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スーパーマーケットの地下のコーヒーショップ


それは意識の隙間に入り込む。それというのはスーパーマーケットの地下にあるコーヒーショップの夢のことである。全国にチェーン展開されているありふれた街のスーパー。その地下一階でなぜか二十四時間営業を行っている簡素なコーヒーショップ。

死にかけの商店街に残された陰気なビルディングのワンフロアに似た、きまり悪い白色の静寂が古臭い蛍光灯の下、黴の粒子と共に放り投げられている。

目を瞑る時間の少し長い、ゆったりとした瞬きの後、目を開けると、私の意識のうち満月に対する十六夜月ほどの分量がそのがらんとしたコーヒーショップの夢に溶けている。

ミルクを飲みたい気持ちで私はコーヒーショップの椅子に腰かけている。温かいミルクが飲みたい。柔らかな現実で目を覚ましたい。
緑色のハイヒールを履いた足が白く長い椅子の脚を軽く蹴る。簡素な白色のカウンターテーブル、人が一人殺されて埋められていそうな白い漆喰の壁、コーヒーの湯気を知覚する。スーパーの地下のコーヒーショップにミルクなんて気の利いたものはないのだ。

すぐ真上のスーパーでは牛乳が、乳牛と酪農家に申し訳なくなるほどの安値で叩き売りされては在庫処分されているというのに。けれど仕方ない。ここはそういう場所なのだから。ここは二十四時間営業のコーヒーショップという完結された世界なのだから。

私は深いからし色のマグカップでコーヒーを飲んでいる。安っぽく、ありふれた、けれどほかのどこへ行っても味わえない奇妙な風味のついたブラックコーヒーを水道の湯のにおいと共に啜り込んでいる。両手でマグカップを包み込みながら私は振り返り、コーヒーショップをぐるりと見渡す。

地下空間は広々としているのに、目の前の壁にぎゅうぎゅうと寄せられたこの薄いカウンターテーブル一本しか席のないコーヒーショップはある種の歪みを専門的技法によって表現した現代芸術みたいだと思う。

テーブルのない壁には、黄色と黒のチェック柄を作るタイル飾りやなにがしかの映像を流す液晶画面が取り付けられている。コーヒーの提供口はもうもうとした湯気で包まれている。提供口の前には大きなソフトクリームの置物が設えられている。

それから、真ん中。コーヒーショップの、席のない中心部には、黄緑色の公衆電話が背の高い白色の丸テーブルに載って一台置いてある。このコーヒーショップの主役はこの電話であるのだと示すかのように。そして私はそれが真実であるということを知っている。舌打ちが漏れる。

答えが明示されている、この安直さがスーパーのコーヒーショップの芸術性を損ねていることははっきりしていて、しかし、ストレートであるという概念そのものに含まれた新鮮なエネルギーが、このコーヒーショップが現実に存在する場所であることの証拠なのだということも私は確かに知っているのだ。

✳︎

オフィスの休憩所で西本さんはコーヒーショップの公衆電話を探していた。

黒いマニキュアを塗った指先で握り込んだタブレット端末の液晶画面に、コーヒーショップの公衆電話にまつわるちょっとした噂話が映し出されていて、西本さんはやや悩ましげな様子で「そのコーヒーショップがどこにあるのかは明らかになっていない」と書かれた箇所を画面スクロールで行ったり来たりしていた。

西本さんは私にそこまでつぶさに観察されていることに気づいていないようだった。
それもそうだ、私は至近距離からじろじろ西本さんを見つめていたわけではない。弁当を冷蔵庫から取り出しながら離れた位置で数度西本さんの手元に目を向けただけなのだから。

私は右目だけ非常に視力が良く、動体視力も優れているのだ。幼いときにスリーディー映画を観るとまれにそういうことが起きるのだと子供の頃眼科医に言われたことがある。

「その公衆電話のあるコーヒーショップがどこにあるか、知ってますよ」
 私がそう言って西本さんの右肘の横に弁当の袋を置いた理由として西本さんに対する好奇心というものが全くないかというとそういうわけでもなかった。

職員の大多数が契約社員という名のアルバイターであるこの職場にはモデルや声優の卵といった夢を追う若者たちがごろごろ存在しているのだが、西本さんは華やかなスタッフたちの中でもひときわ目を引く存在だった。

それは、淡いオレンジ色の頭髪や黒色の口紅、黒色のネイル、気の利いた死神みたいな黒ずくめの衣装といった装飾的な要素だけでなく、天井に頭がつきそうなほどの長身と生物学的に男性なのか女性なのか分からない中性的な顔・体つきといった西本さん自身の要素にも起因していた。西本さんは本当に男なのか女なのか分からなかった。

以前西本さん宛ての電話を取り次いだことがあるが、転送の操作をするにあたり開いた電話帳の画面に表示された西本さんの下の名前の漢字は文字化けか九龍城の落書きのように判読不明だったし、スピーカー越しに聞こえた声は微妙に嗄れて低く、男の声にも女の声にも聞こえなかった。

しかしながら実際のところ、私の西本さんに対する好奇心は西本さんの特異性に対して非常に希薄なものだった。私が西本さんに休憩所で声をかけたのは、どちらかというと、休憩所のテーブルで弁当を食べたかったから、というのが大きい。

オフィスの奥にある休憩所にはほんの数週間前までは十席ほどの休憩席が用意されていた。それが、ある部署での新型感染症のミニ・クラスターを受け机と椅子の大部分が撤去され、今や小ぢんまりとした木の机一つにパイプ椅子二脚しか残されていない。
二脚の椅子はみっちりとした距離感で隣り合わせに並べられているから、一人が休憩席を使用しているとき、仲が良いわけでもない人間がもう一つの席を使うことは感染症対策的な意味合いでもパーソナルスペース的な意味合いでも避けられている。

しかし私はどうしても今日休憩席で弁当を食べたい気分だったのだ。
先日この司法書士法人に採用された新人の私が研修明けに配属された部署は電話がひっきりなしに鳴る非常に忙しい部署で、私以外のメンバー三人はみな薄給にも関わらず社畜根性でもって休憩時間を返上して仕事をし続けている。

そんなデスクで息を殺しながら休憩することに私は疲弊していた。

確かに西本さんのことは多少気にはなっていた。
しかし西本さんには不思議と、目に見える西本さんという存在のみで完結しているのだという気配があった。
西本さんの存在は非常に現実的だった。
彼あるいは彼女はとにかくはっきりとしていた。霞みたいな想像、例えばスーパーマーケットの地下にあるコーヒーショップの白昼夢、の入り込む余地がまるでないのだ。

職場の人々がコピーした書類を抱えて歩く西本さんをじろじろ見ないのも、チーフの池田さんが新宿二丁目のゲイバーから出てきたところから見たという話は熱心にしているのに西本さんの性別については消しゴムで消した後の空白を作って何一つ言及しないのも、西本さんが、ただただ、そこにいる西本さんでしかないからなのだろうという感じがした。

ともかく私は休憩席を使う理由のようなものを得た。西本さんは驚いたように私を見た。

「本当に?」
掠れた声で西本さんは言った。西本さんのまなざしはわりと好意的なものだった。私のことをタブレット端末の画面を盗み見た不審者ではなく自身を導く神秘的な案内人のように思っているようだった。

「以前そこに連れて行かれたことがあるので。まあ、信じるかどうかは西本さん次第ですけど……」
「信じます」
西本さんは断固とした口調で言った。
「信じる。ええと、新人の……ごめん名前なんでしたっけ」
「土方です」
「ああ、土方さん。名前は知ってた。いかした名前だね」

いかした、という言葉が脳内でぐるぐるとリフレインした。西本さんは虫の羽音のような吐息を漏らして声を出さず笑った。黒い唇に刺さる丸いピアスが照明の灯りを受けて柔らかく光った。

それが今の西本さんの世界の全てだった。世界は西本さんの等身に合わせて切り取られていた。デスクで鳴り響いていた電話の音はいつの間にか消えていた。西本さんの世界の壁に阻まれて私の耳にまで届かないのだった。

私を公衆電話のあるコーヒーショップまで連れて行ったのはマッチングアプリで知り合った男だった。

今年の五月のことだ。

真剣な出会いを専門とする有名なマッチングアプリに登録した日、アプリのチュートリアルにしたがってあれこれ操作していたらその男とマッチングしていた。

マッチングアプリというのはとにかく利用者に、特に女性利用者に「いいね」やメッセージを送ることを強く推奨する。
このアプリも例に漏れず私に対しいくつかの条件や性格診断で高相性と判断された男たちをどんぶり一杯見繕っては全員に「いいね」を送れと言ってきた。そんなこんながあり、私の方からその二十八歳の男にアプローチをしたような形でマッチングが成立していた。

私と男は連絡先を交換し、アプリ外で親密にやりとりをするようになった。男のギャップのあるところに私は惹きつけられた。
ジムトレーナー兼ボディビルダーとして生計を立てているらしいその男のプロフィールに並ぶ写真はいかにも体育会系風だったが、趣味やそれを語るメッセージの文面からはやたらインドアのにおいがしたのだった。男は私が幼い頃大好きだったアニメの中でもひときわ気に入っていたキャラクターが初恋なのだと言った。そのアニメの話で私たちはずいぶんと盛り上がり、すぐ実際に会うことになった。

しかし実際に顔を合わせた彼はメッセージの無邪気な印象とは裏腹に気だるげで、発する言葉もシニカルだった。彼の目は猫のそれに似ていたのだが、そんな目で月のクレーターの深さでも測るような視線を向けられていると決まりの悪い気分になり、食事の味がよく分からなくなった。

ところが、会話を進めていくと、彼は次第に無邪気な笑みを気まずさと気まずさの間に時折差し挟むようになった。猫のような目がキュウと細くなる。作り物めいた無機質な空気が崩れて陽だまりのような温もりが生まれる。

『待ち合わせにはゴリラみたいなマッチョが行くからびっくりして逃げないでね』
「実際、今、顔合わせてみてどう? こんなムキムキの男といて怖くない?」
「ボディビルの大会ってどんなか知ってる?」
「良かったら動画観てみる?」
「どうだった? 競り場みたいに転がされたマグロみたいに番号札つけたマッチョが評価されていくんだよ。引いてるんじゃない」
「梅雨で外食し納めなんだよね。久々に大会に出ようと思っててさ。そのために減量して体作んなきゃいけないけら……。その間は全食、分量測って機械的にカロリーを摂取するためだけの食事をしなきゃいけないんだ。鶏むね肉とかブロッコリーとかばっかり食ってる、こんな男うんざりするでしょ」

彼は予防線を張るように自虐的な言葉を口にしては私の様子を見た。その一方で、ボディビルにかける情熱や自身のキャリアが将来にわたってどのように展望するのかについて自信のある口ぶりで語りもした。また、彼はデート中しばしば「ねえ、気づいた? あいつ今、俺のこと見てたよ。それで『すげえ筋肉』って囁いてた」とか「中途半端に鍛えてる奴ほど自信満々にタンクトップなんて着るんだよなあ」などと囁いてきた。自意識過剰だ、と思った。

彼の恋愛に対するスタンスは矛盾含みだった。彼は、「体を目的とする関係は絶対に嫌だけど、体の相性が最高にいいと判断した相手としか付き合いたくない」と真顔で言い放つ男だった。字面だけ並べると体目的の男が都合よく遊ぶための屁理屈のようだが、彼は大真面目にそれを言っていた。二十四年間生きてきて、世間一般の二十四歳が経験してきたことのうちのある程度は経験したことのある女の直感が、男の言葉は本心だと告げていた。

馬鹿な男だ、と思った。けちくさくて見栄っ張りで冷笑的で自己中心的な男だ。けれど私は彼に惹かれていた。大きな図体を縮め、肩を丸めてうずくまっているようなこの男に庇護欲のようなものを抱いた。

冷静に考えれば、そもそも最高の相性なんていう希少性の高い私が提供できる可能性が低いものを求めているこの男なんて適当に距離を置き、マッチングアプリでほかのもっと普通に優しい男を探した方がよっぽど良いはずなのに、私の意識の隙間にこの男が入り込んでどうしようもなかった。ほかの男は全員へのへのもへじに見えた。二十五歳のする恋愛じゃないと自分に言い聞かせても止まらなかった。どうしようもない男に上から目線で振られるまでのカウントダウンをしているのを分かっていても止まらなかった。
悲劇のヒロインを気取りたいというよりももっと能動的な気分が私の隙間を埋めた。食費を切り詰めた貧しい生活を送っているのに彼と話題を共有したいがために有料配信サービスに加入したし、平気でおごらせる女だと思われたくなくてデート中無理に財布を出し、さまざまな費用を払った。

そうして私は、その男との関係性におけるいわば第一関門を競走馬みたく突破した。
彼は私に、自分にはボディビルダーとしての活動を支えるパトロンがいて、食費を全て出してもらっているほか特権階級の権力を使いさまざまな便宜を図ってもらってもいることを明かした。
私は、先日彼に友人の代わりとして(彼はやたらとそれを強調した)予約に穴をあけないために連れて行かれた人気居酒屋で払わされた七千円はそれじゃあどこに行ったのかと聞きたかったが聞けなかった。

男は私を倍率の高いコンサートの関係者席や芸能人のホームパーティに連れて行った。しかしそれは男が私のことを好ましく思っているから私のことを喜ばせたくてやったことというよりむしろ男が自身の力を誇示するためであるような気がした。
「嘘じゃなかったでしょう」「レアでしょう」と男はしきりに口にした。
コンサートを開いたアーティストやホームパーティのホストである芸能人はテレビで見たことはあったが私は特段ファンだというわけでもなかったため、喜びは薄かったし、パトロンや著名人の力を武器にアピールを行うやり方にはかえって冷たい気持ちになった。

彼が私を公衆電話のあるスーパーマーケットの地下のコーヒーショップに連れて行ったのも恐らくそうした行為の一環だったのだろう。

私と西本さんは、休憩所で言葉を交わした週の土曜日、スーパーマーケット近くの喫茶店で待ち合わせをした。

「少し話をしよう」
西本さんは言った。そうだね、と私は言った。
「あの公衆電話を使うには、心の準備が必要だ。あの場所はすごく特殊で、呑まれそうになるから……胃がぐるぐると重くなって、肉体が引っ張られる」
西本さんは少し小首を傾げ、ふう、とかふむ、とかいう感じの相槌を打った。
「男女がホテルへ行く前に一杯飲むのと同じ。あるいは喫茶店における風俗の面接」

一軒挟んだ方がいい、という掠れ声がこぢんまりとした喫茶店の古い木枠に溶けた。新聞を広げながら煙草を吸う中年サラリーマンの加齢臭と深煎りのコーヒーのにおいと夏のそれより少しよそよそしさを感じる九月の空気の中心に西本さんはいた。

「うふふ」
「何?」
「いや、西本さんの口から、男女のそういうことを聞くのって不思議な気持ちだ」
「それはつまり、私が無性的……というより無生物的だから、そうじゃない?」

私の思考を見透かすように西本さんが言った。西本さんのぎょろりとした上目遣いの視線を受けながら、私はなんだかばつが悪くなって、「うん、そうだね。気を悪くしたのならごめん」と肩をすくめた。
「私はときどき一言余計なところがある」

ああ、でも今思ったんだけど、ときどき一言余計だなんて言ってるやつはたいてい始終一言余計なんだよ。そうじゃない?
ソーダフロートを飲みながらそう付け加えた私を前にして、西本さんは愉快そうに笑った。

「ねえ、申し訳なく思う必要なんてないんだよ。土方さんが抱いた不思議な気持ちっていうのはさ、まさに私の核心を突く事柄なんだ。ねえ、私は私という存在の揺らぎを探しているんだよ。端と端を探してるんだ。分かるかな? 男と女、過去と未来、原因と結果、想像と現実。物事のひずみ。なにがしかの余地。コーヒーショップの公衆電話がつなぐ相手。相手という概念。向こう側」

私という存在に向こう側というものがあるのかどうか知りたいんだよ、と西本さんは言った。
だから公衆電話を探してたの、と私は尋ねた。そうだよ、と西本さんは笑った。

喫茶店の店内には黒人の人権獲得の歴史を背負った感慨深い音楽が流れており、哀愁あふれる内装や人々のざわめき、胸がしくしくするような十月という季節のもたらす気配と織り交ざって私を過去の感傷や未来への不安の海に優しく突き落とすはずだった。
しかしそこには西本さんがいた。白い肌の西本さんは黒い後光を背負っていた。それは世の中の真理のようにクリアな輝きを放っていた。

曖昧な人間の感情や時間の隔たりといった概念は不思議なことに、その一切が西本さんの存在によって取り払われるのだ。奇妙だ。しかしそれはやはり何よりも明らかな事実だった。

コーヒーショップの公衆電話にまつわる話をあまり聞きたくはない。うまく話せる自信もない。なぜならそれは、よほどうまくやらない限り極めて陳腐な、B級の、手垢にまみれた、都市伝説になってしまうからだ。

都市伝説的に説明するとこうなる。

日本の、東京の、地下のどこかにとあるコーヒーショップが存在する。そのコーヒーショップには公衆電話が置いてある。
コーヒーショップでコーヒーを頼んだ後、十円玉で公衆電話から電話をかける。電話番号は打ち込まない。電話はさまざまな時空や理屈を超えて、電話をかけたい相手、あるいはかけるべき相手につながるのだ。奇跡的に。

インターネットにはさまざまな流言飛語が出回っている。
死んだ恋人と会話できました!奇跡!いやいやだめだよあの公衆電話で死者と会話すると取り憑かれるんだ。心霊スポットなんだよ。要するにドラッグパーティの隠語でしょ?磁場が歪んでいるんだよ。政府が絡む陰謀の痕跡に違いない。

それらは正しくない。コーヒーショップが存在するのは私が連れて行ってもらった東京のスーパーマーケットの地下とは限らない。
コーヒーショップは三重県にも北海道にもニューヨークにもバラナシにも存在する。どこにだって存在し得るのだ。そして同時にそれは世界のどこからも姿を消すことだってあり得る。コーヒーショップは非常に観念的な存在なのだ。加えて言うと、公衆電話は決して、霊界通信のようなオカルティックな代物ではない。脳機能をちょっといじくるドラッグがコーヒーに仕込まれているわけでもない。

公衆電話がつなぐのは、電話をかけた人物の内的世界の端にいる存在なのだ。奇妙だけどおかしくはない。高熱の夜に見る悪夢みたいに誰もが共有している感覚なのだ。そしてその感覚は誰かに語るべきものではない。言葉にした途端本来の意味を失うからだ。言葉にすると、それは押しつけがましく、胡散臭く、頭のおかしな代物に変色する。空気に触れた途端酸化して変色する化合物に等しい。

それなのになぜ私は自分から西本さんにコーヒーショップの公衆電話についての話を切り出したのだろうか。

休憩所で弁当を食べたかったから、西本さんと関わりを持つことにいささかの興味を抱いたから。

しかしそれは表面的なものだったのかもしれない。西本さんが、コーヒーショップの公衆電話というものについて理解している存在だから、私は西本さんの肩を叩いたのかもしれない。

声をかけたときは西本さんがコーヒーショップの公衆電話の繊細な内面について分かっているかどうか(本当のところ、分かっているとか理解だとかいう言葉も実際のところ適切ではないのだと思う。真実はもっと柔らかくて不思議な気がする。理解、understandという言葉は強迫的すぎるのだ)知らなかったし意識もしなかった。

しかし結果と過程はしばしば入れ替わる。
「ねえ、このミルクシェイク美味しい。チェリーは腐りかけているけど」
西本さんは透明な灰皿を爪先ではじきながら言った。
「缶詰のチェリーが腐りかけてるなんてこと、ある?」

スーパーマーケットはそこにあった。あなたの街。繁華街から路面電車の線路を挟んだだけで別世界のように雰囲気の一変する東京のパズルピースのひとかけら。妙に田舎臭くノスタルジックなひとけのない住宅街の奥。売り出し中の土地に四方を囲まれた、荒涼とした場所。不愛想な白いビル。人間の息遣いは聞こえないけれど、車はそこそこ留まっている。グレーのセダン。その他ぱっとしない色合いの車たち。

駐車場の奥に四角い穴がある。地下への立派な下り階段がスフィンクスの台座みたいな具合にぬっと姿を現す。

階段の天井からは黒髪の黄色人種が中心となってパンチパーマの黒人や金髪の白人やチャイナ服を着た黄色人種や犬と手を取って踊っている、日本でよく見かける愚かしい絵の看板がぶら下がっている。「食鮮館」。しかし食鮮館のゴシック体の上には「階段利用不可、立ち入り禁止」と書かれた貼り紙が貼りつけられている。

「この階段を下るわけだ」
西本さんが言った。そうだよ、と私は頷いた。
「ねえ土方さん、敬語がいつの間にか取れてるね」

そうだね、と気のない返事をした。
敬語だろうがそうじゃなかろうがどうでもいい。

西本さんの前にはただ目に見える結果だけがあって、良くも悪くも他には何も広がりようがないのだ。

階段の下には白い虚ろなコーヒーショップのフロアが広がっていた。
コーヒーショップの壁の背からは食料品売り場のざわめきがうっすらと聞こえてくるが、立ち入り禁止の階段のほかにコーヒーショップに通じる出入口はない。実に不条理な空間だ。

一人の男がテーブルに突っ伏して眠っている(あるいは死んでいる)ほかに客の姿はなかった。私と西本さんはソフトクリームの置物のある注文カウンターへ行った。注文カウンターは、古い病院かぼろラブホテルの受付のような摺りガラスで覆われている。小窓のような注文口から顔の見えない店員が腕だけを差し出すのだ。店員は、これもやはり古い病院かラブホテルの受付がそうであるように、寡黙そうな中年女性である。

「コーヒーを二つ」と西本さんは言った。
「五百円」
「私が出す」

西本さんが黒色のパンツのようなスカートのようなパーカーの延長線上にある装飾なのかよく分からない、右尾てい骨辺りを覆う洋服のびらびらした部分のポケットに手を突っこんだまま言った。
「当たり前のことながら」
「いやいや、ありがとう。そういう当たり前に恵まれるのは久しぶり」
「あっそう。ご苦労なことで」
 ゆるくかぶりを振りながら西本さんは五百円玉をトレーに置いた。
「どうも」
機械の唸る音が聞こえる。先ほどの喫茶店のそれよりニュートラルな気配のするコーヒーのにおいが薄く漂った。コポコポという抽出音が同じくニュートラルに響く。西本さんの瞳にはカウンター下に嵌め込まれた黄色のタイルが映し出されている。

「どうぞ」
マグカップが二つ差し出される。一つはからし色で、黒猫の絵が描かれている。もう一つは白色で、海を透かす窓の絵が描かれている。私が前者を取り、西本さんが後者を取った。

「紙カップじゃないのがいい感じ」と西本さんは笑い、カップに唇を寄せてひとくち啜った。

私たちはカウンター席に隣り合って腰を下ろし、いただきます、と囁き合ってコーヒーを飲んだ。

「うん、やっぱり」西本さんが眉を少し上げて唇を指で拭う。「お湯の味」
「そうだね」
「美味しくもまずくもない、ニュートラルな味。特別な風味と言ったらお湯のにおいがするくらい」
「良くも悪くも」
「その通り」

私は先ほどからテーブルに突っ伏している男をちらりと見た。男がホームレスだったら衛生的なことを考えると飲食をする場を共にするのが嫌だなと思ったのだ。男は黒いトレーナーに濃い色のジーンズという姿だった。垢のにおいが、するような、しないような気がする。よく分からない。

「大丈夫だよ」
西本さんの白魚のような、しかし大ぶりの、手が私の肩を叩いた。
「じきにいなくなる」
「そうだね」と私は言い、コーヒーを飲んだ。そうだね。

「土方さんはどうやってこの場所を知ったの」
西本さんにそう聞かれたので、私はマッチングアプリで知り合った男のことを簡単に説明した。
「可愛い男の子だね」
西本さんは、彼がいかに見栄っ張りで器の小さいところがあるかについての私の力の籠もったスピーチを聞くと面白そうな顔をしてけたけた笑った。
「可愛い?」
「そんな、はあ? みたいな顔しないでよ。可愛いじゃん。要するに彼はずっと、土方さんにすごいって褒めて欲しがってたわけなんだから。子供みたいにさ。お母さんの周りをちょろちょろしてないと不安でいっぱいの子供なんだよ。あの手この手ですごいって言ってほしかったんだよ。そしてその相手はたぶん、誰でも良かったわけじゃないと思うよ」

「誰でも良かったわけじゃない、ねえ」
私はため息を吐いた。
「もしそうだったんなら良かったんだけどな。まあ、いずれにしても、そうだね。そんな風に優しく解釈してあげれば良かった」
「今はその人とは連絡とってないの?」
「向こうからの連絡が途切れちゃった」
「土方さんだけ一方的に尽くして神経をすり減らして継続させる関係なんて言うのもどうかと思うし、そんなことで切れちゃうならそれはそれで仕方ないと思う」

コーヒーに目を落としながら西本さんが言った。そうだね、と私は頷いた。ありふれた会話。ありふれた会話の向こう側にある広がりを、余地を、靄の奥の景色を私は探している。西本さんが黙って席を立った。高い背をキリンのようにかがめて公衆電話に手をかけている様子をぼんやりと眺める。

彼は誰に電話をかけていたんだっけ。

記憶の糸をたぐる。去年のことを思い出す。彼との、客観的に見ればぱっとしないあれこれを再生する。

春が終わり、梅雨を抜けて夏にさしかかると、彼は大会出場に向けた減量を始めた。外食ができないということなので私たちは国立公園で弁当を持ち寄って食べる約束をした。しかしデートの日、台風が急遽日本列島に上陸することになり、公園で会うことは難しくなった。私は男を自分のアパートに招いた。
男は実家暮らしなのだ。あと車の免許も持っていない。やれやれといった感じだった。

私と男はスーパーで買い物をした後、私のアパートの部屋で共に料理をした。男は意外と手際よく洗い物を行った。男は外で会うよりもリラックスした様子だった。他人の目がないからだろうか、男はあの屈託のない笑みをしばしば浮かべたし、虚勢を張るような言葉をほとんど口にしなかった。くつろいだ様子で、私の作った焦げただし巻き卵を美味そうに頬張る男の横顔は美しかった。物事がポジティブな方向へ収束しそうな気がした。

しかし二週間後に顔を合わせたとき、彼の様子は一変していた。彼はどこかやつれてとげとげしい空気を放っていた。

「家に招いてもらって悪いんだけど」
 男は言った。
「実は大会に出るのはとりやめになったんだ。この前会ってからすぐ、体調を崩してさ、まあ風邪だったんだけど、結構拗らせちゃって、寝込んでる間、筋肉がごっそり落ちちゃったんだよ。寝込んだのは数日の間だったけど、体を戻すには数か月かかる。ひどいもんだよ。大会どころじゃない」

それは残念だったね、と私は言った。「気持ちはもう切り替えたから大丈夫だよ」と彼は言っていたがとてもそういう風には見えなかった。「もう何食ってもいいからさ、酒でも飲んで油ものでもドカ食いしてやろうかな」と乾いた笑いを漏らす彼に対して気まずさを感じながらスーパーで買い物をした。

有料配信サービスのドラマをアパートで観ながら男は饒舌に身の上話を語り続けた。不安なのだな、と私は思った。

「八年くらい前に恐ろしく体の相性がいい相手と出会った。年上の女の人だった。俺はその人に溺れたし、向こうも同じだったと思う。だけど向こうは俺を振った。もっと将来性のある大人の男じゃなきゃだめなんだって言って、エリート銀行員とあっさり結婚した。悲しかったけどその後長く付き合った彼女に出会って、乗り越えたはずだったんだ。だけど彼女とキャリアとか生活スタイルのこととかでうまくいかなくなった頃、いきなりその人から連絡が来たんだ。向こうもエリート銀行員と性の不一致で夫婦生活に亀裂が走ってるってことだった。それから、俺はその人と一度、関係を持ってしまった。浮気なんて倫理的に最低だし彼女を裏切るなんて許されるべきことじゃない。だけどその人とのセックスを思い出すと理性がうまく働かなくなったんだ。もちろん今はその人のことはブロックしてる。連絡を取るつもりはない。だけどともかく俺はもうああいう風に理性が制御できなくなるのは嫌なんだ。だから初めから相性が最高な相手じゃないと付き合いたくないんだよ」

「分かった」と私は言った。
「とりあえず、相性以前に私じゃ満足できないと思うから、もう会うのはやめた方がいいと思う」
さっさと判断した方がいいよ、と私は言った。

それからちょっとしたやりとりやいさかいを挟み、結果的に私たちは寝た。特に印象に残りづらいまずまずのセックスだった。ムードにもよそよそしさが滲んでいたし、お世辞にも体の相性がいいとは思えなかった。ただ、行為の間だけ男は別人のように優しかったため、ずっとベッドに入っていられたらいいのに、と悲劇のヒロインよろしく胸を痛めた。

行為が終わった後、「もう会うのやめようか」と私は彼に言った。私は受験の結果発表を待つときのようなこの不安定な時間から早く解放されたかったのだ。彼は「そんなこと言わないでよ」と眉を下げた。可愛い困り顔だった。

「来週の土曜日、良かったら映画でも観に行かない」と彼は言った。いいね、と私は言った。

来週なら、彼の情緒はもっと安定しているだろうか。もう少しぎこちなくない雰囲気で、お互いの勝手がある程度分かった状態でセックスできるだろうか。そう思った。

しかしデート中の空気はどういうわけかこの前より、さらに言うなら初対面のときよりずっとよそよそしく、しらけていて、固かった。おまけにデート中、予定よりかなり早い日程でいきなり生理がやってきた。次にどこどこに行きたい、という話をこちらがしてもかわされるばかりだった。

「連れて行きたい場所があるんだけど」
その日の夜、男は私に言った。
「ねえ、コーヒーショップの公衆電話の話、知ってる?」

「五年付き合った彼女に振られたとき、失意のどん底で、うまく肉体の調整もできなくて、何もかも参っててさ。そんなとき、いきなり今のパトロンが現れたんだ。緊張したよ。この業界に限らず医療界や経済界にも幅広く出資する権力者だって噂を聞いたことがあったからね。そんな人がいきなり俺の勤めるジムにやってきたんだ。それでさ、今君はどん底にいるね、って言うんだよ。正直最初はうさんくさい宗教の勧誘か何かだと思ったね。ほら、偉い人でもさ、偉い人だからこそ、馬鹿げたオカルト趣味に走ることってあるだろう。確かに彼の言葉は字面だけ見るとうさんくさかったよ。君もうさんくさいと思うだろうね。彼はこう言ったんだ。

『わたしが君のもとへ現れたのはね、君がどん底にいるからさ。どん底というのはすなわち端だ。端には、向こう側がある。端にいればいるほど反対側につながる助走はつながりやすいんだよ。分かるかな?』

彼が言ったこと、俺にはよく分からなかったね。聡明な君なら分かるのかもな。だけどさ、彼の声には独特な響きがあった。そこには物事を強制しない安心感のようなものがあったんだ。ごく自然な感じで混ざる京都弁風の響きも良かったのかもしれない。だから彼の言葉は不思議とすんなり俺の胸に入ってきた。
それでね、彼は、パトロンは、俺にコーヒーショップの公衆電話の話をしたんだ」

コーヒーショップの公衆電話の話を知ってるかい。馬鹿げた都市伝説として巷では出回っているけどね。現実はもう少し繊細で、複雑で、それから明示的だ。

コーヒーショップの公衆電話は存在する。時空を超えた通話は現実的に可能だ。ただ、死後の世界とつながることはできない。コーヒーショップの公衆電話がつなぐのはあくまで現世的な意識だ。しかし、亡くなった人間が生きていた過去や、生きているパターンの未来……平行世界の未来に回線をつなぐことはできる。ただ、ただね、死者に電話をかけて、「これから君は事故で死ぬんだ! 逃げて!」と叫んだり、「実は俺は平行世界の恋人でこの世界では君は生きていて……」とまくしたてたりしたい人間はこの公衆電話のもとにはたどり着けないんだ。だってそれはタブーだからね。

君は現実と手を取り合って生きていかなければいけないんだ。

コーヒーショップの公衆電話はあくまで君が現実と折り合いをつけてやっていく上での支えに過ぎないんだ。自分ではないものを変えようと無理に働きかけるのは、いくらそうした方が誰かが幸せになるのだと君が信じて疑わないにせよ、エゴなんだよ。

まあ、簡単に言うとさ、そのコーヒーショップの公衆電話ではちょっと不思議なおしゃべりができて、君はそのおしゃべりをきっかけに気持ちを切り替えられる。そういうことだ。だから、かつてのガールフレンドとでも話して、すっきりしてきなさい。

「それで、信じられないかもしれないけど、俺は確かにコーヒーショップの公衆電話で電話をかけたんだよ。それで、うまく気持ちに折り合いがついて、トレーニングに集中できるようになった。彼は俺のパトロンになり、優秀なコーチをつけてくれた。俺はボディビルの大会で優勝した。優勝するとトレーナーとしての単価も上がるし、スポーツブランドのモデルやアンバサダーの仕事も舞い込んでくる。一気に日常の状況が好転した」
「端から端に行けた」
「たぶん、そのときは」
「そして今も、端にいる」
「そうだね」
彼は頷いた。

男は私をスーパーマーケットの地下のコーヒーショップへ連れて行った。コーヒーショップには私たち以外誰も客がいなかった。私たちはコーヒーを注文し、席に運び、高さのある椅子に腰を下ろした。席とは反対側の壁に取り付けられた大きな液晶画面からは、ボディビルの日本大会の大会前インタビュー動画が流れていた。

「明日、すごい大会があるんだ」
男は言った。
「この大会で優勝した人間が世界大会の出場権を得る。日本人が世界大会で活躍してるという実績は、なくはないけど、まだまだってところだから、この大会の優勝者に期待がかかってる」
やがて西本さんがそうしているように、彼が席を立った。私は彼の背中を眺めていた。今はTシャツに覆われていて分からないが、この前ベッドで見た彼の背中には丸みを帯びた柔らかな筋肉で包まれていた、と私は思った。しかし画面に映し出されている、世界大会出場を競う選手たちの背中には、胡桃の殻のように非現実的な皺が細かく走っている。

ドーピングをしている選手はすぐ分かるんだ、と彼は言った。

体つきですぐ分かる。ステロイドのドーピングが違法だと世の中では騒がれているけど、世界レベルの選手はみんな検査に引っかからない程度のステロイドをやるのが暗黙の了解になってるんだ。

もちろんステロイドをやらないナチュラルの選手もいる。志は素晴らしいと思う。だけど、この業界の「目」はもうドーピングした肉体に慣れちゃってるんだ。
ナチュラルの選手は「別枠」とみなされる。世界規模の舞台からどんどん淘汰されていくんだよ。俺はまだドーピングはしてないけど、世界レベルで競って、食っていくために、いずれドーピングをすることになると思う。少しずつ薬を入れて、少しずつ抜く。医療チームと二人三脚でやっていくことになると思う。

異常だと思う?と彼は私に訊いた。異常だと思う、と私は言った。あなたではなく、そうまでして筋肉を作り上げなきゃいけない業界が。

筋肉って肉体の健やかさの象徴じゃないの。不健康な筋肉って、矛盾している気がする。

「まさにその通りなんだよ」
彼は言った。
「だけど正直、俺は、肉体を病ませてまで肉体の美しさを作り上げるやり方の矛盾にすら取り憑かれているんだと思う」

彼の言葉は私に村上龍の小説を思い出させた。少しずつ薬に体を慣らし、少しずつ抜く。紫陽花で作った偽物のハシシは誰かにとっての現実で私にとっての夢である。

男は公衆電話でどこかの誰かと会話していた。
電話をかける声は、液晶画面から流れる音楽や音声にかき消されて聞こえなかった。その画面の音声は、決してうるさいわけではないのに、きちんと適切な形で電話主の声を覆ってしまう。うまくできているのだ。

初めてここに来たとき、彼は誰に電話をかけたんだろう、と私は思った。五年間付き合ったガールフレンドだろうか?体の相性が、恐らくは並みだったガールフレンド。それとも肉体的快楽を忘れられずに浮気をした峰不二子みたいな女だろうか?

それから、今、彼は誰に向かって語りかけているんだろう。誰の声を聴きたがっているんだろう。きっと彼は彼自身と電話したがっている。それはなんとなく分かる。しかしどちらだろうか。彼は、素晴らしく体を鍛え上げて大会で優勝した過去の自分と通じたがっているのか?それとも、ドーピングの有無を乗り越えて生活を営んでいる未来の自分を垣間見たいと思っているのだろうか。

画面には一人の幼い少女の姿が映し出されていた。それは彼の影であるような気がした。

瞼が重く落ちかけていた。

「君は誰に電話をかけたい?」
いつの間にか通話を終えた彼が席に戻ってきて私に言った。
「私はいいや」
「そう?」
彼は不安そうな顔で私を見た・
「本当にいいの?」
いいよ、と私は言った。

あのとき誰かに電話をかけていたら、彼との連絡が途絶えることはなかったんだろうか。私の反応は彼をますます不安にさせてしまったのかもしれない。しかし私は電話をしなかった。私が電話したい相手は彼その人だったから。

「電話をかけ終わった」
西本さんはそう言って戻ってきた。
「どうだった?」
私は訊いた。
「まずますうまくいった気がする」
「そう」

西本さんが誰に電話をかけたのか、まずまずとはどういうことなのか、追及する気がなかった。西本さんが「まずますうまくいった気がする」と言うのなら、現実はそれ以上の言葉で表現しようがないものなのだろうという気がした。

「土方さんは誰にかけるの?」
 西本さんは真顔のまま可愛らしく小首を傾げた。
「なんか、土方さんってよそよそしいな。ヒジって呼んでいい? 私のことは西本のままでいい。ああ、良かったら、さん付けせずに西本、って呼び捨てとか」
「ヒジね。了解。呼び捨ては、まあいいんだけど、職場の先輩を呼び捨てはちょっとしづらいなあ」
「別にいいのに」

西本さんはまた真顔のまま小首を傾げ、私を見下ろした。
「それで、どうするの? 例のマッチョにでもかけてみる?」
それは違うような気がする、と私は言った。彼とのあれこれはこの電話を使うには卑近すぎる気がした。
「だったら、特定の誰、と念じずに、無意識の向こう側に手を伸ばすイメージでやってみるといい」

そうかもね、と私は言った。これではどちらが案内人なのか分かりやしない。

私はコーヒーが半分ほど残ったマグカップをテーブルに置き、席を立た。公衆電話の前に立ち、受話器を持ち上げて十円玉を入れる。ダイヤルボタンを押さず、受話器を耳に当てて目を瞑った。深く息をする。私が私の世界につながれるように。

やがて遠くから声が聞こえてくる。
「お世話になっております。ユニオンカードのオカ・モトと言います」

オカモトをオカ・モトとリズミカルに発音し、語尾に京都弁風の伸びが入る男声の口調を私は知っている。契約社員として勤める司法書士法人の訴訟課でよくやりとりする貸金業者のオカモトさんだ。

私と西本さんが勤める司法書士法人まめだ法務事務所の主な業務は過払い金返還請求だ。よくテレビ広告を打っている、うさんくさい、あれ、だ。

しかしながらあれの実態は、結構まともなのだ。
まめだ法務事務所は債務整理や過払い金返還請求に関し十万人ほどの顧客の受任実績があり、業者との信頼関係やノウハウも構築されている。実務に当たっているのは声優を夢見るピンクのツインテールの女の子だったりするけれど、彼・彼女たちはみなしっかりとした研修を受けたのち至極真面目に働いている。

まめだ事務所のスタッフは手続きのフローに従い、いくつかの部署に分かれて働いている。私の所属する訴訟課は、過払い金の金額や返還期日について消費者金融と交渉を進めたり訴訟手続きを行ったりする部署である。

過払い金とは消費者金融やカード会社が取り過ぎていた利息のことだ。金利の上限は利息制限法で定められている。しかし日本には利息制限法とは別に、出資法という現金の貸し付けについての法律も存在する。かつて出資法の上限金利は利息制限法のそれよりかなり高い年29.2パーセントとなっており、それを超えなければ刑事罰の対象にならないとされていた。そのため多くの貸金業者は利息制限法違反でありながら出資法には違反しない、法の抜け穴をついた割合の利息を付与していた。しかし法改正により出資法の上限金利が利息制限法の水準となり、利息制限法の上限金利を超える金利での貸付けは無効とされるようになった。法律が改正される前の出資法の上限金利と利息制限法の上限金利の差を「グレーゾーン金利」といい、グレーゾーン金利で支払った分が「過払い金」と定義される。

まめだ法務事務所は法を盾に、かつて高金利で貸し付けを行っていた貸金業者に対し「過払い金をなるべく払いすぎたままの額返せ」と交渉するのである。業者からすればたまったものではないが、訴訟を起こされるとたいていの場合負けてしまうため、仕方なく月の予算を決め、過払い金返還分の支出を賄っている。

つまり、貸金業者にとって過払い金返還請求業を営む司法書士法人は商売敵なのだ。

しかしオカモトさんは常に大人だった。
「過払い金の金額を提案させていただく七名様の件で……」とオカモトさんに電話口で言われた際、「ナナメ様というお客様ですか?」というとんちんかんな返事をしてしまった新人研修中の私に対し、苛立つわけでもあざけるわけでもなく実に爽やかに爆笑した。

爽やかに爆笑する人を私はオカモトさんしか知らない。
爆笑しつつも、業者の言い分の根拠を根掘り葉掘り探るこちらの面倒な問答に対しては実に真摯に対応をしてくれた。

実のところ私が研修後、訴訟課配属を希望したのは、オカモトさんのあの物腰柔らかで少々嘘くさい京都弁まじりの声が聴きたかったからなのだ。

そして今もまたオカモトさんは社会人として実に大人な様子で「もしもし?」とこちらの反応を促した。
「あの、もしもし、私、土方でして……」
「ああ、まめだ事務所の」
電話をかけてきた相手が日頃よくやりとりをしている人間だと知ったからだろう、オカモトさんの声音がワントーン明るくなった。
「どうされました?」

なんと言えばいいのだろう、と私は思った。そもそもなぜ電話はオカモトさんにつながったのだろう。ここで下手なことを言って訝しまれてしまったら仕事に支障が出る。名乗らなければ良かったと後悔しつつ、とりあえずとりつくろわなければならないと思い、言葉を続けた。

「ええと、すみません。そちらに電話するつもりはなかったんです。私、あの、公衆電話から電話をかけようとしていて、けれど酔っているからか電話番号を間違えてしまったみたいなんです。本当にごめんなさい、オカモトさんにつながってしまったのは恐ろしい偶然で……」
「偶然とちゃいますよ」
「えっ」
「土方さんは公衆電話から電話をかけているんでしょう。ねえ、その公衆電話はコーヒーショップの公衆電話とちゃいますか。ほんなら偶然とは違います」
 いつもより顕著に訛っているオカモトさんの声は奇妙に透き通っていた。
「オカモトさんは、ご存じなんですか? その、コーヒーショップの公衆電話が実在するってこと」
「知っていますよ」

小さな女の子をたしなめるようにオカモトさんは笑った。

「私は土方さんよりも長いこと生きてきてるんです。いろいろなことを経験しているんですよ」

オカモトさんは仕事における電話でもしばしばひどく優しい口調でそう囁く。
自分の書ける電話の用件が込み入って長いときはいちいち平謝りするくせに、こちらからかける電話を受けるときは、用件が複雑に絡み合って長くなったことを謝る私に柔らかく笑う。

「気にしないでくださいね。もっと話が込み入ることもざらにあるんですよ、土方さん。ねえ、私はあなたよりはるかに長く生きてきてるんです。色々なことを経験しているんですよ」

私とオカモトさんの年齢差はオカモトさんが思っているより大きくないと思う。オカモトさんの声は二、三十代の若々しいものだし、私の言動や声色は私の実年齢よりはるかに幼稚なのだ。

「土方さん」
さざ波のような声が公衆電話の受話器越しに響く。
「あなたの世界において私の存在は決定されていない。私はあなたの中でどのような姿を取ることもできる。あなたの頭の中にある複数のイメージのどれになることだってできるけれど、あなたは既にたった一つの確固としたイメージを持っている。そのイメージでもってあなたは私を創造する」
「オカモトさんの姿」
「そうです」

私の姿、とオカモトさんは言った。私は目を閉じ、意識の余白とも言うべき部分に神経を注いだ。

オカモトさんはどんな姿をしているのだろうかという想像を膨らませることはしばしばある。

オカモトさんはユニオンカードとハートライフという二つの著名な消費者金融に勤めていて、どちらの番号にかけてもたいていオカモトさんが対応してくれる。
ユニオンカードとハートライフが系列会社であるということは一般市民には伏せられている。
しかし実際のところ両者は義中会という広域指定暴力団の運営するアンダーグランドな団体なのだ。
広告には有名な女優を採用して明るいイメージを演出している。過払い金予算は比較的潤沢にあり、司法書士法人が増額交渉の電話を継続的にかければかけた分だけ返還額を自動的に吊り上げてくれる。

しかしその一方で債務者に対しては身の毛もよだつような恐ろしい取り立てを行っているのだというのが業界内で密かに共有されている情報だ。

常識的に考えると、オカモトさんの姿は三十代半ばから後半ですと顔に描いてあるような普通の日本人男性のそれ、なのだろう。固太りの肉体の上にぱりっとしたスーツを纏っている。油の滲む額や子供の頃の愛らしさの残るつぶらな瞳やひげの剃り跡を私はわりとリアルに想像することができる。現実はそんなものだと思う。

しかし、私が想像して個人的にしっくりくるオカモトさんの姿はそれとは異なる。

オカモトさんはやはりぱりっとしたスーツを着ているが、体格は細身である。年齢の分かりづらいつるんとした顔をしている。肌は青ざめ、狐に似た顔立ちをしている。

日ごろは狐目をきゅうっと細めて愛想よく電話をしているが、ひとたび取り立てとなるとオカモトさんは目から笑みを消す。微笑んでいないオカモトさんの姿は暴力団に未だ籍を置いている強面の同僚から見ても恐ろしく映る。オカモトさんはジャケットを脱ぎ、ベストとシャツのボタンを開け、体中に掘られた刺青を債務者に見せて、非人道的な脅しをかける。法的措置に訴えようという気力を削ぎ落すような凄惨なやり口を使う。

まあ、仮に債務者が法的手段に訴えたところで、司法は権力と癒着しているから全く無意味なのだけれど。

これは妄想であって、しかし、妄想にしてはあまりにも力強いイメージでもある。背後の液晶画面はいつの間にか和彫りの刺青を映し出していた。蛇、般若、仏像、登り龍……。

債務者の一家を外国に売り払う算段を立て、その際回収できる金額を頭の中で計算して「まあまあの利益率だな」と頷くと、オカモトさんはデスクに戻る。

非合法的な手段をのびのびと使うには、合法的な場においてある程度いい子にしていなければならない。だからわざわざ過払い金予算を捻出して面倒な金額交渉を地道に行っているのだ。昼の顔と夜の顔はどちらも持っていないといざというとき帰る場所がなくなってしまう。

闇金業のみに勤しんだ結果警察官の庇護を失い摘発されたり、はたまた馬鹿正直に過払い金を吐き出し続けて倒産したりした同業者をオカモトさんはたくさん見てきた。彼らと同じ轍は踏まない。

自分は七名様をナナメ様と聞き間違える間抜けな小娘にだって紳士的な態度を崩さないのだ、とオカモトさんは考える。オカモトさんはネクタイを締め直し、特殊な音波を発する呼び出し音に目を眇める。コーヒーショップの公衆電話からかけられた電話を取り、口を開く。

「もしもし?」

もしもし、というオカモトさんの声が夢想と現実をつなげた。
「はい」と私は言った。
「つながったみたいですね」とオカモトさんは言った。「つまり、夢想と現実が」
「そうみたいですね。信じがたいことだけど、でも、奇跡的に……」
受話器越しにしいっと囁かれた。

向こう側にいるのは紛れもなく狐に似た顔をした優男のオカモトさんだと私は思った。

「奇跡だとかなんだとかいう言葉を使ってはいけません。あなたもご存じのとおり、コーヒーショップの世界は繊細で柔らかいから。ベタな言葉一つで簡単に壊れてしまう。言語や絵や芝居や、あらゆる表現手段を介するということは、世界を一度殺すのと同じだ。殺して、再び息を拭き込む。そのような手段を用いられた世界が元の命を持って蘇生することはほとんどない。たいていの場合みなグロテスクなゾンビか命なき毛皮装飾にされるのです。土方さんならきっとお分かりじゃないでしょうか……」

なんとなく分かります、と私は言った。

胸がふわふわとする。恋ではない。けれどオカモトさんの語尾を伸ばした京都弁まじりの声には、オカモトさんの言葉選びには、スーパーマーケットの地下のコーヒーショップ的安らぎを感じるのだ。非日常的で、非人間的な死の世界の静かな安寧が私の胸に満ちる。

「良ければ、今度の金曜日、食事でもどうですか」
オカモトさんが小さな声で言った。
「夜七時に池袋の『トラヴェリン・マン』でどうでしょう」
「オカモトさんに私の姿が分かるでしょうか」
私は言った。
「私はたぶん、オカモトさんが思っているより老けていますよ。申し訳ないのだけれど」
「あなたはティーンの女の子じゃない。立派な大人だ。今まで電話で子供扱いするような話し方をしてしまっていたのはあなたを馬鹿にしていたわけでも年齢を極めて低く見積もっていたわけでもないんですよ。ただ、私にとってはたいていの話し相手はぴちぴちした若者なんです。あなたに限らず。不快な思いをさせてしまったのなら申し訳ありませんが」
「いいえ、とんでもないです」
「それじゃあ、お食事はご一緒していただけますか」

オカモトさんの口調から微笑の気配が消えたのを私はなんとなく感じ取った。「いいですよ」と私は言った。「金曜日、夜七時、池袋、トラヴェリン・マン」
「指切りげんまん」

オカモトさんはそう呟くと再び笑った。電話は静かに切れた。私は顔を上げた。目が痛い。なぜ?煙が目に染みているからだ。なんの煙?煙草の煙だ。西本さんが煙草を吸っているのだ。西本さんはこちらを見守りながら何本目かの煙草を吸っていた。西本さんの煙草からは野焼きのようにもうもうとしたすさまじい量の白煙が立ち込めている。

喫茶店で待ち合わせたのは午後二時だったが、スーパーマーケットを出たとき辺りはもう夜の闇に覆われていた。

カラオケ行こうよ、と西本さんが言った。
「カラオケなんてやってるとこある?」
「あるよ、知ってる」

着いてきて、と西本さんは言った。私は西本さんの背を追った。西本さんは猫のように闇の合間を縫ってすいすいと夜の住宅街を進み、路面電車の線路をわたってネオンの灯りのきらめく駅前の繁華街へ出た。そして裏道にぽつんと建つカラオケ屋のビルに音もなく入っていった。

カラオケ屋はそこそこ賑わっていたが、週末で、おまけにほかのカラオケ店が閉まっている状況下であるにしては客が少ないような気がした。

「ここは街の死角なんだよ」と西本さんは言った。「スーパーマーケットの地下のコーヒーショップにホームレスがたむろしないのと同じ理屈」

私たちはたいして待つこともなくすんなりと部屋に案内された。二、三人が並んで座ればぎゅうぎゅうになってしまいそうな小さいソファが一つと画面が一つだけ配置された狭い部屋はニコチンの嫌な臭いがした。

「私は今は吸わないから安心して」
消臭スプレーを部屋の壁にふきかけながらそう言った西本さんに「そうしてもらえると助かる」と返しながら私は音量のつまみを操作した。

「何やってんの」
「音楽の音量を小さくしてる。悪いけど、初めにこれをしないと落ち着かないの。音が小さかったら後で上げて。いきなりガーンと音楽が鳴るのが心臓に悪くて嫌なんだよね。耐え難い」
「ヒジって面白いね」
たいして面白くもなさそうな顔のまま西本さんが呟いた。

西本さんが入れたのは有名なポップスだった。リリースされたのは九十年代だが令和の今聞いても全く古さを感じない、むしろ新しさすら感じる曲。

「私、その曲すごく好きだ」
「時代によって色褪せない曲っていいよな」
西本さんはそう囁くとマイクをしっかりと握りしめた。歌唱が始まる。

西本さんの声は無声音のみで構成されているような掠れ声だから、西本さんの歌はサブカル本屋で流れているポップスのボサノヴァ・カバーみたいな感じになるものだと思っていた。しかし現実における西本さんの歌声には、話し声と違って声というものがしっかりあった。

西本さんは非常に歌がうまかった。時に荒々しい男の声を、時に澄んだ女の声を出して歌う西本さんの歌は芸術的だった。

「すごいね。うまいってもんじゃない。びっくりしちゃった」
「ありがとう」西本さんはやや照れくさそうに言った。
「話し声と声が全然違うんだね」
「歌には歌の器官を使うから。だけどあれだな、歌唱に使う筋肉を長いこと使っていなかったから百パーセントの実力じゃないって感じがする」
「それにしてもすごかったよ。『女王蜂』みたいだったな」
「女王蜂」

暗い照明の中、西本さんが瞬きをして私を見つめた。その瞳はカラオケ機械から放たれた紫色の灯りでちかちかと光っている。

「アーティストだ。聞いたことがある。そうだ、最近は私の声を形容できる存在が現れたんだ。一昔前はこんなの聞いたことないって言われてたのに。人間はどんどん変化していくんだね」
「一昔前って……西本さんいくつなの。なんなら私より年下みたいに見えるけど」
「いや」

西本さんの眼光が非現実的なほど鋭く光った。
「ヒジは年上じゃない。なんなら、私にとってはたいていの人間が年下だよ」

――私にとってはたいていの話し相手はぴちぴちした若者なんです。
オカモトさんの言葉が頭の中で重なった。

「ねえ、私は男でも女でもない。なんなら人間でもない。そういう生き物だ」

西本さんの言葉はともすれば夢見がちな若者の妄言かからかいの言葉のようだった。

しかし、西本さんの言っていることは決して妄言やまやかしではないのだということをどういうわけか私は認識していた。そしてその乱暴な断定の感覚こそが西本さんの言葉が真実であるという証拠であるような気がした。

私は天使でも悪魔でも死神でもないと思う、と西本さんは言った。

「私はただここにある存在だ。つまり、なんだろう、コーヒーショップの公衆電話が電話をつなぐ理屈に似ている。過去や未来や時間の経過や世界の分岐といった概念が私にはないんだ。どこでも、私はただ、今を生き続けている。人間と異なることは、私という人間の外見や内面が変わらないということだ。人間は肉体を空気にさらし、酸化するキャベツみたいに時と共に少しずつ変化しながら生きている。しかし私は本当の意味で今しか生きていないんだ。私は過去への感慨や未来への展望やその他一切のイマジネーションを持ち合わせていない。その点で私はコーヒーショップの公衆電話とは異質だ。コーヒーショップの公衆電話は人のイマジネーションを用いて世界をつなげる。良くも悪くも」
「良くも悪くも」
「そう」

西本さんは獣を警戒する狩人のような顔で頷いた。
「いいか、寂しい心の隙間をスーパーマーケットの地下のコーヒーショップ的なもので埋めるのはなるべくやめた方がいい。魅入られるから」
「西本さんに?」
「馬鹿言うな」
 西本さんは憤慨した様子で言った。
「もっと人間的な、動物的な想念の種のことだよ」
 私は笑った。西本さん、人間的なぶれを少し獲得したみたい。だって照れたし、怒った。

動物的な想念の種は私の胸に撒かれてしまったようだ。

その晩私はひどい夢を見た。

私は掃除の行き届いていない狭い実家の二階で布団にくるまっている。窓がコンコンと叩かれる。驚いて窓を開けると彼がいる。彼は筋骨隆々の肉体でもって軽やかにベランダの柵を乗り越え、「よっ」とやって来る。
「久しぶり」
 何が久しぶりだよ、調子がいいんだから、と私は笑う。けれどすぐに一階が騒々しくなる。
「男が屋根を上っていたらしいわよ」
「まさか土方さんちの娘さん、メシア様を裏切るような行為に及んでるんじゃないでしょうね」
「正二従位の土方家の娘が禁忌を犯すなんて、とんでもないことだよ」

近所の人々が口々に叫びながらどかどかと階段を昇ってくる。コミューンの人々はみな兄弟であるというメシア様の教えがあるから、プライバシーなんてものはないのだ。

男は呆れて家を出ていく。隣人が私を罵る。母が泣く。父が、メシア様に逆らう理由はなんだ、論理的に言ってみろ、という。

「おかしいよ」
 恐怖に震えながら私は言葉を紡ぐ。
「みんな、土足で上がり込んでさ。男の影がどうこうより、なんでゴミだらけのこの家について誰も指摘してくれないの。メシア様は愛と清浄を司るんでしょ、それなのに……」
「へえ、そういう言い方をするのか」意地悪く父は言う。「メシア様が、汝のありのままの在り方を清浄とみなせと教えたのをお前は聞いていなかったのか? メシア様を冒涜するつもりか。いいでしょう。教典を一から読み直そう。お前は幼いから俗世の妄言に騙されるんだ……」

息が苦しくなる。パニック。

目が覚めた時、辺りは暗かった。朝のはずなのに暗いなんておかしい、夜中に目が覚めてしまったんだろうかと思い時計を見て、愕然とした。時計の針は六時を指していた。窓の外は茜色に染まっていた。下校のチャイムが鳴った。私は丸一日目覚めることなく悪夢に閉じ込められていたようだった。

荒く呼吸をしながら汗で濡れた服を脱ぎ、食塩水を作って飲んだ。体はまだ気だるかったけれど、このまま眠ったら永遠に起きれないような気がしたので、無理に動いてシャワーを浴びた。シャワーを浴びると肉体と精神の感覚がある程度はっきりしてきた。

もう怖がらなくていい、と自分に言い聞かせた。私はもう実家にいない。コミューンの人々や家族に怯えなくていいんだ。彼らはもう勝手に私の寝室に押し入ってこないのだ。

スピリチュアル的意識が強く純真な私の両親は、私が幼い頃、父が会社をリストラされたことをきっかけにキリスト教から派生した宗教的農業共同体、「コミューン」に移り住んだ。
私は二十五歳になるまでコミューン内の実家で暮らしていた。

私はコミューンでの教えをある部分は受容しある部分は心の中で激しく反発しながら生きてきた。メシア様の意向と異なる考えを私が持つたび、父は私をプレハブの「反省部屋」に連れて行き、睡眠も食事も与えず、また自らも摂らず「指導」を行った。

狙った回答が返ってきそうかたちの質問をし、意見を述べさせ、その意見を少しずつずれたものに言い換えていきながら最終的には自分の意見で叩き潰し、もし自分の言うことを聞かなかったら私がどんなにみじめな死を迎えるのかを滔々と語った。

私は苦痛から解放されるため、表面上父の言うことに従っていた。とにかく「ごめんなさい」と繰り返した。父の理屈が正しいと信じ込めば死にたい気持ちから逃れられるのではないかと思い、父は正しいと自分を無理に納得させようとした。

大人になるにつれ父や母やコミューンへの不信感は増していった。幸いなことにコミューンは私の大学の学費を半分出してくれたから、残る半分を返還不要の奨学金で賄って、大学へと進んだ。このまま就職してコミューンを出るつもりだった。しかしそれはコミューンの人々が許さなかった。

毎日のように「反省部屋」に閉じ込められて不幸な未来を囁かれる生活に疲弊した私は一般企業の就職を諦め、コミューン内の登記を担う司法書士事務所での勤務を決めた。
私はゆくゆくはコミューンの裁定役が決めたコミューン内の男と見合いし、結婚することになっていた。私は人生を諦めた。

けれどある日突然何かが決壊した。私はコミューンの人々に隠れて引っ越しの準備を進め、家を出た。
わずかな貯金はアパートの賃貸契約や家具の購入でほぼゼロになった。食いつなぐため、手っ取り早く採用されるだろう、有期契約社員という名のアルバイトに応募した。

コミューンでの仕事が活かせて楽かもしれないと思い同じ司法書士事務所を選んだ。だが実際、過払金返還ビジネスはコミューンで携わっていた不動産登記業務とは何から何まで勝手が違った。

私はそんな簡単なことすらも分かっていなかったのだ。どうせ等しく薄給であるなら、自分のやりたいことを探して飛び込むべきだった。

胸の中ががらんとしている。

わずかな生活の糧を得るために馬車馬のように働きながら、私の心の中には空白が広がっている。触れるとうるさく叫ぶ。しくしくと痛む。

コミューンにいた頃は不安は自由のめまいというキルケゴールの言葉に憧れていた。不安になるくらいの自由を浴びたかった。

しかし今、夥しい数の未決定事項で作られた白い海に私は呼吸を奪われている。肉体が乾く。精神が穴だらけのスポンジになる。スーパーマーケットの地下のコーヒーはからからの肉体に入り込む。意識の隙間という隙間に侵食する。公衆電話は時計の針を狂わせる。

私はアパートのベッドの上で、布団を被り、目を見開いたままじっと横たわっている。今は、私と西本さんがスーパーマーケットの地下のコーヒーショップで公衆電話を使い、カラオケボックスに入った日の翌日の夜なのだろうか。それともまた、別の日なのだろうか。

指切りげんまん。オカモトさんが小指を差し出すさまが脳内で再生される。半月の形をしたオカモトさんの爪の甘さが肉体を痺れさせる。ステロイドみたいに。

「トラヴェリン・マン」の場所を知らなくたって、インターネットで検索できるから問題ない。インターネットによって私たちは世界の表層を知覚する。まさに蜘蛛の巣のように、意識は広がり、薄く引き伸ばされる。

羊肉を扱うダイナーの「トラヴェリン・マン」は池袋東口の路地裏にある純喫茶の二階に看板もなく店を構えていた。

廃屋のそれみたいな細いガラス戸を抜け、リノリウムの狭い階段をヒール靴で昇りながら、いったい誰がここに「トラヴェリン・マン」があるということに気づくのだろうと思った。しかし棺桶の蓋のような扉を開けた先に広がる店内は祭りの日のように賑わっていた。琥珀色のランプのきらめきと人々のざわめきを背に、シャツとベスト、スラックス姿のウエイターが「ご予約のお客様ですか」と私を見下ろした。
「はい。待ち合わせをしていて……」

私の言葉を聞くか聞かないかといううちにウエイターは一礼して振り返り、歩き始めた。すいすいと宙を掻く長い手が私を誘う。無防備な気持ちでウエイターに着いていく。やがてウエイターはテーブル席の前で足を止めた。

どうも、とオカモトさんは言った。それから、狐のように目を細めて笑った。スーツのジャケットを脱ぎ、くつろいだ様子で脚をすらりと伸ばして椅子に座るオカモトさんの襟元を私は見つめた。深い赤色の刺青。

「私がすぐ分かったでしょう」
やはり京都弁風の、独特のイントネーションに彩られた口調でオカモトさんが囁いた。「私もあなたがすぐに分かりました。だから彼に案内させたんです」

オカモトさんはネクタイを緩めながらワインリストを眺め、適当なものを見繕ってウエイターに注文した。それから私にワインリストを向け、あなたはどうしますか、と言った。おすすめはこちらかこちらです。こちらは飲みやすく、悪酔いしづらい。こちらは羊肉とよく合う。

迷子の子供を見下ろしてキャンディを握らせるようなオカモトさんの態度に、決まり悪さと安心感を同じだけ感じながら、私は鏡文字のように難解な外国語を眺め、じゃあこれで、とオカモトさんが飲みやすいと薦めたワインを指した。

「まめだ法務事務所さんの訴訟担当部署は業界でも随一の交渉力を有しておると、業界ではしきりに囁かれておりますよ」
オカモトさんは言った。
「過払金返還ビジネスというのは非常に恐ろしい。貸金業者は貧乏でぴいぴい言っているのに。あの武富士でさえ倒産したというのにね」
「過払金ビジネスをやってる連中はハイエナだ」
オカモトさんの後ろで誰かが叫んだ。ひどく酩酊した声だった。

「失敬」
形のいい補正眉をひそめてオカモトさんが囁いた。
「ここには同業者がよく来るんですよ。二重の意味で、その……そういうわけなんです。物騒で申し訳ありませんが」

今度は私が眉をひそめた。義中会、と心の中で呟く。店内をざっと見渡す。暗い目をした男たちと華やかな服装に身を包んだ若い女たち、葉巻、ショットグラスが視界に入り込んでくる。

「こういうご時世に夜、ゆっくりと飲食をして酒を嗜むことのできる場は上流階級の秘密の社交場を除くと主に二種類に分かれています。一つは我々のような、非合法的団体の関係する場。もう一つは、新型ウイルスは実在せず、人々の遺伝子を組み替えてしまう恐ろしい対生物兵器のワクチンの毒素を溶かすにはコカレロかイェーガーショットの酒精が良いと信じている、そんな人々の主催する場」
「正反対ですね」
「世間に背を向けているという点では同じですが」
ワインが運ばれてきた。過払金返還ビジネスは斜陽産業ですよ、と乾杯しながら私は言った。もちろんご存知でしょうけど。

「利息制限法改正前に借り入れを始めた人々の借金は既に時効を迎えつつあります。みな残り少ない客を取り合っているのです。ハイエナみたいに」
過払い金について語っていると、なんだか急に色々なことが馬鹿馬鹿しく思えてきた。私はなぜ過払金の話なんかしているんだろう。オカモトさんの話し方や刺青、演出、それら全てが子供のおもちゃのように上滑りしていた。私は自分を非合法な輩のたむろする店なんかに誘ったオカモトさんを軽蔑すらし始めていた。それなのに、催眠術にかけられたように椅子から立ち上がることができなかった。
「ねえ、あなたは今、落胆しているんでしょうね」

オカモトさんは背を丸め、首をもたげ、私の目の下にまなざしを滑り込ませた。
「私や、私を取り巻く景色が急激に色を失って見え始めたのでしょう。公衆電話の導く事象がちんけな手品のように思えて仕方ないはずだ。しかしそれはね、土方さん、厳密に言うと違うんですよ。我々はあなたに対して既に力を発揮したのです。そして今、役目を終えようとしている」

胸がむかむかする。オカモトさんは羊肉を食べ進めていた。
フォークとナイフで羊をぐちゃぐちゃに解体していた。

「今回はあっけないほどすぐ終わるでしょう。あなたの肉体と精神がまだ若く、健やかだから、コーヒーショップの公衆電話的概念はほどよく作用するに留まる。しかし、あなたの力が弱まったとき、我々は今度こそあなたの余白を食い尽くす」

オカモトさんは肉片をフォークで突き刺し、私の唇に押し付けた。
「食べなさい」オカモトさんは笑みを消して言った。「そうしないと終わらない」

私はオカモトさんの荒っぽい声に気圧されて口を開き、えずいた。口の中に血の味が満ちた。オカモトさんから獣のにおいが漂っていたことにそのとき気づいた。

店を出た後、オカモトさんから逃げるように早足で帰った。肉体と精神が不和を訴えていた。何もかもが宙ぶらりんでばらばらだった。

アパートに着くと、鞄を肩にかけたままトイレの便器に蹲って吐いた。

吐いても吐いても気分は一向によくならなかった。それどころかむしろ吐けば吐くほど具合が悪くなる一方だった。

体が異様に冷たくなり始めた。吐瀉物が喉を苦く掻いた。この最悪の状態のまま死ぬのかもしれないと思った。今ここで死ぬのは嫌だ。今死んだら私はこのトイレから動くことのできない悪霊になってしまうかもしれない。

嘔吐感が収まったのは夜明け前だった。

私は口を濯ぎ、水を飲み、シャワーを浴びた。髪と体をさっと拭いて着替えると、髪を乾かさないままベッドへ潜り込んで泥のように眠った。雑念が一切取り除かれた睡眠だった。

夢は見なかった。朝七時に目が覚めた。

無心のまま起き出してタブレット端末を起動し、「体調不良のため休みます」というメッセージを打った。メッセージアプリには通知を切っていた両親の共同アカウントからのメッセージが数件溜まっていた。

「一週間お疲れ様でした。念の為に隠○を使うね、ふざけてる訳じゃないからね。何せ彼らの頂天にはレ○○○ア○がいて四○元かそれ以上だから。皆ほとんどが妄想として片付ける事を見越しているのだ。しかし我々コミューンは闇の団体の陰謀を知っている。いいか我が娘よ。ワ◯チ◯は打つな。コ○ちゃんは実在しない。あなたは聖なる事実についてどれだけ調べましたか。世俗に混じってなんとなく生きている暇があったら学びなさい。ママなんて十冊以上も関連本を読んだ。パパは仕事しながらそれを読みきかせてもらった。あとは得た知恵を生活に生かしてゆきたい。Bye-Bye」

常日頃なら頭と胸が痛くなるような両親からのメッセージを見ても何も感じなかった。
私は自身の感受性のようなものを使い果たしていた。あるいはそれはスーパーマーケットのコーヒーショップに、公衆電話の先にいたオカモトさんに、食われてしまったのかもしれなかった。

日が落ちる頃、まともにベッドから起き上がれるようになった。私は食塩水を作って飲み、排泄し、身支度を整えた。空腹は感じなかった。

人のまばらな電車に乗り込んだ。青色の座席に腰を沈めながら、耳にワイヤレスイヤホンを嵌め、YouTubeアプリを開く。私の好きなJポップ・ソングを検索する。八年前の投稿が上位にヒットする。四人の男子高校生が廊下の片隅でプロモーションビデオを真似たダンスを踊っている動画。

動画の中の彼らは私が高校生だった頃の高校生だ。髪型や制服の着崩し方は、私にとって、酸素のように自然な「今」だった。彼らはただ楽しみ、踊っている。しかし動画のコメント欄には、ノスタルジーを強調するような内容のコメントがずらりと並んでいた。

「素人配信アプリのなかった時代だ」
「あの頃はみな、他人の目を気にせずのびのびと遊び、踊り、動画を撮っていた」
「古き良き平成」
「着こなし方がまさに平成だ。過ぎ去った時代だ。もう戻れない。寂しい」
「今の子たちはあまりにも冷めている」
「この時代の高校生になりたかったなあ。by令和のDK」

私たちが高校生だったころ、平成はなんの特徴もない時代だって世間から言われてたのにな、と思う。

動画の中にあるのは今だ。動画の外にあるのはもう一つの今だ。
浅く溜め息をついた。今だけを生きている西本さんの気持ちが分かったような気がした。

スーパーマーケットの地下のコーヒーショップには西本さんがいた。
「よう。体調はどう」
「もう大丈夫」
「そう?」西本さんはカウンター席の椅子から降りると気遣わしげに私の顔を覗き込んだ。「なんかげっそりしてないか? 今日何か食べたかい」
「何も食べてない」
「それはいけない」
西本さんは掠れた声で小さく叫んだ。
「人間はちゃんと食べないと」

西本さんは私の手を取り、コーヒーショップのカウンターへ連れて行った。私はそのとき初めてこのコーヒーショップの注文口の向こう側にメニュー表が掲げられているのだということを知覚した。メニュー表には、ソフトクリームとドーナツとコーヒーの文字がレタリングした丸っこいゴシック体で記されていた。
「ドーナツでもどう?」

西本さんが訊いた。いいね、と私は言った。西本さんの履く固い靴のかかとがかつんと床にぶつかった。我々は馬鹿みたいな量のドーナツを注文した。コーヒーは注文しなかった。

ドーナツの揚げる音とにおいはあまりに現実的だった。腹が鳴った。コーヒーショップの悪夢の中みたいな雰囲気が散り散りになっていくのを私は感じていた。

なんだか狐につままれたような気分だった。
コーヒーショップの地下の公衆電話がもたらす作用はその濃密な予感に対し、実態があるのかないのかすらよく分からないまま過ぎて行ったのだ。

しかし、現実なんてそんなものなのかもしれない。この一瞬を何度も何度も重ねるうち、私たちはあっという間に老いて死ぬのかもしれない。

「不安は自由のめまい」
 ドーナツが揚がるのを待ちながら西本さんが言った。
「キルケゴール」
「そう。あーあ、人間がうらやましい。私もくらくらするくらいの隙間がほしい。端から端へ移動したい」
「きっとそれはないものねだりだよ」私は言った。
「でもさ、ちょっと思ったんだけど、うらやんで手を伸ばしたい何かがあるってことは、西本さんの中にはすでに隙間が生まれ始めてるってことなんじゃないのかな。つまり、意識が欠陥住宅を転がるスーパーボールみたいに転がるための、偏り、隙間、そういうものがさ」

「そうかもしれない」西本さんはぱちりと瞬きをして嘆息した。月の寝息のようにひそやかで魅力的な嘆息だった。

それから、私たちはドーナツを山ほど食べた。バターと蜂蜜のにおいのするプレーンドーナツは内臓に染みた。

「公衆電話を使ってみなよ」
西本さんは言った。
「どうしよう。怖いな」
「大丈夫。コーヒーを飲んでないから、この前みたいなつながり方はしないよ。ヒジはただ、言いたいことを言えばいいんだよ。泣いてもいいし歌ってもいいんだよ」

私は軽く肩を回した。
壁に嵌め込まれた液晶画面は今日はブラックアウトしている。
特に言いたいことはなかった。私の胸の隙間は、震えは、オカモトさんに奪われたままだった。

ライトな気持ちで公衆電話の前に立ち、受話器を取った。歌を口ずさむ。ゼロ年代に流行ったポップス。けれど令和に生きる私の今を彩る曲。
歌っていると、だんだんと声に力が籠もってくるのを感じた。歌を歌うための筋肉が温まる。精神より先に肉体が意識の伸びを思い出す。

スーパーマーケットの地下から地上へと出た後、西本さんと肩を並べて繫華街へ向かい歩いた。信号が赤になる。立ち止まる。
タブレット端末をポケットから取り出し、私にスーパーマーケットの地下のコーヒーショップの場所を教えた男の連絡先を消した。

ありふれたやり方で余白を作る。私は私を作り替えていく。新たな誰かとつながっていく。

コーヒーショップの公衆電話的存在に半身を食われながら、同時に我々はコーヒーショップの公衆電話的存在によって生かされもする。法の隙間に滑り込み、高金利で人々に金を貸し付けた貸金業者と、法改正によって生まれた隙間に滑り込み、貸金業者から過払い金を取っていった司法書士法人のように尾を噛み合う。再生を繰り返しながらゆるやかに朽ちていく。そしていつか、スーパーの地下のコーヒーショップの壁に塗り込められるのだ。

「コーヒーの試飲やってます」

ネオンの光の落ちる雑踏の中、誰かが叫ぶ。ウイルスに対しあまりにも無防備な姿の紙コップに、人ごみの中でマスクを外させる試飲という行為に、人々が眉をひそめる。

しかしコップを手に取る人間もいる。極彩色のスーツと和彫りで肉体を彩る人々。「コ〇ナは嘘だ!政府に騙されるな!ワ〇チ〇は人間を宇宙人の奴隷畜生にする!」と書かれた看板を小脇に抱える清潔そうな格好の人々。西本さん。どろんとした目でぼんやり歩く、「世俗に混じってなんとなく生きている」私のような人々。

みな根底にあるものは違って、それらは決して交わりそうにない。しかし私たちは同じコーヒーを飲む。

今でもお酒の提供やってますよ、と繁華街の辻でキャッチが叫ぶ。私たちは一つのかたまりになって、肩を揺らし、ある方向から異なる方向へと流れていく。アスファルトに薄く敷かれた公衆電話のホログラムを踏み潰して、どこまでも歩いていく。





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