先日、noteでシズさんがビックリハウスのことを書いていたので、懐かしさを覚えてコメントを付けた。
シズさんの返しにある「お母さんに聞いてください」は「ボクのあの本、どうしたでしょうね?」に対応している。これは『人間の証明』という1977年に公開された映画のトレイラーに使われていて、テレビでのCMなどで盛んに流されていた劇中のセリフに由来している。
示し合わせたわけでもないのに「ボクのあの本、どうしたでしょうね?」で「あ、あれね」と思いつくのは同じ時代を生きた間柄ならではのことだと思う。もちろん、同じ時代を共にして生きていたからといって、或る物事に同じように反応するわけではない。しかし、なにかしら場の共有がなければ、そもそも反応のしようがない。
ちなみに、社会人になって数年して職場での飲み会の会計を任された折に、飲み代を徴収するのにチラシを作って出席者の席に配った。
「ボクは払うぞ!ワタシも払うわ!」のところが『ヘンタイよいこ新聞』の表紙「ボクは買うぞ!ワタシも買うわ!」のパクリになっていることに気づいた人がその職場に一人もいなかった。同じ時代を生きていても通じないことはたくさんあるという当たり前の現実を突きつけられた教訓となった。
も一つちなみに、ビックリハウスの読者イベントに何度か足を運んだことがあったのだが、そこに「越谷の冬」を投稿した本人がいて、別の作品で表彰されて壇上で紹介されていた。007の映画に登場するジョーズをひとまわり小さくしたような感じの人だった。こう書くとその人がどのような感じの人なのか、たぶん、誰にも伝わらない。
言葉で何事かを伝えるというのは難しいことなのである。落語は何の舞台装置もなく、ただ語りだけで何事かを伝えて人の想像を掻き立てる芸だ。古典落語ともなると、聴く側も噺の筋からサゲまで知っている。それでも聴いて面白がる。こう書くと噺家の方も、客の方もなんだかヘンな人のようだ。しかし、その同じ噺が噺家によって、同じ噺家の同じ噺がその時々の状況によって、全く違う噺のように感じられるのである。これは本当に不思議なことだと思う。
落語が好きで頻繁に寄席や落語会を聴きに出かけた時期があった。人気の噺家の独演会は都心の会場だと切符が取りにくいので、少し郊外で開催される会の切符を取って出かけることもあった。都下であっても調布や府中、立川あたりは自分の中では「都心」のうちで、埼玉県なら蕨、川口、大宮、朝霞、入間、草加、越谷あたりは言うに及ばず、秩父まで遠征したこともあった。千葉や神奈川も東は千葉市、南は大船あたりまで守備範囲だった。仕事で接待を受ける時に意向を尋ねられて、立川談志のよみうりホールでの独演会の切符を取ってもらったこともある。
それが今では落語を聴きに出かけることはほぼなくなってしまった。特に理由があるわけでは無いのだが、なんとなく行く気がしなくなってしまったのである。たぶん、自分の場と今の落語界のそれとが合わなくなってしまったのだろう。時代の所為といえばその通りかもしれないが、物事はいつまでも一所に止まってはいないという当然の帰結でもある。それでもほぼ毎日、動画サイトや手元のDVDなどで故人となってしまった人の噺を聴いている。自分もそろそろあっちに行くのかな、なんて思いながら。
本書は志ん朝35歳から63歳までの対談録だ。対談を読むと、時期の違いを感じさせない。自分が35歳から62歳の今までどんなふうに心境が変化したのか、特に意識もしていないが、おそらく人としての了見はそれほど変わっていないのだろう。
人格とか了見が人の成長過程のどのあたりではっきりしてくるものなのか知らないが、兄弟でもずいぶん違うこともあるので環境に依存しない生まれついてのところもあるはずだ。世間では生まれ育ちを云々することもあるが、人間というのはそう簡単に法則的なものに当てはめることができるほど単純なものではなく、齢を重ねる過程で単純になっていくのだろう。
志ん朝が亡くなって今年で23年になる。この23年の間に世の中はだいぶ単純で薄っぺらになったような気がする。単純で薄っぺらになったのはオマエのほうだろう、という声も聞こえてきそうだ。ここに書いてあるようなことも、そのうち誰にも通じなくなるのだろう。世の中がこのままどんどん薄っぺらになって無くなってしまうのと、自分がくたばるのと、どっちが先か。そういう競争のようなものを眺めるのも、それはそれで面白かったりする。
以下、備忘録として。
想像するには想像の切掛になるような経験がないといけない。身の回りのことを悉く他人任せにすることが進歩だと思っているような世の中で、人は生活すること、生きることの経験を積み重ねていくことができるのだろうか。自分の経験が薄い者が、他人の状況を察して思いやるなんてことができるのだろうか。世の中が薄情というのは、たぶん、そういうことなのだろう。