【書評】宮部みゆき『魔術はささやく』

今回は宮部みゆき著の『魔術はささやく』(新潮社、1993年)の書評をしていきます。


【アンビバレンスとは】

突然ですが、皆さんは「アンビバレンス」を抱える瞬間がありますか?

そもそもアンビバレンスって何よと言う方のために意味を示しますと、

アンビバレンス(ambivalence)
同一対象に対して、愛と憎しみなどの相反する感情を同時に、または、交替して抱くこと。精神分析の用語。両面価値。両面価値感情。(デジタル大辞泉/小学館より引用)

とあります。

要するに、同じ人や物に対して相反する感情を抱くことという意味です。

親子という例をあげて説明します。

子からすると、自身を養ってくれる親に対して、少なからず尊敬の念を抱くと思います。

しかし、親の見たくはない一面を見てしまった時、そこには軽蔑という感情が生まれます。

すると、親という同一の対象に対し、尊敬と軽蔑という相反する感情を抱くことになります。

このような状況をアンビバレンスと言うのです。

 

さて、今回筆者がアンビバレンスについて説明したのは、本作がアンビバレンスをテーマとする本だからです。

【あらすじ】

以下に筆者なりのあらすじを提示します。

長い上に、ネタバレを含みますので、見たくない方は飛ばしてください。

キーワードにより、ある事件の関係者を操り、次々と自殺に追いやっていく謎の老人と、その謎に迫る主人公守。横領犯で行方不明の父親を持つ守は、叔父夫婦に育てられている。ある日、タクシー運転手である叔父が若い女性を轢き殺してしまう。実の父親に続き、育ての親である叔父までも罪を背負うと思われたその時、目撃者の男が現れる。その目撃者の証言により、叔父は釈放される。その後、守は目撃者である男の世話になるのだが、その男こそ、行方不明の父親を轢き殺した人物であった。それを謎の老人から知らされた守は、老人から男を裁く手段を与えられる。その手段を使って自ら裁くべきなのか。守は悩む。激しい葛藤の末、守の下した決断とは如何に。


守は男に対するアンビバレンスを如何に受け止め、どのような決断を下したのか。これが本作における最終的なアンビバレンスです。しかし作中にも、いくつものアンビバレンスが存在しています。本作を通じ、様々なアンビバレンスに触れることで、我々読者に、自身に内在するアンビバレンスと向き合わす効果があるように思います。

【名フレーズ】

作中にこのようなフレーズが登場します。

人間の心というのは、両手の指を組み合わせたような形をしているのではないかと思うことがあった。右手と左手の同じ指が、互い違いに組み合わされる。それと同じで、相反する二つの感情が背中合わせに向き合って、でも両方とも自分の指なのだ。

まさに本作を表したフレーズ。非常に巧みな表現だと思います。このフレーズは筆者が2番目に好きなフレーズです。(尚、1番目は『模倣犯』のあのフレーズ)

【読んでからは】

筆者には本作を通じ、自身に内在するアンビバレンスと向き合った結果、達した考えがあります。それは、相反する感情どちらも自分の感情なのだから、無理に結論を出そうとする必要もないということです。この概念を持っているだけで、日々発生するアンビバレンスに悩みすぎるということが少なくなりました。


本作ではアンビバレンスがモチーフとなっていますが、守のアンビバレンスに読者が理解を示せるのは、宮部みゆきの人物描写の緻密さにあることを痛感しました。

宮部みゆきというと執拗に登場人物の背景や描写を描くという印象がありますが、どの作品もそれが生きているのです。本作は特に人物描写が生きている作品だと感じました。


人間とはだれでもアンビバレンスを抱える生き物ですので、皆さんにもぜひ一度読んでいただきたいです。

以上です。



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