒頭「医学的言説は本人の分身ではない」の小見出しが示す通り、それは特性を説明する客観的な一側面でしかない。発達障害の診断基準を提供するDSM-5もまた「異質なものを冷徹に観察する「健常者」(あるいは定型発達者)による独断的な視線に貫かれている」と指摘される。
ASD者の経験の主観を母語(原文)とし、客観をその翻訳とすると、「主語」があるべき主体の元に戻った、感じがする。病気や障害のある人は適切に(客観的に)自らの状態について説明することができないとして、話すことができるにもかかわらず先んじて口を塞がれるような感覚から解放されたように感じられた。
定型発達的な社会で働くなかで煩悶するのは人と人とのコミュニケーションにおいてばかりではない……。環境調整や業務の伝達方法においても言うことができる感じる。
健常者(あるいは定型発達者)は、現行の環境が自身に最適化されたものであることに自覚がないことが多いと私の経験上は感じる。「当然のこと」として認識しており、「普通」としか意識したことがないあまり「どうでもいい」とさえ思っているように思える。「どうでもいい普通」であるなら、こちらの要望から、周囲と交渉して環境調整したり、両者の折衷案を考案したりして変革してしまってもいいのではないか、というある種の図々しさとおせっかいみたいな気持ちで職場での伝達手段やワークフローにちょこちょこ変更を加えてみている。
ただ、定型発達者の存在までをも「社会」「環境」として客体化することはしたくないし、あってはならないと常に気に留めている。
発達障害を疑ったそのときに知りたかった情報に、今となってようやく出会う。
発達障害を疑ったとき、どのような機関を頼ればいいのかということが明確にならず、すぐに壁に直面した。具体的に何で困っているのか、ということで利用したい機関が決まるように思うのだが、さまざまな場面に困難があって何が致命的であるのかを判断し難く、それぞれが少しづつ良くなればそれで十分な気もした。検索して知ったひとつオーソドックスな方法は、精神科や心療内科を受診し診断書を得て、自立支援医療制度を利用したり、障害者手帳を取得し就労先に交渉したり、変更をする、という道のり。まず自分が診断書を得られるのか?ということがわからず受診したが、話を聞く限り診断は降りないのではないか(いわゆるグレーゾーン)との判断で、その後も数度5分診療を受けて、最終的に日常的な困りを解消していくために投薬治療を勧められたところで通院をやめてしまった。
発達障害を疑う随分前、19歳の頃から日記をつける習慣があったため、それを続けながら発達障害とその二次障害の当事者の本を読むことで理解を深め、通院と服薬でない困難の解消の方法を探っている。
近々利用したいと考えているのは、まずはカウンセリング、その後で自助グループへの参加だろうか。
外から与えられた先入観によって「障害」であるから頼るべきは「病院」となりがちだが、実際に自分に必要だったのは、自分と近い経験をしている人の話を聞くことや、自分の困りごとを心理的安全性のなかで打ち明け、相談をする相手を持つことだと気づけた。
いろいろと考えながら、病院に行って医者の意見に耳を傾けてみること(何かダメージを負ったが。病院に行くことって私にとって本当に疲れることだ)、投薬治療をするかどうか検討することなど医学的なアプローチを頼ろうとする経験も今となってはあってもいいと思えるけれど、みんながみんな同じように右往左往しているのだとしたら、より早く必要な方法にアクセスできるに越したことはないと思う。
当事者の視点から他の当事者の体験に対して、温度に対する鈍感さについて「他の器官の感覚過敏に翻弄されたりして、気が回らないのかもしれない」と推測したり、エコラリア(オウム返し)に「言語運用上の燃費の良さ」を見たり、一見無意味である、矛盾するように思える状態に対して、主体の個別具体的な事情がこれまで推測されてこなかったひとつひとつの可能性として示唆されていくのは興味深く、自助グループやオープンダイアローグでは数えきれないほどそのような場が生起するのだろうと想像する。
文学と芸術鑑賞による身体が(から)自由になり疲れが取れるような癒しの効能、「環世界」や「中動態」の概念、東田直樹さんの著書、デヴィッド・リンチの映画(特に好きなのが本書にも取り上げられた『マルホランド・ドライヴ』!)など、これまで私が関心を寄せてきた物事。この本にこのようにまとめられているのを読んでから振り返ると何か遠回りをしてきたかのようだけれど、知らず知らずに私も内なる仲間の存在をあらゆる領域に求めて収集してきたのだとわかる。他者に説明してみるとあれこれごちゃごちゃに思われそうな自分の好みも、自分では何か一体感があると感じていて、こうしてひとつ芯が通ったようで嬉しい。
この本の人称が「私たち」とされるのも本を読み進めていく経験のなかで稀有なものであるように感じる。その「私たち」とは冒頭に紹介される作家や研究者、当事者研究で出会われた「発達仲間」、この本を構成している当事者の一人ひとりのことだと思うけれど、今この文章を辿っている自分自身までもがそのひとりとして含まれているような思いで、私自身が整理し説明できなかった側面について言葉を獲得していくような快さと安堵感を覚える。
一冊の本のなかで当事者の自己の内面を深く広く探る過程から、環境や社会の調整可能性にまで導いてくれること、本当にありがたいと感じた。
この本を読み終えて、定型発達的な社会に働きながら私はずっとうっすらと心細さを感じているのだと気がつく。自分の言動の可動域や奥行きは、周囲にいる人たちの病識(発達障害に対しては症識と言ったらいいのだろうか)と理解によるところも大きい。ASD当事者であるから必ずしも同じ感覚、経験を持っているわけではないけれど、近い感覚での共感可能性を持つ人が周囲にいると感じられたらどれだけ気楽だろうと想像する。
横道誠・青山誠 編著『ニューロマイノリティ 発達障害の子どもたちを内側から理解する』続けて読みたいけれど、仕事はじまる……。読みたい本に後ろ髪を引かれながら、意識から溢さないよう横目に留めながら毎日を並走する。そのために買って、部屋に積んでいる。
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週末の夜、お節の残りの伊達巻をつまみながら、クリスマスに飲みそびれたクランベリーのフレーバースパークリングワインを小さい陶のマグカップで飲む。冬休みを長引かせたくて遅くまで「Shlinkー精神科医ヨワイ」を見ている。