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悪魔の証明、刹那の肯定〜「新実存主義」から「ブルーピリオド」、「中空構造」に至るまで〜

 コロナの時期によくテレビに出ていた哲学者、マルクス・ガブリエル。その時期に本を買ったのだが結局読まずに3〜4年が経ち、あの時見ていたテレビで彼が何を語っていたかもすっかり忘れてしまい、ただ彼が東京の街を颯爽と歩きながらそれっぽいことを語る画しか思い出せない。つくづく、あの時期にレコーダーの価値を過小評価していた自分が悔やまれる。そしてそんな自分の過去の行いを悔やみながら、渋々本を読み始めるのである。

 彼の試みは、要するに「ない」ことを説明するために無数の偽を作り出そうとしているというように読めた。何か一つの「ある」を証明しようとするのではなく、「ない」ことを証明しようとするために、無数の「『ある』なんてウソだね」という歴史を積み重ねる行為。その果てにしか、「心という語で表せるたったひとつのものなど存在しない」という確信には至らないのだろう。本書では差し当たり、「ある」論の一つの究極である自然主義を批判するところから始まる。この世のすべては、ある共通のプログラムにより記述・予期されたひとつのリターンに過ぎないという考え方に立つのが自然主義(だと理解した)であるのだけれども、マルクス・ガブリエルはこの自然主義が飲み込めるほど心は甘くないぜ、ということを書いている。

 そのために彼は、「自然主義は『ない』ものの存在をそもそも認められないので、『ない』ものがあるという主張に立ち向かえません」という論理を持ち出し、「立ち向かえないということは、すべてプログラムされているとは言い切れないので、逆説的に『ない』ものを証明してしまいますね?」みたいなことを言っている。すごくネチネチした発想だなと思うし、禅問答をさせられているような気分になる。彼のいう「ない」を証明するには、こういった「ある」論をしらみつぶしにしていく必要があるということなのだろう。そのあとで示される「条件モデル」は、「精神geist」の起動には無数のスイッチパターンがあって記述できるようなもんじゃないよ、ということなのかなと理解した。
 「『ない』ことを証明する」という言葉の響きからは、「悪魔の証明」というものを連想させるが、なるほどこうやって浮かび上がらせることもできるのだなと。なるほどの気持ちである。

 読みながら、「精神geist」は何か雲のような、霧のようなイメージであるように感じられた。そのまま読み進めていった時に脳裏によぎったのは、「ブルーピリオド」24話で矢口八虎が描いていた絵のイメージ。

「ブルーピリオド」24話より

 実体のないもの、極めて赤裸々なものを暴き出すために、その周囲を塗りつぶしていくという作業。そうすることで、見出したいものが初めて見出せる。というのは非常に骨の折れる作業ではあるが、一方である種の本質を示すためにはこうする他ないのではないかと思うところもある。
 矢口はこの手法を、大学入試中という時間の制約が発生するところで功利的に導き出しているわけだが、しかしこの手法はまさしく彼自身を表現することにもつながっていく。周囲が埋め尽くされていく中で、自分自身だけが「ありのまま」。そしてそれは、矢口にとっては頼りなく情けない姿なのだという。その頼りなさを、矢口は「書かない」ことによって作り出そうとした、というわけである。真ん中にある人の影は、当然矢口自身ということになる。

 この「書かない」ことによって描き出される矢口の姿は、どことなくマルクス・ガブリエルの言うところの「精神geist」に似通ったものがあるようにも見える。紡ぎ出され方が似ているからなのだろう。その中に描き出されるものは、この先の矢口の人生経験を経て変わっていくのかもしれない。そう思うと、「ブルーピリオド」の話の展開によっては、いずれまた「人」そのものを描くことで何かを表現させようとするタイミングが出てくるのではないだろうか。
 ちなみに矢口は、この頼りない自分自身の姿はあくまで「自分から見えている世界」であり、それがみんなにとっても同じものというわけではないのだ、という気付きをも入試中に得ている。「『自分=世界』ではない」という考え方の根底にはどことなくポストモダンの香りも感じられる。「精神geist」の記述できなさというところにも、ある種の相対主義的なものの入り込む余地があるように見受けられなくもない。

 少し視点を変える。

 日本を描く際のひとつのモチーフとして語られるのが「中空構造」である。これは河合隼雄が唱えた言葉で、この言葉が示す概念も無数の別の言葉で語られてはいるのだが、いろいろ触れる中でこの「中空構造」が一番表象的にも分かりやすく示されているなと思った。要するに、日本という国は中心、軸がカラッポなのである。カラッポだから悪いということではなくて、カラッポだからこそ無数の発想が入り込む余地があるということ。マルクス・ガブリエルの語る「新実存主義」が示す「精神geist」は、この「中空構造」に何か通ずるものがあるように感じられる。彼が「精神geist」を示すために、「精神geistならざるもの」を書き切っていったように、日本なるものを示すためには、おそらく無数の「日本ならざるもの」を書き切っていかなければならないのかもしれない。そうすることで初めて日本の輪郭は浮かび上がる。
 それは無数の発想が入り込む余地があるゆえに、時に極めて刹那的な、当人自身にもその意味を読み取れないものすらも入り込むことができる。「精神geist」のモデルから見ても明らかだろう。例えば、ある日の夕焼けを見た時に芽生えた一瞬の感情というものを説明しようといったところで、それが何からどのようにもたらされたのかというのはおそらく本人にもわからない。無数のスイッチパターンの、あれとそれとこれが作動したのだろうが、作動の機序も、スイッチの場所も定かではない。それは、刹那の中で紡ぎ出され、刹那のうちに消えていくものである。マルクス・ガブリエルの「新実存主義」は、そういったものを肯定しうるもののように思える。彼の書きぶりは、そうした説明し難いものへの憧憬を隠していないようにも感じられる。ちなみに、この刹那の肯定を日本(=中空構造)に置き換えれば、それは時に「カミカゼ」「ハラキリ」のモチーフを生み出していくことにもなったのだろう。

 ところで、つらつら書いたくせに「新実存主義」は第1章しか読んでいない。第1章がマルクス・ガブリエルの論考であり、第2章以降は他の研究者による論評と、彼自身による応答となる。全然わからない言葉がたくさん出てきたので読み進めるのに疲れてしまった。つくづく自分は「哲学」なるものをガワだけ見ているんだよなと痛感する次第であるが、とりあえずこの本を読むことで、「形而上学」なる読み方のわからない漢字の意味を、ようやく自分でも説明できるようになった気がした。wikipediaからの逃走は果たして実現しうるだろうか。

 あと余談だが、「自然主義」って要するにニヒリズムとか予定説と同じことよね?と思って調べていたら、そういうことを書いている人がやはりいた。年下だった。ひえー。


 以下は「新実存主義」を読むにあたって自分が全く分かっていなかった、もしくは調べ直した言葉のリンク一覧。


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伊住 向庸(いずみ・こうよう)
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