カタチあるものはいずれ壊れる。
これは、真理だ。
先日、オーストラリアで買ったカップが割れた。
正しくは夫が手を滑らせて割った。
オーストラリアの本社を訪ねて、
わざわざカスタムしたお気に入りのカップだ。
本社の場所が分からなくて
周辺をフラフラ迷いながら歩いて
ようやく手に入れたという思い出もある。
カタチあるものは壊れるので仕方ないと思う。
きっと手放すタイミングで
何かが新しく入ってくる知らせなのだと
そう思うタイプである。
しかし、腹が立った。
なぜこんなにも気持ちが湧き起こるのか
冷静になって考えてみた。
そのカップが割れたということを
ヘラヘラと悪びれることもなく知らせてきたからだ。
ただのモノではなく、思い出が詰まったモノ。
その思い出ごと壊されたような
軽くあしらわれたような気持ちになったからだ。
夫にとってはただのカップかもしれないが、
私にとっては大切なカップなのである。
それは当の本人になってみないと分からないわけで
物だけではなくカタチないものにも
大切なものっていうのは人それぞれに異なる。
だから、やっぱり
相手の立場を考える努力をしていたいし
そもそも、すべてのものを大切に扱いたい。
いや、物だけでなく人もだ。
2024.6.3
新しく同じカップを買うか迷っています