Total lunar eclipse

 「予報では明日は雨か。なら水やりは良いわね」
 私真理恵は、コスモスファームという小さな農園を営んでいる。同棲している彼一郎は、大学で常勤講師の仕事。将来哲学の研究者として教授になるべく頑張っているの。そして時間があるときは、私の農園を手伝ってくれる。今日も朝に、彼はスーツ姿で大学に行った。 
 いつもなら夕方か夜に帰ってくる。そして帰ってきたら、私の畑の上空に広がる夜空を眺めるの。そのあと望遠鏡を眺めながらふたりだけの小さな天体観測が日課。

 でも今日は違った。お昼に突然彼からのメッセージ。
「今日は夕方前に帰る。その後ドライブだ。東名高速のサービスエリアで天体観測をしよう」と言ってきた。
「急に何? どういうこと」私が返信したら、次のような意味のメッセージが返ってきた。

今日2021年5月26日はスーパームーン。それに加えて、20時ごろから皆既月食が見られるんだ。だから畑の前よりも見晴らしの良いところにしよう。夕方前に出たら東名高速のサービスエリアにその時間に間に合うだろう。だからすぐ出られるように準備といて。

 と返ってきた。私は急なことで戸惑ったわ。けど好意的に受け止めた。畑のほうは順調に野菜が育っている。今年から挑戦しているトマトは、芽が育ってきて順調にいけば夏には収穫できるわ。それからナスはもう十分育ってきて、この調子だと6月の下旬位には収穫できそう。年々多くの実りがあるからうれしい。
 昨年から彼が一緒に住んでくれているのもいいのかしら。

「そんなことよりも早く準備をしなきゃ。いつ帰ってくるかわからないわ」私は今日の農作業を終え、すぐに着替える。東名高速のサービスエリアまで行くというのだから、それなりの格好をしないといけないし、メイクも怠れない。「久しぶりにこれ着て行こうかなあ」私は緑のワンピースを取り出して、彼とのデートに備えた。

 時間は16時過ぎ。彼からのメッセージ「あと15分」とのこと。
私は立ち上がり、車を見る。農作業用に使っているから実はトラック。デートには決して似つかわしいものではないわ。でも私も彼もまったく気にしていない。むしろ荷台があるほうが、望遠鏡などが運べて便利が良いのよ。

「さて、準備万端。あとは帰ってくるのを待つだけ」と私が顔を上げるともう彼は戻ってきた。「よし、お、準備万端だな」髪を肩まで落としバッチリメイクと緑のワンピース姿の私を見た彼は嬉しそう。
「一郎、さっそく行きましょうか」「真理恵待って。トイレだけ行かせて」

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 普段は私が農業用に運転しているトラック。今日は彼がハンドルを握る。そのまま東名高速のインターチェンジを目指してナビをセット。
「今回の皆既月食は3年ぶりなんだな」「そ、そうね」私は完全に忘れていた記憶。そう3年前も彼と一緒に皆既月食を見に行ったことを思い出した。「あのときは私の家で見たのに、何で今日はサービスエリアなの?」

 素朴な私の質問。彼はハンドルを握りながら歯を見せる。「ああ、今日は東名高速道路が全線開通した日なんだって」「え! それで?」
 彼は小さく頷いた。「大学の教授から聞いたんだ。1969年に大井松田と御殿場の間が開通したのがこの日で、それが最後の工事区間だって」
「へえ、って。まさかそのあたりまで行く気?」私が驚きのあまり声が裏返った。だから彼は声に出して笑う。
「ハッハハハハ、行かないよ。そんなところ目指してたら、皆既月食が終わってしまうかもしれないよ」

 しばらくすると高速の入口を示す緑の看板が見えてきた。「場所とかは決めてるの」「もちろん。帰ってくるまでの電車の中で調べたからね」
 やがてインターチェンジの入口に到着した。もちろんETCカードを持って差し込んでいるから、問題なくゲートを通過して本線に入る。
「でも、これ御殿場方面に向かってるわね」私の言葉に彼は軽く口元を動かし。「じゃあ行って見る」「マジで」「ジョーダンだって」と言ってまた笑う。「.......」
 ちょっと小バカにされた気がした。けど、でもそんな彼の表情が愛しくて仕方がないの。

 彼も私も安全運転。だからどんどん横の追い越し車線に入った車が、次々と追い抜いていく。でも気にせずにマイペース。
「そっか、逆方向のほうが」彼は少し残念そう。そうかこれは東方向に走っているから、夕日は逆方向なのね。

「あ、あのサービスエリア。看板見えて来たね」「うん、あと20キロ。高速ならあっという間ね」目的地が近づいてきたので私は少し楽しみになった。そして3年前の記憶がよみがえる。
「そうだ、ねえ。皆既月食って真っ黒にならないのよね」「そう、実際には赤っぽい色に変わるだけだ。それに対して皆既日食だと真っ暗になって、黒い丸の周りを普段見えない。コロナやプロミネンスの光が観測できるから貴重な機会だよね」

「コロナ......なんか嫌な名前ね」「アハハ気にしすぎだよ。だって冷蔵庫にこの前、准教授に貰ったコロナビール。まだ冷蔵庫の中じゃないか」

 などと言っていると、いよいよサービスエリアの入り口が見えてきた。そのままウインカーを出して速度を落とし、サービスエリアの中に吸い込まれる。

ーーーー
「どうやら間に合ったな」すでに夜になっていた。空を見上げると真っ暗。雲が多く少しだけ星が見える。でもサービスエリアはまばゆい照明が広がっていた。そして駐車場には大型トラックやバスをはじめ、普通車も多く止まっている。それぞれの車体に合わせたようなエンジン音が駐車場に響き渡った。それらの乗り物に乗っていたみんなは、サービスエリア内の建物に吸い込まれ、食事や土産物を買うのに必死。だけど私たちは違う。駐車スペースから少し離れた暗がりのところに向かった。

「この辺りがいいな。あ、持ってきた」「もちろん」
 私はバックから双眼鏡を取り出すと彼に渡す。「よし、見えるかな」
 さっそく彼が双眼鏡を目の前に置き、そのまま大空を見上げて月を探す。夜空には少し雲が多め。ちょっと心配。だけど次の彼の言葉で杞憂だったみたい。
「あった。お、もう始まっているようだ」彼は嬉しそう。
「私にも見せて」ちょっとおねだり。

「わかってる。はい」すぐに私に双眼鏡が渡された。すぐに私も見る。「ほんといつもと月の色が違う」私は、赤銅色の月を眺めた。
 いつもとは明らかに違う色合い。スーパームーンなら太陽に負けじと光り輝く積極的で大きな月のはず。でも今は本当に恥ずかしさのあまり、どこかの穴に隠れようとしているかのような消極的な月。
 私は感動のあまりしばらくの間、これ以上の思考が固まったかもしれない。

「お、肉眼でも見える。うんやっぱりスーパームーンは違う。プラトン、カント、それから西田幾多郎とか偉大な哲学者たちもこうして月を見ていたんだ。さて彼らは何を考えたのか......」
 私が眺めている横で彼がひとりごとをつぶやく。気が付けば彼の右手が私の腰のあたりに来ていた。私は自然に緑のワンピースを彼のスーツに近づける。そしてお互いの服を通じて間接的に感じるお互いのぬくもり。静かにふたりだけの世界に入った。
 


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シリーズ 日々掌編短編小説 491/1000

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