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疲れる、弱る、傷付く体を持つ者同士。

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
新約聖書 ヨハネによる福音書19章28節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

いやー、年度末ですよ。皆さんいろいろお忙しくお過ごしかと思います。私もまあそれなりに忙しく過ごしています。
「それなりに」? うーん。何と、誰と比べて? 
あんたなんか、他の人と比べたら全然頑張ってないんじゃないの? その程度で「忙しい」とか言われてもねぇ……。
自虐クドウは、ついついこういう意地悪なツッコミを自分に対して入れてしまうので、「ほんとのところ、結構自分としては忙しいし疲れてる……。でもそれを他人様に言っては『そのくらいで甘えるな』って思われちゃうかしら……。確かにあの人もあの人も私よりずっと頑張ってる感じだし、それに比べたら私なんかまだまだやな……。でも疲れてるのも事実……。『それなりに忙しくしている』って言うくらいなら許されるかな……?」なんていうウジウジした紆余曲折を経て、前述のような表現になるわけです。

でもね、頭では分かってるんですよ。疲れなんて計量化して人と比べてどっちが上だ下だと言い合うものなんかじゃない。「職場にいる時間」やなんかだけで働きが計られるわけでもないし、職場のみならず家庭や地域で頑張っている人もいるし、体調や体力やなんかも人によって違うし。
だから私もよそ様に対しては、「あんまりお疲れになりませんように」「しっかり休んでね」「迷惑をかけるなんて思わないで」と心から言える。
それなのに、自分自身に対しては、「まだ十分ではないのではないか」「この程度ではだめなんじゃないか」と思ってしまいがちなんですよね~。

って書いてたら、「前にもそんなことを書いたような」と思い至り、振り返ってみたらやっぱりそういうこと書いてた(笑) どんだけ自虐クドウ引きずってるんですか(笑)

でもつい最近、一緒にお仕事させてもらっていた人が、「水分補給もできずにずっとやってたんでもう限界です! ちょっと代わってください~!」と、仲間を頼って休憩を取られた様子を見て、「素晴らしい!」と目からウロコが落ちました。
その方は本当に頑張っておられたので当然と言えば当然なんですが、これってちゃんと「疲れた自分」を分かっていないとできないし、仲間を信頼していないとできないことだな~と思って、深く感銘を受けたのでした。「これくらい我慢しなきゃ」とか「疲れたなんて言っちゃいけない」じゃなくて、「私は疲れた」「休みたい」がお互い言い合えるのって大事だなぁと思いました。

この2、3年でオンラインミーティングなんかが増えたのですが、かえって「疲れる」ことが増えたようにも感じます。
対面の会議であれば「その場に集まるまで」の往復時間も考えるからあまりたくさんのスケジュールは組めませんが、オンラインだと立て続けに予定を入れてしまえます。また、「ちょっと長引いているんで、一旦お茶でも入れましょうか」とかいう「呼吸」みたいなものも無いので、会議そのものも何だかぶっ続けみたいになりがちです。

「生身」の体は有限で、共有できる時間にも場所にも限りがあるのに。本当はそれぞれが、疲れもするし眠くもなる「身体」を持った存在なのに。オンラインだと、互いにそういう感覚が薄れてしまう。そんな気がしています。

「私たちは『疲れ得る』体を持った人間同士である」という優しい「了解」をお互いに持ちたいな、それって大事なことだな、と思うのです。

冒頭に引用したのは、イエスが十字架で死ぬ直前の場面の一節です。イエスはこの「渇く」という言葉を残して間もなく、息を引き取りました。
「救い主」が、十字架なんていう惨たらしい形で死を迎え、最期に及んで「渇く」という言葉を残したというこの場面の「救いようの無さ」にこそ、私は救いを感じます。
そもそも神の子だの救い主だのいうのであれば、傷付きもせず渇きもせず、ましてや命奪われることもなく、圧倒的な力で悪や罪を制圧したって良さそうなものです。けれども聖書の語る救い主は、儚く脆い赤ん坊としてこの世に現れ、歩き回って疲れもすれば空腹にもなる生身の姿で生き、傷付けられ血を流し渇きを覚えて衰えて死ぬという、どうしようもないほど「私たちと同じ」、弱い人間の身体を持っていたのでした。私はここに救いを感じます。

傷付きやすい、疲れやすい、弱い生身の私たち同士だからこそ、お互いが挫けそうになった時には労り慰め休ませ合うことができる。
スーパーマン級にパワフルな人は、疲れを訴える人のことを「弱い」と切り捨ててしまうかもしれないけれど、自分の痛みを分かっている人なら、きっとお互いを支え合える。

「疲れたな」「休みたいな」と思った時は、ちゃんとそういう自分を認識して、その弱さを受け止めることで、他の誰かの弱さをも受け入れられる自分になれるんじゃないかな。
そんなことを思いつつ、でも「休んでいいのかな」との罪悪感も払拭しきれず、えっちらおっちら歩む年度末の今日この頃です。
皆さんもどうぞお体お大切に。



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