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くま読書 私の身体を生きる

たまに、テーマとして書きにくいことをがんばって書いてみようと思う時がある。

書きにくいことは「死」であったり

「性」の話でもあったりする。

なぜ書きにくいのかというと、書きことばに落とし込むためにある種の慎重さが必要だからだ。

慎重に書かなければいけないのに、なぜ書きたいのかというと

自分が真面目に考えたい気持ちがあるからこそ、であって。

誰しもが抱えているからこそ、でもある。

私は、蔦屋書店で見かけてからずっと気になっていた、ある一冊の本を拝読した。
読後は私の周りだけ圧がかかったような、酸素が薄くなるような、なんとも胸が息苦しい感じだ。

ああ、私に重なってくる様々な生きづらさや生々しい想い。重たいなぁ。でもリアルであるし、間違いなく自分のからだや心にもその芽やタネが埋め込まれていると私は感じている。


 「私の身体を生きる」は文芸誌「文學界」で連載が始まったときから大きな話題になりました。女性/女性として生きる17人の書き手たちが、自らの身体をめぐるそれぞれの切実な体験を、ときにユーモラスに、ときに激しく書く。

上記ホームページより

人間のからだ独特のやっかいさは、以前拝読した伊藤亜紗さんなどの本でも感じたことがある。

自分の思い通りにならない身体性。
人と違う自分を受け入れること。
また、他者に受け入れられること。
自身の身体を自己として認めたくない抵抗感。
体を拡張していくような便利な道具たち。

 体は生まれてから死ぬまで常にそこにある。でもそれが自分のものであるというのは、それほど自明なことではないのかもしれません。もっとも身近なものでありながら、良い意味でも、苦しい意味でも、ただの物体のように疎遠なものになりうる対象。それが体というものなのかもしれません。

「あさひてらす」

今回の本著は「女性としての身体」をテーマにしている。

17人の女性作家が、それぞれの自身の身体や女性性について向き合い、真摯に、時にはユーモアを含みながら、女性として生きる身体を語っている。

ルッキズムに支配されている世界
同性同士でも性に関してのずれがあること
妊娠・出産への圧力
性被害後に生きていくこと
性を消費し、自傷行為のように体を傷つけること
彼のクローン・ア・ウイリーが欲しい彼女
身長の低さが窮屈でたまらない世界
幼少期に感じた性を感じさせる大人の暴力性
性同一性障害の独白
などなど


柴崎友香さんが書かれている章ではこんな記述がある。

 女だから、その時間にその場所を歩いてはいけない。赤ちゃんを産むために身体を冷やしてはいけない。行儀よくしなければならない。そんな服を着てはいけない。あるいはこんな服を着なければならない。常に見られているから気をつけなければならない。それは自分の身体の権利、守る権利というよりは、そうしなければ悪いことが起こる、罰を受けるという意味に思えた。

「私と私の身体のだいたい五十年」から

 私は私が持っているこの身体を「子供を産むための身体」「人から見られる身体」として意識させられ続けることが、いやで仕方がなかった。反発という程度でなく、そう言われるたびに自分の身体が内側からかき回されるような生理的嫌悪が湧きあがった。それが、持って生まれた感覚なのか、生まれてからの経験からくるものなのかわからない。経験からくる部分も確かにある。どれくらいのところが何に由来しているのか。今となっては判別できないし、分けられるものでもないだろう。

書いてあることは、なんとなく共感できる。似たような気持ちを私も抱いたことがある。

「反発という程度ではなくとも」なのだ。

なんとなく「女性」として扱われることに対しての窮屈さを感じたり、しっくりこない時がある。
幼少期は幼少期なりの、大人になってから大人になってなりの、違った窮屈さではあるけれども「女性だから」ということを自分が自覚する以上に他者につきつけられる場面がある。他者は男性でもあるし、女性の時もある。

そんな時、うっすら嫌だなぁと思うこともある。
思うけども、いちいち誰かに言わないし、自分でもいちいち立ち止まって考えたりはしない。

けれども、この本を読んで、蓋をしてしまった奥底の「うっすらとした嫌さ」が、よいしょよいしょと湧き出てきて、姿を現した。見つめてみると、あぁ非常にやっかいなのだなと思ったりもする。

私は決して、自身の性自認に疑問を大きく抱いている人間でもなく、シスジェンダーの1人である。

(シスジェンダー:出生時に割り当てられた性別と自認する性別が一致し、それに従って生きる人のこと)

そんな人間であろうとも、私は自分の女性性に正直に言うと困ったり、傷ついたりすることはある。

これがトランスジェンダーの方であったらかなり生きづらさは増すばかりであろうなと心底思ったりもする。

また、これは誤解しないでほしいのだが、ここで語られている身体のままならなさは、男性がうらやましいとか、女性が不当に扱われているとか、そういう話を単純にしたいわけではない。

嫌だなぁがすぎて、思春期の頃は、髪の毛を派手に染めてめちゃくちゃ短髪にした時期がある。

私は女でもない男でもない。なんでもないものになりたいなと思うことがあった。この本でも藤原麻里菜さんが「女ではなく、人間になりたいと強く思うようになった。いや、人間じゃなくてもいい。ピンク色の球体になりたい。コロコロ転がりたい」と書かれていて、少し気持ちがわかるなぁと感じた。

けれども、ずっと嫌だと思っているわけではない。
普段はそんなことを忘れて生活していたりするし、女性でよかったなと思える体験もある。「自分の体から子供が生み出されること」は、おそらく男性だと願っても叶わないことであり、体験できてよかったと思うが、それは全ての人が体験したらいいとは思わないし、よかったと同時に「つらかった」などの経験も含まれている。

読んでみるとひとりひとりの価値観が本当に違うことが、ひしひしと感じられた。

そんなことを気にするんだなぁもあるし、それ、わかる!もあるし、読んでいて境遇につらさを感じてしまうこともある。

性被害に関することは、大なり小なり世の女性はあるものだと想像する。

様々な多層性のある被害が、本著ではむきだしに露になる。それは、どちらがひどいとかというレベルの話ではなく、どれもが傷つきの体験であると私は思う。

そんなことで......という意見もあるかもしれない。
自分で気づいてなかった経験もあるかもしれない。この本を読んで「そんなことは当たり前で育ってきたけども」という女性も当然いると思う。けれども、当事者の傷のつらさは当事者でしかはかれないものであり、それに「大したことはない」と安易に伝えることは、二次的な加害に発展する可能性もあると、私は感じている。

 被害者はただ、「傷ついたかわいそうな人」ではない。「痛みを知っているから他者の痛みを想像できる優しい人」なわけでもない(もちろんそういう方もいるが)。被害に遭いながら、なおも自分を襲ったその世界に与し、どころか全力でおもねり、他者を傷つけながら生きる人間もいる。でも、そういったことから独立した場所に被害は存在し、傷がある。その傷を、誰も否定し、取り上げることは出来ない。

被害者もまた人間であり、加害者にもなりうる。嫉妬したり、狡猾さもあったり、被害に遭ったからといって泣いてばかりでなく笑ったりもする。

けれども、被害そのものがそれによって矮小化はされない、と西加奈子さんは述べている。

過去に、職場でセクハラを受けたと悩む後輩に対して、私はそこに同姓からの「大したことない」という空気が嫌で、彼女を励まし続け、共に悩んだことを思い出した。彼女側がいけない、隙を見せるからだ、なめられるからだという、異性の意見にもかなしみを覚えた。

生きづらさというのは、最近よく取り上げられるテーマではあるが、この本は女性の身体を生きることについての生きづらさを取り上げていた。

丸いピンク色の球体にもなれない私は、今日も自分を引き受けて、どこかあきらめを持って、また自分の「女性性」と生きていくのだと思う。

「うっすらと嫌な感じ」に蓋をしすぎず、また心の余裕のある時に取り上げて見つめてみたいし、大きく傷ついた身の回りの女性がいれば、手を差し伸べられるような人間でありたいと願う。

本日は久しぶりの読書感想文である。

読んで頂いた方には感謝を述べて終わりとしたい。


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くま
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