熊本藩細川家白金下屋敷(高輪皇族邸、高松中学校、都営高輪一丁目アパートなど)
大石内蔵助らが切腹した屋敷
54万石:(肥後、豊後、全国6位)
所在地:港区高輪1丁目4、5の大部分、6から15、16の大部分
最寄り駅:東京メトロ南北線白金高輪駅
細川家は愛宕に中屋敷がありましたが、この屋敷は初代の細川忠興の隠居屋敷として用いられ、死後に別の大名の屋敷となりました。替地の屋敷も支藩の屋敷となったため、細川家は中屋敷がない藩となります。そしてこの白金下屋敷が中屋敷の扱いをされることもあったようです。
この屋敷が有名なのは、4つの大名家にお預けになった赤穂の四十七士のうち、大石内蔵助ら17人が切腹した場所になったことによります。当時の当主綱利はたいへんな四十七士びいきで、大石らの到着を午前2寺過ぎまで待ち、さらに到着後歓待しました。
幕府に対しては助命嘆願し、許されたら召し抱えるとまで公言していました。しかし切腹と決まると最大限の礼を持って行い、切腹の場は「永遠に残すように」と申しつけます。
1)大石内蔵助ら切腹地
その切腹地跡がここです。都営高輪一丁目アパートの北側、高輪皇族邸西側の道路の途中で左に入ります。高松中学校からは崖上の高台になります。
東京都の旧跡に指定されていますが、指定名がすごいです。「大石良雄外十六人忠烈の跡」です。指定が1918年(大正7年)で、当時の倫理観がストレートに出た命名です。
跡地とされる場所は塀で囲まれ、中がうかがえるのは施錠された正面入り口の隙間だけです。かつての下屋敷の中心部にあり、当時は書院の庭だったといいます。
前述のように当時の藩主綱利は遺構を残すように命じましたが、その後に藩主家が分家筋に変わり、藩主殺害事件などの影響もあり遺構はほとんど破却されてしましました。その結果泉岳寺などとの関係も険悪になります。
明治以降は明治天皇の意向などもあり再び切腹地は保護されるようになりました。現在は赤穂事件を研究する中央義士会と都と泉岳寺の共同管理となっており、義士会が時折内部を公開しています。
また都営アパートの入り口に戦前に建てられた案内石標があります。こちらの表記はややそっけない「大石良雄等自刃ノ跡」です。
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