センロ・スケープ 時間というレールの上で走るぼくらへ 日々風呂日記#21
路面電車の走る風景はランドスケープだ。とぼくは思う。
当たり前か。風景だもの。
いやでも、少し違う。
路面電車が走る街
路面電車が走っている都市が今どれくらいあるか、正直わからない。
昨今はLRT(ライトレールトランジット (Light rail transit))などの環境配慮や社会福祉の面からの普及の事例もありそうだから、余計にわからない。相変わらずの勉強不足が、我ながら腹立たしい。
でもそれとは少し違って、昔ながらの路面電車がぼくの街には走っている。
ちゃんと古い路面電車は珍しいんじゃないかと思う。たぶん。
路面電車のノスタルジー
古い路面電車は、絶妙なスピード感と、その独特の揺れ、ガラスの薄さ、少し頼りない露出した運転席など、とても趣深いノスタルジーに溢れている。
みんないつか一度は乗って体感して欲しい。
歩いてるとも走ってるとも、車に乗ってるでも自転車に乗ってるでもない速度で、体いっぱいに街を感じながら移動する感覚。
確かにそこにある、美しい自分の街を再発見できるはずだ。
それだけで十分かもしれない。
でも、それだけではない、とも思う。
自由と時間の不可逆性のメタファーとしてのセンロ
寺山修司が、ぼくは電車で生まれたから故郷はない。というようなことを言っていた、らしい。
まぁ嘘かほんとかはわからない。
だってかれはペテン師だから。
ぼくの敬愛してやまない志磨遼平というスーパーロックスターが、ラジオでそんなふうに言っていた。
ぼくはそれを聞いて、
かれは、そのどこまでも続いていくような景色から、
どこまでもいけそうな自由と後戻りできないような時間の不可逆性の象徴としての路面電車を、
美しさを語るものとしての自らの覚悟のメタファーとして、
そのメランコリックなコスモロジーを例えて言ったのではないか。と思った。
そして、誰しも人間として、生物として、時間のレールに乗って走るぼくたちだから、
その感覚はとても共感できるんじゃないか。と思った。
そんなところにぼくたちは、希望と、どうしようもない絶望を感じ、惹きつけられるのかもしれない。
ほら。やっぱり路面電車は、ランドスケープだ。
今日ののぼせ具合
今日ののぼせ具合は80%
昨日よりはマシな文章が書けたんじゃないかな?
どうだろうか。
そうだといいな。
それでは。おやすみなさい。
追記
もちろんセンロスケープなんて言葉はない。
その字面の悪さがぼくらしい。
わずかに救いがあるとすれば、韻を少し踏んでいることくらいだろうか。