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ハン・ガン 著 斎藤真理子 訳 『すべての、白いものたちの』 河出文庫

「たまごって白くて丸いよね」と言うとき、その「白」や「丸」は人によって違うはずだ。「白」はどのような白さなのか。質感はどうなのか。「丸」はどのような丸味なのか。そもそも「たまご」は何のたまごなのか。「ねぇ、タマゴ買ってきてよ」と言われて、どこで何を買うか。スーパーでパックに収まって並んでいる鶏卵か、鶉の卵か、まさかエスニック食材店で「特別入荷」のダチョウの卵を買うなんてことは想像しないだろう。一個で約60人分のオムレツができるらしいので、状況によってはあり得ないことではないのだが。

そういえば、昔、バングラディシュのダッカで少し大きなホテルに宿泊したとき、そこのレストランにステンレスのバットに敷き詰められた厚焼きたまごのようなものが並べられていた。これを取り皿に取り分けてもらっていただいたら、プリンだった。インドで一ヶ月ほど貧乏旅行をした帰路のことだった所為もあるかもしれないのだが、これほど美味いプリンを食べたことはそれまでになかった。また、それ以降も今日に至るまでない。後で聞いた話によると、それは彼の地の伝統的な菓子だそうだ。そういわれてみれば何となく家庭的な味だった。「おいしいよぉ。たくさん食べていきな」という感じの味。

ついでに思い出したのだが、インドでは乳製品が多かった。どのあたりが境になるか知らないが、北の人々はチャイを愛飲し、南の人々はコーヒーを愛飲する。どちらにも大量のミルクと砂糖が入る。バンガロールで、朝早くに宿の周りを散歩していたら、行列に出くわした。その列を辿っていくと、小さな屋台のようなものがあり、人々はそこでビニール袋に入ったミルクを受け取っていた。その日に使う分のミルクをこうして毎朝調達するのだろう。その白さは、日本で当たり前に販売されている牛乳よりも少し透明感のある印象だったが、そう見えたのは朝の光と空気の影響もあったかもしれない。

透明感、と書いたが、そのバンガロールで見かけたミルクは薄いわけではない、と思う。私が暮らしている団地の中の商店街に牛乳屋がある。北海道で自然放牧をしている畜産家が、その牧場の牛から搾乳した牛乳に食品衛生法上必要最小限の処理をして販売している。牛乳瓶の中で分離して上澄は半透明だ。撹拌しても白はどことなく頼りない。しかし、味は、市販されている乳業メーカーの製品よりも複雑で独特の旨みと喉越しの良さがある。その牛乳の撹拌したときの白さにも透明な何かが感じられる。

昔、『オアシス』という韓国映画を観た。主人公の男性はひき逃げ事故を起こした兄の身代わりとなって懲役に服した。彼が出所して最初にしたことは、食料品店に立ち寄って豆腐を買うことだった。自分が食べるのである。彼の地では、刑務所を出た人が穢れを祓うものとして豆腐や牛乳のような白いものを口にする慣習があるのだそうだ。一般的には、出所した人を出迎える家族などが用意するものらしいが、彼は家族の身代わりに刑務所に入ったにもかかわらず、家族の誰からも迎えられなかった。それどころか、彼の家族は引っ越してしまい、その居所を知らされていない彼には帰る場所がなかった。彼が豆腐で厄祓いをしたのは、刑務所の穢れではなく、不実な家族の穢れではなかったか、と今ふと思った。

「白」の持つイメージとはどのようなものだろうか。本書の作者の母国と読者である私との間にどのようなつながりがあり、どのような断絶があるのだろうか。本書で著者が冒頭に挙げている「白いもの」とは

おくるみ
うぶぎ
しお
ゆき
こおり
つき
こめ
なみ
はくもくれん
しろいとり
しろくわらう
はくし
しろいいぬ
はくはつ
寿衣じゅい

寿衣とは日本で言う経帷子のようなものらしい。それとお包みや産着が並んで挙げられているのは、たぶん、偶然ではない。それらがさまざまに絡み合い一つの命の話が展開する。人の命とは白いものなのか。おくるみと寿衣の間にある白木蓮の話が何事かを象徴している気がする。

 何年も過ぎた後、生命—再生—復活を意味するその花咲く木の下を通り過ぎながら、彼女は思った。あのとき自分たちはなぜ、白木蓮を選んだのだろう?白い花は生命につながっている?それとも死?インド・ヨーロッパ語では、空白blankと白blanc、黒blackと炎flameはみな同じ語源を持つということを、彼女は読んだ。闇を抱いて燃え上がる、がらんどうの、白い、炎たち——三月につかのま咲いて散る二本の白木蓮は、それなのだろうか?

ハン・ガン 著 斎藤真理子 訳 『すべての、白いものたちの』 河出文庫 99頁 「白木蓮」

本書は散文詩の集成だが、根底に流れるテーマはおそらく命だろう。著者の姉は生まれて2時間で亡くなったらしい。その姉の想いが、作者の創作であるにしても、自身の経験したことに乗せて語られているのだろう。本書に記されている短篇のエピソードの全てがその姉についてというわけではないのだが、その姉のことに発する命というものへの想いは全てに共通している。

 母が産んだ初めての赤ん坊は、生まれて二時間で死んだと聞いた。
 タルトックのように色白の女の子だったそうだ。八ヶ月の早産で、体はとても小さかったが、目鼻がはっきりして美しかった。真っ黒な目を開けてこちらを見た瞬間が忘れられないと、母は言った。

ハン・ガン 著 斎藤真理子 訳 『すべての、白いものたちの』 河出文庫 21頁 「産着」

 そしてどうしたの、その赤ちゃんを?
 二十歳のころ、ある夜に、父に初めてそう尋ねたとき、まだ五十歳になっていなかった彼はしばらく黙し、こう答えた。
 白絹で何重にもくるんでやって、山に埋めたよ。
 一人で?
 そう、一人で。

 産着が寿衣になった。おくるみがひつぎになった。

ハン・ガン 著 斎藤真理子 訳 『すべての、白いものたちの』 河出文庫 151頁 「寿衣」

命が白く清らかであるとしても、言葉は汚れている。命は与えられるもので言葉は獲得するものということと関係あるだろうか。命は与件で言葉は我欲の表明手段ということと関係あるだろうか。私の言葉が汚れているだけのことかもしれない。私が言葉を汚れているものとしてしか認識できないというだけのことかもしれない。ほんとうは、世界は白くて美しい場所なのだろう。しかし、それは容易に黒い煙を上げながら炎に包まれる運命にあるのかもしれない。blankやblancとblackやflameの源になっている想いとはどのようなものだったのだろうか。

今、あなたに、私が、白いものをあげるから。

汚されても、汚れてもなお、白いものを。
ただ白くあるだけのものを、あなたに託す。

私はもう、自分に尋ねない。

この生をあなたに差しだして悔いはないかと。

ハン・ガン 著 斎藤真理子 訳 『すべての、白いものたちの』 河出文庫 48頁 「ローソク」

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熊本熊
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