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それは新たなる始まりなこと、農耕詩p20を添えて(2022/06/01)

これは模倣の模倣の模倣である。
罪悪感はない。
所詮、芸術なんて、模倣から始まっているのだから。

なんて、啖呵を切ってしまうと元も子もない。
でも、そうやって切り捨てていかないと前に進まない。
同じことをやろうと思っている節はあるが、
同じことができる自信はない。

ぼくにとって、元ネタの作家はそんなに影響を受けていない。
何冊かは読んでいるが、思想が相容れないところがある。
たとえば、昼間に男女が同じ部屋にいたらなにをするか、という疑問をとある本の中で問いとしてたてていた。
某世界的に有名な小説家ならそこでセックスをするだろうと言った。
そして、問いを立てた本人の答えはなにも起きないだそうだ。
その後に色々と説明をしていたが忘れたが、セックスにいくことファンタジー的な発想(これはぼくの言葉)であって、日常生活を送るにあたって毎日そんなことが起きてたらキリがないと思うみたいなことを言っていた。

言っていることは筋が通っていると思う。
ぼくもできるならば、そっちの選択肢を使っていきたいと思う。
でも、ドラマチックなこと劇的な瞬間、おんなじことを繰り返しで使ってしまったが、そこに欠けてしまうような気がした。
日常を書くのならいいが、
非日常を書きたいと思っている以上、
日常の平凡さと非日常の突飛さが際立たなければならない。

今、書いている作品がまさにそれだから書きながら自戒の念を込めながら打つ込んでいた。
チラ見せではないが、今回は純文学を書いているようで、純文学ではない。
一種のSF的な要素を組み込んでいる。
でも、大きく捉えれば、それは純文学の俎上に乗るテーマだ。
大枠で言うのであれば「持つ者の葛藤」だ。
「持っている」が故のジレンマだったり、悲劇だったり、喜びだったり、そんな話だ。

それを今ゆっくりと書いている。
半年後の文学フリマ東京の初出しに向けて書いている。
自分にとってはいいリハビリだと思っている。
ここ一年小説が書けていない。
なんか詩を書いたりとかしているし、
自分の中でそれなりに訳のわからん状態になっている。
文体もオーソドックスに戻っている。
やりたい文体もあるが、それは小慣れてから崩すとする。

ここまで書いて原稿落としたら、
自分のメンタルが豆腐のように脆かったと思ってください。
もしかしたら、滑らかプリンかもしれない。
そんな感じで半年切ってるけど、期待していてください。

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