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「新世紀エヴァンゲリオン」論——ナラティブにおける『エゴイズム』とふたつの『欠落』

はじめに

 「新世紀エヴァンゲリオン」がスタートしたのが1995年であるから、そろそろ「新世紀エヴァンゲリオン」がはじまってから30年が経過することになる。同作は「有史以来未曾有のカタストロフィー」とされる「セカンド・インパクト」によって人類の半数が文字通り死滅した世界で、「使徒」と呼称される存在とたたかう人々の姿と、物語の鍵となる少年「碇シンジ」を描くものである。名の知れた作品であるため、見た/読んだことのある方も多いだろうが、本稿はその内容(いわゆるネタバレ)を多分に含むため、まだ本編を観劇ないし読了していない方はその後で本稿を読むことを推奨する。
 さて、本稿の内容にもすこし触れておこう。まず、本稿は筆者がある友人とエヴァンゲリオンシリーズについて討議した際の内容について、より磨きをかけた上で色々な情報を付加したものである。ここでは、筆者は作中におけるエゴイズムと二点の「欠落」について論じる。適宜具体的なシーンないしセリフも引用しつつ論じてゆけたらと思う。筆者は特に漫画やアニメーション、文化等々の論客とか評論家とかではないので、これはいちエヴァファンの放言だと思って、あたたかく読んでいただきたい。当然、建設的な議論は大歓迎である。
 さて、前置きだけで長くなってしまったが、そろそろ本題へ入っていきたい。

第一章 エヴァンゲリオンとエゴイズム

 エゴイズム=利己主義、縮めてエゴは日本の文学でも古くからその対象となってきた。たとえば夏目漱石の「こころ」が「エゴイズム」についての小説であるとされる他、そのすこし後には芥川龍之介が「羅生門」において「エゴイズム」について重要なテーマとしている。こんにちでは個人主義の隆盛もあり、そのような小説は枚挙にいとまがない。
 当然、「新世紀エヴァンゲリオン」でもその「エゴイズム」は重要な主題のひとつである。本作では自身のエゴに他者を巻き込むようなシーンが散見されるのだが、その代表として名が挙がるのはとしては「碇ゲンドウ」だろう。ゲンドウは自身の亡妻「碇ユイ」と再会する為、「人類補完計画」を利用したからである。人類補完計画についての詳細は他の先達によって様々な論があるので置いておくとして、その招く結果が文字通り「世界の終わり」であることは共通しているはずだ。ゲンドウはシン・エヴァンゲリオンでこう述べる。

知恵の実を食した人類に神が与えた運命は2つ。 生命の実を与えられた使徒に滅ぼされるか、使徒を殲滅しその地位を奪い、 知恵を失い永遠に存在しつづける神の子と化すか、ネルフの人類補完計画は後者を選んだゼーレのアダムスを利用した神への儚いレジスタンスだが、果たすだけの価値のあるものだ

碇ゲンドウ 「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」

 これは碇ゲンドウがAAAヴンダー甲板にて言い放ったセリフで、赤木博士のセリフ「私達は神に屈した人類補完計画による絶望のリセットではなく希望のコンティニューを選びます」へと続くものだ。ここでまず注目したいのは中盤「使徒を〜と化す」の部分だ。この部分は「ネルフ〜」以下からネルフの描くシナリオとしての人類補完計画を示しているが、このシナリオでは当然人類は「滅び」、「知恵を失い永遠に存在しつづける神の子と化す」。しかしゲンドウはこれに途中で介入することにより、ユイとの再会を目論んでいた。ここまでからして、ゲンドウは本作におけるエゴイズムの典型だろう。

 他にもエゴイズムを抱えた登場人物はいる。たとえば「葛城ミサト」もそうだろう。

シンジ君、これだけは覚えておいて。あたしはあなたに自分の夢・願い・目的を重ねていたわ

葛城ミサト 漫画「新世紀エヴァンゲリオン」第7巻

 また、直後にこうも述べている。

今までガムシャラにやって来たけど、その目的は建前でしかなかった。あたしの本当の目的は…お父さん…あなたの仇を討ちたいだけなのかもしれない

同上

 ここから読み取れるのは、ミサトもまた「エゴ」に突き動かされる部分があるということだ。ミサトは父をセカンド・インパクトで喪っているが、その時の「仇」を討つためにシンジを利用している、そう気づくシーンである。

 まだまだ取り上げようと思えば「エゴ」を抱えた登場人物はいるが、人物についてはこれくらいにしておこう。次に、その描かれ方について述べる。
 本作では多数の「エゴイズム」的人物が登場するが、全体として、その屈折の理由がしっかりと描かれている印象だ。ゲンドウならば妻の死、ミサトならば父の死……といった具合に。その屈折した心理を理由まで読者に提示することで、そのキャラクターを安易に「悪者」化せず、読者がその人物に共鳴し、より深く物語に入り込むことができるのだ。
 安易な物語の展開にありがちなのが、「悪者」という存在を用意してしまうことだ。それがあると、たしかに物語の展開はしやすくなるかもしれないが、そのキャラクターはずっと「悪者」のままである。エヴァンゲリオンにおいては「交差するエゴ(=おのれの絶対的正義)」が活写されており、そのエゴの発生源まで特定することで、その「絶対的な悪者」が存在しないようになっている。ゲンドウは妻と再会するために「人類補完計画」を目論み、ミサトは父の仇討ちのためにシンジを利用する。これらの人物はたしかに一方的な側面では悪者のように見えかねないが、その別の側面を明かすことで、絶対的な悪者と化すことを防いでいる。これがシリーズを通して人間としての深みを出しているのだろう。

第二章 エヴァンゲリオンとふたつのの欠落

 先の章では、エヴァンゲリオンにおける「エゴイズム」を抱えた人物についてと、その描かれ方や効果について述べた。前章が「あるもの」主体であったのに対し、本章では、逆にエヴァンゲリオンに「欠けている」ものについて述べてみたい。以下、二節に分けて述べていく。

第一節 ひとつめの欠落——友情

 筆者はエヴァンゲリオンにはふたつの「欠落」があると考える。ひとつめは「友情」だ。先に述べたエゴイズムのような部分に多くのリソースが割かれる一方、「友情」のような部分に割かれるリソースは驚くほど少ない。エヴァンゲリオンには鈴原トウジや相田ケンスケとの友情シーンもあるにはあるが、総体としてみればかなり少ない配分である。
 また、渚カヲルの存在についても触れねばならない。渚カヲルに対してシンジが何かしら特別な感情を抱いていたことは明らかだが、しかし、物語として大事なのはその友情ないし愛情が中途半端なものに終わることである。運命に感情を裏切られ、カヲルが死ぬことに意味があるのだ。仮にカヲルが死なずに、シンジの肩を支え続けていては、シンジはいつになっても成長できないまま、誰かに寄りかかることしかできない存在になってしまったろう。これが、カヲルが死ななければならなかった理由である。その離別を経て、シンジはさらに成長したのだから。

 では、逆になぜ欠落がなければならなかったのか、考えてみよう。結論から言えば、欠落がなければ、この物語はただの「バトルもの」になってしまうからである。もちろんそれが悪いとは言わない。しかし、それでは庵野秀明の目指した「エヴァンゲリオン」は描けなかったのではなかろうか。庵野はこう語っている。

『新世紀 エヴァンゲリオン』には、4年間壊れたまま何もできなかった自分の、全てが込められています

庵野秀明「我々は何を作ろうとしているのか?」

 このあとに、「壊れた」自分が「逃げちゃダメだ」と思って始めた作品だ、とも語っていることから、エヴァンゲリオンという物語は「壊れた」人間がなにかと向き合う、その姿勢そのものを描いたものであると言えるだろう。それが自身であったり、過去であったりというのはさまざまだが、作中ではそれぞれが人生に煩悶しながらも逃げずに最後には向き合っている。そのことを描くためには「友情」、つまり人の支えはあってはならなかったのだ。庵野が最終的に目指したのは「ひとり」で立ち上がる人間像であって、誰かに支えられる人間像ではなかったのではなかろうか。それはこのセリフにも表れているだろう。

自分の足で地に立って歩け

碇ゲンドウ 漫画「新世紀エヴァンゲリオン」第14巻

 このシーンでは、最終的にシンジが「自分の足で」歩いていくべきだ、という父、ゲンドウの言葉が示されている。これこそ、庵野秀明の目指す人間像、その哲学なのだ。

第二節 ふたつめの欠落——完全

 人類「補完」計画とあるように、エヴァンゲリオンの世界において人類は未だ不完全とされている。この「不完全」というものもひとつ物語全体を貫くテーマと言えるのではないだろうか。
 先に述べたようなエゴイズム、未熟さ、あるいは不安定さ、そういったものがこの世界では巧みに描かれている。こういった点で、人の「不完全」であるところ、「完全たり得ないところ」をあぶり出している。

 しかし、エヴァンゲリオンの特筆すべき点はそこだけではない。この「不完全さ」を描くに留まらず、「完全さ」を目指してゆく、自立して、逃げず、運命と向かい合う人々の姿というものを描いた点に留意する必要がある。これが筆者はこの作品の特に優れた点の一つであると思う。「不完全さ」を描いた上で、その不完全さから出発し、完全さを目指して進む人々の勇姿を描いたことに、この作品の大きな意味があると思う。それがなければエヴァンゲリオンはただの悲劇だが、これがあることにより、ただの悲劇ではない、希望のストーリーに仕上がっているのだ。

おわりに——新世紀エヴァンゲリオンとは何か?

 以上、本稿ではエヴァンゲリオンというナラティブについて、エゴイズムとふたつの欠落に着目して述べた。エヴァンゲリオンとは、総括すれば、人間のもっとも弱く、醜く、悪い部分から目を逸らさず見つめ続けその果てに見出された哲学というべきである。「逃げちゃダメだ」というセリフに象徴されるように、シンジがひとりで立って、歩き、進んでいくようになるまでを見事に描いている。まさしく、平成という時代にあった金字塔と呼ぶべき一作だ。
 本稿はかなり勢いまかせに書いたので、ところどころ不都合のあるかもしれないが、その際はぜひ教えていただけると幸いである。またエヴァンゲリオン関連のものを書きたいので、その際もぜひ目を通していただきたい。最後までお読みいただいた読者に格別の感謝を。では。

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