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江戸の全大名屋敷跡めぐり

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江戸にあった大名屋敷の痕跡を全て紹介します。建物・門はもちろん石垣、解説板なども含め、訪れる物がある場所は全てです。豊富な写真と境界地図もあります。場所などは基本幕末時のものを掲…
江戸にあった大名屋敷を見て回るのに必要な情報を提供します。石高上位の大名家から初め。不定期で追加し…
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記事一覧

金沢藩前田家上屋敷(東京大学本郷キャンパス)その3

明治期に建てられた前田家の本邸跡表高:103万石(加賀、能登、越中、全国1位) 所在地:文京区本郷7丁目 最寄り駅:東京メトロ丸の内線本郷三丁目、南北線東大前 明治になって建てられた本郷の前田家本邸ですが、20年ほど使われただけで、前田家は本邸を駒場に移します。東大が駒場と本郷で分かれていた施設を本郷にまとめる一環で、前田家は駒場と本郷の土地を交換します。 東大の都合ではあるのですが、豪壮な邸宅をあっさり手放して移るなど、さすが100万石の鷹揚さです。 邸宅跡は東大敷地と

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熊本藩細川家のその他の屋敷

歌舞伎座、ホテル雅叙園なども細川家屋敷跡54万石:(肥後、豊後、全国6位) 1)木挽町下屋敷(歌舞伎座など) 所在地:中央区銀座4-12から14の大部分 最寄り駅:東銀座駅  江戸時代の最末期に取得した屋敷のようです。ちょうど歌舞伎座の敷地と、その南東側の築地川までの間を含んだ比較的小規模な屋敷です。

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熊本藩細川家目白下屋敷(肥後細川庭園、和敬塾、永青文庫など)

明治以降も細川家の本邸となった場所54万石:(肥後、豊後) 所在地:文京区目白台1丁目1、21、26と22から25の大部分 最寄り駅:東京メトロ有楽町線江戸川橋駅、護国寺駅、副都心線雑司ヶ谷駅、都電早稲田駅  幕末に細川家の下屋敷となり、明治中期以降は細川家の本邸となりました。江戸時代は現在の幽霊坂のあたりまでが屋敷でしたが、明治になって現在の目白台運動公園あたりを買い足し、ここに壮大な邸宅を建てました。  しかし震災で損傷を受け、この部分を放棄し、昭和初期に現在の和敬塾敷

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熊本藩細川家浜町下屋敷(浜町公園など)

公園内に清正公寺があるわけ54万石:(肥後、豊後、全国6位) 所在地:中央区日本橋浜町2丁目のうち1から5、19から29、45から53、59の一部、浜町3丁目32など 最寄り駅:都営新宿線浜町駅  地図には細川家の名前がありませんが、水野出羽守・大岡兵庫頭やその下側の小さな旗本御家人屋敷と書かれている一帯です。  明治維新後は再び細川家一族の邸宅となりますが、関東大震災で壊滅。震災復興後の目玉となる浜町公園となりました。江戸時代以来の名庭園があったようですが、なくなってしま

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熊本藩細川家戸越下屋敷(戸越公園など)

10万坪の巨大屋敷54万石:(肥後、豊後、全国6位) 所在地:品川区豊町1、2丁目、戸越3丁目7、8、戸越4、5丁目、東中延1丁目4、5と3、6、10、12の一部 最寄り駅:東急大井町線下神明駅、戸越公園駅  この場所は幕末時点では細川家の屋敷ではなかったのですが、とてつもない規模の特筆すべき屋敷なのでご紹介します。しかしこの屋敷については不明な点も多く、詳細はわかりません。  細川家の資料や美術品を管理する永青文庫には「戸越御屋敷惣御絵図」という地図があり、これに従うと細

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熊本藩細川家八丁堀下屋敷(阪本小学校など)

第一番官立小学校の敷地に54万石:(肥後、豊後、全国6位) 所在地:日本橋兜町15の大部分 最寄り駅:東京メトロ東西線茅場町駅、日本橋駅  中央区立阪本小学校のある一角の大部分が八丁堀下屋敷でした。学校の由来を示したプレートにその旨記載してあります。阪本小学校は、1872年の学制によって全国に作られた小学校のうち、第一大区、第一中区、第一番官立小学校という「一、一、一」の学校でした。  隣接する中央区立坂本町公園は、1889年に開園した東京最初の市街地小公園で、その後の関東

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熊本藩細川家白金下屋敷(高輪皇族邸、高松中学校、都営高輪一丁目アパートなど)

大石内蔵助らが切腹した屋敷54万石:(肥後、豊後、全国6位) 所在地:港区高輪1丁目4、5の大部分、6から15、16の大部分 最寄り駅:東京メトロ南北線白金高輪駅  細川家は愛宕に中屋敷がありましたが、この屋敷は初代の細川忠興の隠居屋敷として用いられ、死後に別の大名の屋敷となりました。替地の屋敷も支藩の屋敷となったため、細川家は中屋敷がない藩となります。そしてこの白金下屋敷が中屋敷の扱いをされることもあったようです。  この屋敷が有名なのは、4つの大名家にお預けになった赤穂

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熊本藩細川家龍ノ口上屋敷(丸の内オアゾなど)

外様大名では最高の格の場所54万石:(肥後、豊後) 所在地:千代田区丸の内1丁目6 最寄り駅:東京駅、大手町駅  細川家は外様大名ですが、関ヶ原の合戦の際に細川幽斎が田辺城(舞鶴城)に籠城して西軍を引きつけ、子の忠興が妻の細川ガラシャを犠牲にしてまで東軍につくなどの行為で徳川家の信頼が厚く、何かと優遇されていました。江戸の大名屋敷の立地で最高の格式は「大手前」と呼ばれる現在の大手町一帯ですが、ここには親藩や譜代の大名屋敷しかありません。  大手前に次ぐ立地が「大名小路」と呼

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和歌山藩徳川家越中島抱屋敷など

多数の小屋敷を抱えていた紀州家55万石:(紀伊、伊勢、近江)  紀州家は多数の小屋敷を江戸中に抱えていた。  越中島抱屋敷、四谷外堀、四谷相之馬場、四谷南伊賀町抱屋敷、権田原下屋敷、松濤下屋敷、蠣殻蔵屋敷など。

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和歌山藩徳川家築地蔵屋敷(旧築地市場駐車場)

軍艦操練所にされてしまった蔵屋敷55万石:(紀伊、伊勢、近江) 所在地:中央区築地6-20 最寄り駅:東京メトロ築地駅、都営地下鉄勝どき駅  江戸期の地図上では講武所となっており、脇に「元紀伊殿拝領屋敷」とある。江戸時代後期、文政の大火以降蔵屋敷として使われてきた。それ以前は堀田家の中屋敷だった。

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和歌山藩徳川家千駄ヶ谷抱屋敷(東京体育館、津田塾大など)

55万石:(紀伊、伊勢、近江) 所在地:渋谷区千駄ヶ谷1丁目周辺 最寄り駅:JR千駄ヶ谷駅、都営地下鉄国立競技場前駅  千駄ヶ谷には隣り合う二つの敷地の抱屋敷があった。いずれも江戸末期の入手と思われる。近くに初代藩主・徳川頼宣の生母、養珠院(お万の方)が創建した仙寿院という寺院があり、立地に関係があるかもしれない。

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紀伊徳川家万年橋下屋敷(芭蕉稲荷など)

幕末に相対替で取得55万石:(紀伊、伊勢、近江) 所在地:江東区常盤1丁目1から4、16から18など 最寄り駅:東京メトロ清澄白河駅、都営地下鉄森下駅  下の地図では尼崎藩の松平遠江守屋敷となっているが、この地図が書かれたあとの1859年に、同家との土地交換で紀州家の屋敷とした。小名木川・隅田川沿いなので蔵屋敷だったと思われる。築地の蔵屋敷が幕府の講武所になってしまったため、その代替の意味もあったのではなかろうか。万年橋とは近くの小名木川に架かる橋の名。

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和歌山藩徳川家下屋敷(旧芝離宮恩賜庭園)

大久保家から引き継いだ名園55万石:(紀伊、伊勢、近江) 所在地:港区海岸1-4-1 最寄り駅:JR浜松町駅  この場所は幕末は紀州家の屋敷だが、その主は江戸時代通じてしばしば変わっている。現在に残る見事な庭園の姿は、元禄年間に大久保家によって作られた。立地的には埋立地と思われ、まず江戸時代初期に松山などを領した加藤嘉明に与えられ、続いて小田原藩大久保家に与えられた。大久保家は庭園を楽寿園と名付け、地元小田原の庭師に作庭させ、近隣の石が多用されている。しかし1818年、大久

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和歌山藩徳川家中屋敷(麹町、東京ガーデンテラス紀尾井町、清水谷公園、文芸春秋社など)

紀尾井町の名の一角に残る55万石:(紀伊、伊勢、近江) 所在地:千代田区紀尾井町1から3 最寄り駅:東京メトロ赤坂見附駅、永田町駅、麹町駅  赤坂屋敷の記事でも書いたように、江戸城内吹上にあった江戸時代当初の上屋敷が明暦の大火で焼失してからは、この麹町屋敷が上屋敷だった。しかしやや狭いことや文政の大火で焼失したことを機に、当主は赤坂屋敷に住むようになり、実質的に上屋敷が移ってしまった。  江戸時代や明治初期にかけては、赤坂見附門の脇から現在の弁慶橋袂に抜ける道があった以外、

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