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内田百閒 『第一阿房列車』 新潮文庫

また内田百閒だ。この調子だと今年は内田で暮れる。以前、だいぶ若い頃、どこかの書店で立ち読みをした時には『阿房列車』をそれほど面白いとは思わなかった。今は自分が『阿房』執筆の頃の内田に近い年齢になったことと関係があるのかないのかわからないが、この本はいけないと思う。面白すぎる。人生の黄昏時を迎え、生きることに関する責任がほぼなくなった、何の役にも立っていない私如き境遇にある者にはこういう本を読んで笑い転げている特権があると確信している。無駄に齢を重ねた愚者だけに許される特権。書いている内田は作家先生なので、行く先々で周りの人々があれこれ世話を焼いてくれる。そこのところは書く側と読む側との間に越え難い深い溝がある。そんなことはどうでもいい。

旅行とか旅とか『阿房』の頃はたぶん今とは違う。人々の意識の中で「旅行」とか「旅」が占める位置が全然違っていたと思う。仕事や用事があっての移動を「旅行」とは呼ばない。旅行は時間と懐の余裕があってこそ楽しむことのできるものだ。その時間と懐具合は交通機関と交通も含めた社会インフラ、つまり世の中総体の経済力に依存する。たまに人生を旅に喩えるというようなことを書いたり言ったりする人がいるが、おめでたくて結構だ。そういう呑気な境遇におさまりたいものである。

1回目の阿房列車は1950年10月大阪への旅だった。本書の中に日時の記述は無いが、日本経済新聞の2007年5月13日付夕刊にある「彼らの第4コーナー 内田百閒 上」にそう書いてある。時に内田は61歳。不整脈の持病があるため内田は一人で長距離の移動はしなかった。阿房列車には旧知の国鉄職員で内田のファンでもある平山三郎氏が同行する。『阿房列車』はこの平山氏の存在抜きには成り立たない。人あるいは物語というものは、人と人との縁とか関係性を抜きにしては存在し得ないということがよくわかる。そして、今の自分に欠けているのがそういう縁だということも痛感させられる。もちろん、こうして社会生活を営んでいるのだから何がしかの縁はある。しかし、それは今にも切れそうな危うい縁ばかりだ。おそらく自分は孤独死するのだろう、と薄々感じている。尤も、今の世間の圧倒的大多数は似たようなものだろう。

本書を読みながら考えたこと、というよりも思いついたことはたくさんある。その切掛となった記述のいくつかを引用しておく。何を考えたかという事の詳細についてはそのうち別に書くかもしれない。

用事がないのに出かけるのだから、三等や二等には乗りたくない。汽車の中では一等が一番いい。私は五十になった時分から、これからは一等でなければ乗らないときめた。そうきめても、お金がなくて用事が出来れば止むを得ないから、三等に乗るかもしれない。しかしどっちつかずの曖昧な二等には乗りたくない。二等に乗っている人の顔附は嫌いである。(7頁)

その後、国鉄の優等列車の編成は普通車とグリーン車とに変更された。ざっくりと言えば、普通車が『阿房』の時代の三等車でグリーンが二等車だ。但し、当時の二等と三等との価格差は今の普通とグリーンよりも大きい。かなり平準化した上での等級差になった。何より「普通車」という言い方がいかにもな感じがする。戦後の民主化のなかで所謂「特権」的なるもの、そうしたものを想起させるものが廃止されたのである。近頃は「格差社会」などと喧伝する向きもあるが、いまだにJRの特急列車は普通とグリーン、たまにグランクラスとなっている。それだけ世の中に「民主化」が定着したということなのかどうかはわからないが、少なくとも、誰もがこうしてあたり構わず好き勝手なことを公衆通信回線に垂れ流していられるくらいに「民主的」な世界であることは確かだ。

『大貧帳』に借金のことが縷縷記されていたが、阿房列車も費用は借金で賄っている。尤も、貸す方は返済への期待があればこそ貸すのである。それくらいの作家なのだが、それでも借銭のやり取りは愉快だ。

色色と空想の上に心を馳せて気を遣ったが、まだ旅費の見当がついていない。いい折を見て、心当たりに当たってみた。
「大阪へ行って来ようと思うのですが」
「それはそれは」
「それに就いてです」
「急な御用ですか」
「用事はありませんけれど、行って来ようと思うのですが」
「御逗留ですか」
「いや、すぐ帰ります。事によったら著いた晩の夜行ですぐに帰って来ます」
「事によったらと仰ると」
「旅費の都合です。お金が十分なら帰って来ます。足りなそうなら一晩ぐらい泊まってもいいです」
「解りませんな」
「いや、それでよく解っているのです。慎重な考慮の結果ですから」
「ほう」
「それで、お金を貸して下さいませんか」
(13-14頁)

1950年と言えば敗戦から5年しか経っていない。愉快なエッセイだが、戦争の残影のようなものは散見できる。

それからは毎晩、お膳の後で汽車の時刻表を眺めて夜を更かした。眺めると云うより読み耽るのである。ヒマラヤ山系が新しく改正になったのをくれたので、急行列車等の時間の工夫が大体戦前の鉄道全盛当時に近くなって居り、くしゃくしゃに詰まった時刻時刻の数字を見ているだけで感興が尽きない。こまかい数字にじっと見入った儘で午前三時を過ぎ、あわてて寝た晩もある。(17頁)

私は支那蕎麦に余り馴染みはない。しかし山系君の好物である。だから旅は道連れの仁義からおつき合いする。先年彼の地から帰って来た者に、本場の支那蕎麦はどうだと尋ねた。あちらにこんな物はありません。支那蕎麦の本場は新橋の烏森の辺りでしょうと云った。山系君も兵隊で行って、北京を知っている。そちらが本場でないとすれば、帰って来てからラアメンを啜って曾遊を忍ぶと云うのも筋違いである。(250頁)

やはり平和、平穏に勝るものはないと思う。もちろん私自身は戦争とかそれに類することの経験はない。特にどうというほどのこともない59年を過ごした。ここ直近で感染症騒動もあったが、流行病というのはいつの時代にもあることだ。そういうことを勘案しても、やはりどうというほどのことではない。ありがたい時代を生きることができた。と過去形で書くと、まるですぐにも死ぬような風だが、もう死んだも同然なので、やはりありがたい。

うだうだと長くなったついでに、内田の魅力が存分に表出していると思った箇所を引用して本稿を終わる。「区間阿房列車」で東京から御殿場線経由で沼津へ向かう途中、国府津で御殿場線に乗り損なう場面だ。

 歩廊の上に、今著いた汽車から降りた人が散らばっている。箒を持った駅員に、御殿場線の乗り換えは、あれかと山系が尋ねた。山系が指差した線路の向こうの歩廊に、五六輛連結の短かい列車が停まっている。
「乗り換えですか。早く早く、この列車は遅れて著いたけれど、あっちのは、それを待っていないから、すぐ出ますから早く早く」と駅員が云った。
 そんな馬鹿な事があるものかと思いながら、むっとして歩き出した。
 ヒマラヤ山が気を揉んで、走りましょうかと云うから、いやだと云った。
 抱えている外套を持ってやろうと云ったけれど、いいと云って渡さなかった。私を身軽にして、どたどたしているおやじを、少しでも早く連れて行きたいと云うつもりなのは解っているが、接続する列車が、前の遅れた分を無視して発車すると云う法があるものかと考えているので、ヒマラヤ山系の焦燥に同じない。それで山系はあきらめて、私を同じ歩調で歩いている。
 しかし、私だって、遅れてもいいつもりで、ふらりふらり行っているわけではない。走り出すのはいやな事だが、出来るだけ足を早めて歩廊を急いだ。歩廊の突き当りに地下道へ這入る階段がある。降りかけると、後から走って来て、私達を追い越す人もあった。
 地下道を通り、向こうの歩廊に出る階段を五六段上がった所で、もう一寸でその歩廊に出ると云う所で、頭の上あたりにいた機関車が、ぼうっと云う、汽船の汽笛の様な調子で、発車の汽笛を鳴らした。
「あっ、発車する」と思ったら、階段の途中で一層むっとした。
 その音を聞いて、あわてて階段の残りを駆け登るのはいやである。人がまだその歩廊へ行き著かない内に、発車の汽笛を鳴らしたのが気に食わない。勝手に出ろとは思わない。乗り遅れては困るのだが、向こうが悪いのだから、こちらに不利であっても、向こうの間違った処置に迎合するわけには行き兼ねる。
 歩廊に出たら、その列車は動き出している。まだ徐行だが、歩廊の縁をすうと辷っている。階段を上がり切った所の前は荷物車だけれどもデッキがある。乗れば乗れない事もないが、荷物車に乗らなければならない因縁もないし、何よりも動き出している汽車に乗ってはいけない。乗ろうと考えてもいけない。昔からそう云う風に鉄道なり駅なりから、しつけられている。山系は曖昧だったが、私が乗ろうとしないので、あきらめた様である。
 動き出しているけれど、余り速くはならない。その時階段を駆け上がって来た男が、私達の後を走り抜けて、中程の車のデッキに飛びついた。自分の事を忘れて、見ていてはらはらした。前部の方では、その男と同時に階段を上がって来たらしい女の人を、助役と駅務掛と二人がかりで、動き出しているデッキに押し上げた。そこへ又一人、上がって来たのか、前からいてうろうろしていたのか知らないが、まだ乗らずにいるのを、その時はもう男だか女だか解らなかったが、助役が荷物車のデッキに押し上げた。
 気がついて見ると、機関車から機関士らしいのが半身乗り出して、こっちを見ている。歩廊の様子を見、助役の相図を待って、徐行を続けているらしい。列車の最後部の歩廊に起っていた駅員がこっちを向き、機関車の近くにいたもう一人の助役がそっちを見て、それから半身乗り出している機関士に相図したら、機関士が身体を引っ込めて、目の前にのろのろしていた列車が急に速く走り出した。
 最後部が行ってしまったので、私共の前が豁然と明るく広くなった。何となく目がぱちぱちする様な気持である。考えて見ると、面白くない。考えて見なくても面白くないにきまっているのだが、こう云う目に遭うと、後でその事を一応反芻して見た上でないと、自分の不愉快に纏まりがつかない。
「仕方ない」と私が云った。「ベンチにでも掛けようか」
 だれもいない歩廊の中程にあるベンチに二人で腰を下ろした。
「前の列車の、もっと前部の車に乗っていたら、間に合ったのですね」とヒマラヤ山が云った。
 それはそうだけれど、そんな事で間に合いたくない。だれが間に合ってやるものかと云う気持である。
 暫くだまっていた。股の間に立てたステッキに頤を乗せて、向うの何でもない所を見つめて考えた。段段に不愉快がはっきりして来る。
「行って、そう云ってこようか」
 ベンチから起ち上がって、歩廊の端に近い所にある駅長事務室へ歩いて行った。一緒に来た山系に向かって、私が云った。
「何か云う事があるなら、今頃になって、少し気が抜けてから云いに行くよりは、さっき汽車が本当に動き出して、歩廊を離れかけた時、あの時はまだ助役が二人共そこに起っていたのだから、そこで、なぜ汽車を出したかと云えばよかったのだけれどね」
 そうすれば、後から駅長事務室へ出頭して文句を云うより、どれだけ適切だったか知れない。それは前からわかっているのだが、しかし私には第一に戦闘的精神が欠如している。腹が立つ時には立つのだが、それを人に向かってぶつけると云う気魄に乏しい。次に、そうでありながら、又こんな事も考える。こちらに理があって相手に迫る場合、相手をのっぴきならぬ条件に置いて責めるのは、君子の、或いは紳士の為す可き事でない。兎に角自分を優位に置いて考える事の出来る側の為す可き事でない。為すをいさぎよしとせざる所である。だから私はそうしなかったと考える。今の事で云えば、私と山系と二人の乗客を歩廊に残して、汽車が動き出した時、まだその場を立ち去らない二人の助役をつかまえて面詰すれば、こちらの云う事に理のある限り、先方には逃げ道がない。逃げ道をなくしておいて責めては可哀想だと云う優越感がある。同時に、逃げ道がないから歯向かって来たら厄介だと云う警戒心も働く。口論や喧嘩で歯向かわれても、
「そうでしたか、相済見ません、一寸お待ち下さい」と助役が云って、機関車に相図し、動き出している汽車を停めて、「さあどうぞお召し下さい」と云う事になれば、「御手数でした」と澄まして乗れるものではない。そんな羽目になったら、理がありながら、こちらの敗北である。(85-89頁)

この引用部分の後半に、私は深く感心した。

見出しの写真は2008年6月にロンドンからセント・アイヴィスへ向かう途中、列車の乗り換えで降りた駅。駅名がいい。パーがパーでボーっとする。パーでパーがボーっとする。パーがボーっとしているパー。当たり前の経路なら、ロンドン・パディントン発ペンザンス行きの特急に乗車してセント・アースでセント・アイヴィス行きの列車に乗り換える。パーとニューキーを結ぶ路線は支線で運行本数が少ないので、往路では時刻表の上ではこの駅で1時間40分の待ち合わせだ。英国の鉄道で時刻表というのは目安に過ぎないので実際には2時間近くぼーっと待った。ただ、内田の国府津駅での乗り換えと違って、列車に乗り遅れたとか、行ってみたらそれくらいの待ち合わせだった、というような事ではなく、予め承知の上での待ち時間だ。そこまでして、この支線に乗って見たかったのではない。このとき私は飛行機に乗りたかっただけだ。それでガトウィックからプリマス経由ニューキー行きの小さな飛行機に乗ってニューキーへ行き、そこから鉄道でパーとセント・アースを経由する経路にした。ほぼただ移動するだけの愉快な旅行だった。


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