紅乃がVになる理由 - 《序章》サブカル&同人大好きオタライターを育てた背景 後編
前回から随分と間があいてしまい、お待たせしてしまいまして本当すみませんでした。まずは私の筆の遅さ故に Vi-Cross メンバーをはじめ、後編を楽しみにしていたかたのご期待になかなか応えられなかったことを謝らせてください。ごめんなさい! 自分自身の記憶を掘り返すこと、そしてそれを今の時代を生きる若いかたにも理解できるように伝えることというのが、どれだけ頭と心に負担がかかるのか今までにないほど痛感させられました。
さて、前編では私、紅乃 翠の趣味趣向の土台が出来上がった背景についてお話いたしました。いよいよ後編では、今の紅乃の好きになるモノの方向性が完成された時代についてお話していきます。昭和から平成に切り替わる瞬間を経験したオンナノコがそんな時代に何故ゆえパソコンに興味を持ち、一生の付き合いとなったのか、この後編でしっかりと語らせていただきます。
後編 『平成初期を疾走した東京トンガリキッズ』
高校に上がると行動範囲もお小遣いも増えて、さらに自分の好奇心をくすぐるものに触れられるようになりました。高校は電車通学でしたので、新宿や渋谷、吉祥寺や下北沢などで途中下車して、本屋さんとレコード屋さんに毎日といっていいほど立ち寄ったものでした。『ディスクユニオン』や『UK EDISON』、地下に軍服専門の古着屋さんも入っていた旧『大盛堂書店』など、中学時代から雑誌やムックを眺めていた頃に憧れていたショップに行くこともできるようになりまして、これまで気になっていた作品を探しては読んだり聴くことができたりと、とても楽しい日々でしたね。服も当時戸川純さんが愛用していたブランド『ヒステリックグラマー』をパルコやラフォーレのセール中にお年玉をはたいて買っては好んで着用していたものです。
当時の渋谷周辺はサブカルチャーの聖地といっても過言ではなかったでしょう。かつて音楽之友社から発行されていたテクノポップ&ニュー・ウェイヴ専門誌『TECHII』を読んでは気になったアルバムを昼食代や交通費を浮かせてお金貯めて『CSV渋谷』で探して買えたときのうれしさったら! 当時は代々木公園の歩行者天国ではインディーズバンドが毎週ところせましとひしめき合って演奏していたものです。同級生にこういったバンドのスタッフをやっていた子も何人かおりまして、その伝手で現役バンドマンから直々にギターを教えてもらったりもしました。
西武『LOFT』ができたのもこの頃です。『リブロポート』という書店が入っておりまして、前衛的な思想や哲学を感じる珍しい画集や写真集、『ユリイカ』といった知る人ぞ知る雑誌なども置かれており、一般書店ではあまり扱いのない本にも触れることができました。ここからハマったのが『澁澤龍彦』さんのエッセイ集、漫画では青林堂の『月刊ガロ』と岡崎京子さんのコミックスでした。とくに岡崎京子さんのコミックに出てくる女の子達には共感し、各話の主人公のように、私も不器用ながらもしなやかにたくましい生きていこうと、この段階ではっきりと心に決まったものです。
いよいよここから具体的に私がコンピューターによる映像表現に興味を持った背景について語っていきましょう。きっかけは『AVガーデン』という深夜のテレビ番組でした。細野晴臣さんとサエキけんぞうさんがパーソナリティで、さまざまなテクノポップやニュー・ウェイヴ系のアーティストがゲストで登場するだけでなく、立花ハジメさんやラジカルTV、中野裕之さんが手がけたMVも流していたんですよね。それらはすべてコンピューターを使って編集&作成されたものばかりでした。当時、NHKで『人体』についての番組がCGで作られていたこともあり、この頃が大きなメディアでCGが使われだした黎明期と私は考えています。
さて、ここでお話が前後いたします。上記で当時バンドブームだったということを述べましたが、当時の私の交友関係は同級生以外にも大学生や社会人のアマチュアからセミアマチュアの音楽関係者のかたとも接点がありました。私が大好きなテクノポップやニュー・ウェイヴはニッチなジャンルでしたから、そういった話が聴けたり、レコードやビデオを貸し借りするために、雑誌の交流欄などで積極的にちょっと年上のかたとも接点を取っていたんですね。なかにはレコーディングスタジオのメンテナンスのお仕事をされてらっしゃるかたもいて『うちでバイトしてないか』とお声がけいただき、そのかたの工房でバイトをすることにしたんですね。工房には工具だけでなく、PC8801やPC9801といったパーソナルコンピューターがあったのです! 繁忙期にはそれこそ現場に出向いて卓のスイッチを洗ったり、ケーブルをさばいたりとお手伝いをしたものですが、そうでないときは電話番くらいでしたので、そういうタイミングにはパソコンで『A列車』や『シムシティ』などで遊んでいたものです。『LOGiN』を愛読するようになったのもこの頃ですね。そうしてますますパソコンでの映像表現にのめり込み、自分でもパソコンでなにか表現したい! という決心にも似たなにかが芽生えたのです。そうそう、ケーブルや部品の買い物を頼まれて、休日には秋葉原にもよく通うようになったのもこの頃でしたね。当時の秋葉原は飲食店といえば駅の上にあった『古炉奈』と『カレーの東洋』、あと末広町のほうに『ミスタードーナッツ』があったくらいしか私は覚えてません。それこそ当時は真空管のアンプが店頭に置かれているようなお店もあったくらいの頃です。この後、DOS/Vの街になり、ゲームやホビーの街になり、今のメイドカフェ乱立状態になるんですけどね。
そんな高校時代もそろそろ終わるという頃、私の通っていた学校は所謂エスカレーター式で大学へ進めたのですが、当時どこの大学でもパソコンで映像表現やゲームの作りかたを教えてくれるようなところは皆無でした。私がこのまま進学しても女子大だったので、なおさらそんな理系の科はありません。専門学校でもコンピューターグラフィックスを教えてくれる科のある学校は少なく、探しに探してやっと一校『ここだ!』というところを見つけました。ただ、親はもちろん祖父や担任、まわりの大人という大人全員に私がせっかく進学できる大学ではなく、専門学校に進むことへ大反対されたものです。もう大戦争でした。祖父や父には殴られもしましたし、担任の女教師には毎日のように嫌味を言われたものでした。当時を思い返すと今でも泣きそうな気持ちになりますが、でも、ここで自分自身で進路を決めたことによって、今振り返ってみると、この時点で精神的に完全な親離れができたのかな? とも思っています。こうして私が入学し卒業した専門学校での二年間通して担任だった先生も、今は早稲田の表現工学科でメディアアートを専門にしている教授です。良いタイミングで良い授業受ける経験ができたのかなぁ、と今では思えますね。
はじめて就職した会社は誰しも一度は聞いたことのある某有名アパレルメーカーでした。私の仕事はUNIXマシンを使った独自の映像制作システムを使って、展示会や社内で流す映像制作をしておりました。この当時、フジテレビ朝の子供番組枠で『ウゴウゴルーガ』という全編CGと実写を組み合わせたなんともシュールで不思議な番組が放映されておりまして! 『あ、私のやりたい表現ってコレだ』なんてことを確信したものです。仕事中は夜中に録音していた『電気グルーヴのANN』を聴いてましたね。ちょうどメジャーデビュー直後に出たアルバム『UFO』が出た頃でした。
音楽もコンピューターを使った所謂打ち込みと呼ばれているDTMで作られたものが国内でカジュアルに流行しだしたのも電気グルーヴあたりからかと私は捉えていますね。
当時働いていた会社は9時出社、仕事が残ってなければ17時に退社できる会社でしたので、仕事の後は音楽の趣味が合う友人たちと『芝浦GOLD』にちょくちょく遊びに行って朝まで踊っていたものです。当時ウォーターフロントとして芝浦周辺が開発されていて、そこにGOLDもあったのです。GOLDにはいくつかフロアがあって、アンビエント系をかけているフロアには大きなプロジェクターでCG映像が流されていたように記憶しています。この頃から音楽をかけるDJのほかに、プロジェクターで映像を流して場を盛り上げるVJという表現者のジャンルが出てきたように私は捉えています。
しかし、楽しい日々も長くは続きませんでした。入社して1年でバブル崩壊の煽りをいきなり受けて部署ごとリストラ、ひょんなことから再就職できた先が当時ITベンチャー企業として当時は知る人ぞ知る出版社でした。リストラから再就職できるまでは1年近くかかりましたね。その間は就活しつつ、高校時代からお世話になってたバイト先にまたお世話になっていました。就活ではゲーム会社を中心にいろいろと回っておりまして、『Dの食卓』で有名になった飯野賢治さんの会社にも3DCGのポートフォリオを持って売り込みにいっていましたね。ただ当時はまだバンダイの下請け会社だったようで、ポートフォリオを一通り見ていただいた後『こういうCGは仕事でやってなくて、ドット絵描いてみてもらえる?』と、ザクだったかなぁ、ガンダムの機体のドット絵を描いてみるよう促されて数時間かけて慣れないドット絵を描いて見せました。その後、飯野さんの仕事部屋にて『こういう仕事で良いなら採用するんだけれども、君は本当にそれでいいの?』と話されてたような記憶があります。そんな会話をされてた部屋には岡崎京子先生の単行本が数冊、獣神ライガーさんとのツーショットの写真が飾られてましたね。就活した会社さんのなかでいちばん私のことを親身に考えてくださっていた印象深い思い出です。そんな風に就活していた頃、FAX用にモデムを導入していまして『パソコン通信』もできるということで、『ニフティサーブ』を中心に草の根ネットなどもちょいちょい覗いていたのでした。そんなある日、『ニフティサーブ』の掲示板を眺めていたところ『3DCGに興味あるかた連絡ください』といった書き込みを見つけたのです。私は「きっと同人作品でも作るんだろうなぁ」という気持ちで、それでも実績になればいいやと連絡したところ、例の知る人ぞ知るITベンチャー出版社の編集のかただったのです。あれよあれよといううちにそこで働くことになり、私はここから編集者として、そしてライターとしての道を歩むことになったのです。
ここまでが序章でしたので、次回からは実際に Vtuber として活動するきっかけをお話していきたいと思います。また次回まで時間がかかるかと思いますので、ゆっくりとお待ちいただければ幸いです。
Special Thanks
私の記憶の掘り返しタイムに付き合ってくれたかたがた
ニコニコ生放送『クレノの!ここだけの話』 サブカル・おっさんホイホイタグからきてくれたかた、極ココアたん、米穀通帳MXさん、どくさん and More. Vi-Crossではきっとこの記事をずっと楽しみにしていてくれていたであろう思惟かねちゃんに感謝を!
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