川端竜平 Ryohei Kawabata
日々風呂日記のアーカイブです。毎日22時あたり、お風呂に浸かりながらの更新を目指してます。写真と文章からなる、ぼくなりの風景のキャプションみたいものです。
ぼくの左脳です。勉強になったなぁというものをここに。めっちゃ勉強になりました、ありがとうございます。
自分用アーカイブです、すいません。今時間なくて。必ず読ませていただきます。すいません。
ぼくの右脳です。直感的に、有無を言わさず好きだなぁと思った投稿のアーカイブ。美しい文章をありがとう。
ヒビフロの中でもこれは読んで欲しいなぁというベストセレクションです。1番読んで欲しい文章がここにあります。風景のようなおおらかな文章を目指しています。少しでもそれに近づけたかなというものを選んでいます。
休日の夜が、とても苦手だ。 明日が来る絶望感と恐怖に、押しつぶされそうになる。 休日の夜は、特にその感覚が強くなる。 そんな時、そんな恐怖から逃げたくて、 つい映画とか、アニメとか、漫画とかを、サブスクで見始めてしまう。 偽りの、作られた世界に、逃げたくて。 でも、それもまた後悔する。 その作られた世界たちは、いずれ、終わる。 その終わりに向かう感覚は、 また日常に戻る恐怖感をさらに増幅させる。 そんなことを、考えてしまうから、感じてしまうから、 休日の夜が、
昨日職場に携帯を置き忘れて帰ってしまった。 その為更新が出来ず、noteを始めてからは続いていた 毎日の更新が途絶えてしまった。 でも、正直何も変わらなかった。 今日はそんなことを書いてみようと思う。 継続 今書いた様に、連続投稿が一日途絶えてしまった。 でも、正直何も変わらなかった。 継続すると決めたことが出来なかった絶望も 悔しさもなんだか何もなくて、 ただ途絶えたという事実だけを受け入れた。 じゃあ、これまで短い間でも、 毎日続けた価値ってなんだろうか。
大切な誰かの、 大切なあなたの声が聞きたい。 ただそれだけの夜があってもいいと思う。
先ほど、大きな地震があったようだ。 ぼくの住んでいる場所は影響はなかったものの、 SNSを通じてだけれど、比較的大きな揺れであることを知る。 ただただみなさんの無事を祈りたい。 なんだかとても怖くなった。 今年は、コロナもあり散々な中でみんな希望を探して生きているのに。 もうこれ以上は、という思いが強い。 こんな時に何もできない自分は、 ただみなさんの無事を祈ることしかできない。 今日撮った写真は、春の兆しが芽吹いていた景色だ。 ただただ、季節も環境も健康も命もす
ぼくの実家の部屋にはロフト空間があって、 その天井は受けた光を溜め込み 暗くなると発光する模様がついた仕上げだ。 小さい頃からあまりに具象的すぎて 少しダサいな、なんて思っていたけれど、 最近少し見方が変わってきている。 今日は少し残業が長かった。 短めに書いてみたい。 第?の自然 この模様は光を溜め込んでいるらしい。 日中の自然光だけでなく、 蛍光灯などの人工光も溜め込んで 夜になるとそれによって発光するらしい。 それはよく考えると、 自然光でもなく、人工光でも
"ツマミ"って萌える。 今日はそんな話 好きみんなそれぞれ好きなものってあるはずだ 別にそれが特別に他に変えがたく好きだっていうものでなくても。 それに、これ!ジャストこれ!ってなくても あーなんとなーくこういうの好きだなっていうもの あーなんとなーくこの絵柄好き とか あーなんとなーくこの音楽好き とか じゃあその好き。ってなんだろうか ぼくはそういうどうしても立ち上がってきてしまうそんな感覚に耳を澄ませ考えるのが好きだ それは これしか考えられないっていう好
写真を撮って載せ始めてしばらく経つ なんだかどこかでみたような手法かもしれないし なぜぼくがその形式を取ることにしたのかなんて 知りたい人なんていないだろう でも今日はそんな話をしたい 日々の日常の隙間で写真を撮り続けること。 世界の終わり 世界の終わりなんて本当にくるだろうか その終わりが来た時にはどうしたって 僕らには何もできないだろうか 偉い人の予言は いつまで経っても世界の終わりを連れて来ないし でも少し考えてみる ぼくらは不可逆な時間の上で生きている
友人からminolta SR-1という古いカメラをもらった ぼくが生まれる前に作られたものだ このカメラでまだ写真は撮ってはいない でも、撮る前からわかることがある それは今のカメラみたいに超高解像度では このカメラではきっと撮れないということ でも、それでいい それがいい もちろんそれはノスタルジックな良さではない そこにぼくなりの"解像度"についての思いがある 解像度 解像度ってなんだろうか 写真にとってはいかに写実的に 対象物を取れるかという精度の値み
とことん落ちているようなタイトルにしたり 意味ありげなタイトルにしたり おかしなやつだ。と我ながら思う でもその振れ幅が紛れもないぼくで 個性であると信じたい そんなぼくだけれど ぼく1人でありたいと思うのと同じくらいに 人と同じ所を持っていたいとも思う 大事なのは全く同じ。ではなく 同じところがある。ということ ぼくはそれをそのままだけれど共感と呼んでいる ぼくは共感のパイを最大化したい だって心のどこか片隅で本気で戦争を無くしたい なんて考えているぼくはまだいる
ここのところいつも以上に内省的な文章がつづいて いよいよこうして外に向けて書く必要が あまりないのかな、なんて思っているけれど それでもやるとやらないが等価なら もうしばらく続けてみようかな そんな風に思う 意味なんて多分ないんだと思うけれど。 今日はそんな話かもしれない 意味 昨日もなんだか乱暴に書いていたけれど 意味を探すことに意味はあるのか ぼくはよくわからなくなる 意味なんてなくてもやればいいかもしれないし 意味があってもやらないということもいい 結局全ては
新しいもの。 どこだ。 新しいってなんだ。 誰も何もみたことないものか 文脈の読み換えか。文脈の跳躍的な召喚か なんだ。 なんだ。 新しいってなんだ 新しいことは所詮まだ塗られていないだけの場所を塗り潰すだけのような作業のように思える ただただ新しいと言われるパターンを作り出す事になんの意味があるのか たとえ新しいものであっても作る意味は何だ それをぼくがする意味は何だ ぼくにできるのか もう今さら無理なんじゃないか そんなこと考えている時点でもう終わっているのか
眠い。 ぼくは基本的にいつも24時には寝て4時に起きる 別に早起きしてるから意識が高いとか 惰眠を貪るのは悪だ、なんていうつもりは全くない ただいくら寝ても結局眠いんだから それなら早起きして眠いほうがいい なんて思っているのと ただそれ以上に 眠いと思考は確かに停止しそうになるけれど その方が余計なことを考えることも停止して ただ淡々とやるべき事をするモードにはいれる ただそれだけ。 そんな無我の中にでさえ立ち上ってくる どうしようもない感性と感覚をたぐり寄せた
大きいってなんだろう。 小さいってなんだろう。 大きさってなんだろう。 そんなこといつも考えているわけじゃないけれど ぼくたちは常に大きさみたいなものを感じている。 大きなビルや小さな住宅 大きな樹木や小さな草花 当たり前だけれどみんなそれぞれ大きさがある でもそれは絶対的なものではなくて あくまで相対的なもので それをスケールと呼ぶんだ、と以前書いた。 今日もぼくたちはスケールに埋もれている。 電線 今日歩いているとふとたくさんの線が 都市の中で交錯しているのを
松の葉に 月はゆつりぬ 黄葉の 過(す)ぐれや君が、逢はぬ夜(よ)ぞ多き 松の葉にさす月の位置も変わって行き、黄葉(もみじ)のように去って行ったあなたに逢わない夜がずいぶん多くなってしまった。という意味。らしい。赤葉が散るようにあなたがいなくなってしまったということを、月を見て思うこと。 ぼくたちは月を見て何を、誰を思えるだろうか。 和歌 ぼくは和歌が好きだ。昔から国語が割と好きだったけれど、その中でも和歌、基本的には百人一首の授業を聞いた時、とても不思議な気持ちになっ
世界一売れているものが1番良いものなら、カップラーメンが世界で一番美味いラーメンということになる。なんて言われたりする。本当だろうか。今日はそんなことを考えていた。 わかりやすい わかりやすいってなんだろうか。色んなわかりやすさがあるけれど、例えば直感とか、感覚とか、センスとか言われるもので捉えやすいものだろうか。でもぼくはいずれの言葉もあまり好きではない。直感は記憶だし、感覚は共感だし、センスは判断力だ。いずれもそれ自体がわかりやすいように翻訳されているような気がする。
ぼくは都市が好きだと思う。 その煌びやかさとか、新しさとか、そういうところに惹かれるのもあるけれど、それ以上に、あのどこにも属することなくただ漂うしかないあの空間が、心地いい。 カフェでお茶をしてても、仕事をしててオフィスに自分のデスクがあったって、どことなくそこに属することはできないような気持ちに、ぼくはなる。 それは一見とても悲しいようだけれど、逆にそれはぼくという1人の人間を過不足なくきちんと1人にしてくれるような気持ちになる。 部屋 例えば自分の部屋は、自分