2012年03月22日 日本で生きるということ
この曲のPVでは、デペッシュ・モードのメンバーに、性格の悪さを指摘された自由な先進国に顕著な、しつけられないバカな若い女が最後に現れる(もっともこの女性は、ただのモデルか女優なのであって、いい人だろうが)。バンドのメンバーは、非道徳な女に対する憤りの名曲の演奏を終えた後、傲慢な彼女を置き去りにして車に乗り込む。
女だから何もできないが、「ここから自分で歩いて帰れ」と。
だが、日本の女に比べれば5億倍マシだ。
私が出会ってきた日本の70年代生まれと80年代生まれの、かわいいと自認するすべての女性に言いたい言葉。
前者は主に、文化人類学者レヴィ=ストロースの言う「女は関係の宝」であることを放棄し、後者は女の持つその社会的稀少価値を濫用してつけ上がり、女性として人をもてなす気持ちなど微塵も皆無で、人としての最低限の理性すら欠落した、これらの世代の悪しき日本人女性に捧ぐ…。
そしてデペッシュ・モードと同じイギリスでは、デジタルロックの代表格であるプロディジーの「Music for the Jilted Generation (女にフラレっぱなしの世代のための音楽)」が、彼らのベストアルバムであり、アナログシンセのソロを駆使したテクノ音楽の不朽の名盤である。
彼らのヒット曲は「ビートUK」のチャートでも長い期間1位をキープし続け、日本では絶対に有り得ないことであるが、欧米すなわち、世界の音楽シーンに君臨し続けたのである。
また、ほぼ同時期のアメリカでも、非道徳的で排他的で情欲的な女性に対して、激しい怒りをぶつけた詞と曲調のインダストリアル・ロックバンド、ナイン・インチ・ネールズが、これもまた日本では絶対に有り得ないことだが、そのロックの完成度の高さから一時代を築いた。
「piggy (豚女)」という名曲の収録された2nd アルバムがビルボード誌のチャート初登場で2位を記録し、TIME誌の「最も影響のある25人のアメリカ人」に選ばれ、音楽界でも不動の地位にあった。
また、ナイン・インチ・ネールズと同程度の人気があり、同じジャンルにおいて絶大な人気を誇るミニストリーは、キューバからの移民だが、もっと過激だ。「俺が働いている間に、オマエは浮気をし、浮気をし、浮気をする」という、彼の初期の名曲「Revenge (復讐)」はまさに今の不倫社会、日本に見事に当てはまる。
しかしながら、同じ先進国の日本では、そのような、社会全体を、非道徳で排他的な女性を、強く啓蒙するようなテーマの音楽は全く通用しない!
日本の男性とは完全に女性の奴隷それ以下であり、女性崇拝そのものによって成り立っている愚かな国なのだ!
今日もまた人身事故で中央線が止まった―。
なのに、このような自殺は一切報道されない。
東京は世界で最悪の道徳なき下賎な魂が棲まう最悪の地獄である。
たとえばJR山の手線の新宿駅で降車して押し寄せる人ゴミの中、日々絶望するような気の弱い私にとって、多くの人間とは「悪魔になりきれない何か」である。
多くの人間とは人を陥れつくすことも、救いきることもできない、「排他的な何か」である。
戦時から経済成長の時代に至るまで、たとえば第一団塊の世代は価値観を共有できて、日本人はすべてが味方のように思えたが、道徳的価値観が崩壊して、自殺が多くなり、あまりにも価値観が多様化して、女性がよそよそしくなった時代、少なくとも自殺した人たちにとっては、日本人のすべてが「敵」であり、この国における他人のすべてが障害なのである。
しかし、私は家族の死に際しては心を痛める。
たとえ、同情の余地のない、理不尽で野蛮な身内でさえ、その死に際しては深く心を痛めて涙を流す。
なのに、他人の死には、死者がどんなに善人であっても、全くと言っていいほど心を痛めない。少なくとも身内ほどには。
そういう意味においてはほとんどの人間はファミリーだけを大事にするマフィアと変わらない。
もちろん、NPOのような、困窮した人たちを積極的に助ける活動を続ける人たちには頭が下がる。
しかし、たとえば、生涯に渡って、学生時代には話すらできず、同世代以下の女性たちのコミュニケーションから排除され、他人、特に女性に対する不信感から成る私にとっては、この社会そのものが、忌々しくてならない。
なぜ移民を受け入れて、自分たちの社会的稀少価値にふんぞり返ってタカをくくった日本の女性を、海外の女性たちとの競争に晒して自然淘汰させないのか? と。それが原因で自殺や少子化になっているのになぜ気付かないのか?と。
少なくとも、我々団塊ジュニア世代とは、宮台真司が言うように、「仲間以外は皆風景」のよそよそしい世代であった。
特に私の生まれた北海道、札幌はそれが露骨でヒドかったが、埼玉の上尾に移り住んだ時は女性のよそよそしさをあまり感じず、同世代の女性も異性に対して社交的で、地域にも子供が多い印象を受けた。もっともそれは札幌との比較であるけれども。
ここで述べる私の主観とは、確かに私個人の経験であって、一概には言えないかもしれないが、結果として第三団塊世代が生じないどころか、著しい少子化になっているし、自殺やモンスターペアレントも増えているのである。
そんな一番生きたくない、女性との出会いはおろか誰も味方のいない日本社会においては、
人間はマフィアのような価値観でしかいられなくなる。
少なくとも(もちろん臆病な意味で、しかたなく「法」に支配された)マフィア以外の日本人を私は見たことがないし、今日の若い女性とは苛酷なまでに排他的で不親切であり、しかもほとんど理性が通じず、マフィア以下の泥の精神でしかない。
私が尊敬してやまないイエス・キリストのような人間など、理想として敬われることはあっても、やはり一般的な人間からみれば、はるかにかけ離れているのである。
逆に言うなら、イエス・キリストのような人が皆無の、マフィア以下のような泥しかない(都会の若くてかわいい女の精神にどれだけ他者に対する配慮が欠落していて、己が欲求にのみ支配されているか感じ取ってみるといい)殺伐とした社会においては、親兄弟の核家族・身内こそが、やはり他人とは比べ物にならないくらい、重要な存在・かけがえのない味方なのである。
そして、男性の中から自分が性的にも依存できるような女性的な男性を見つけ出すのは至難の業であって、しかもたとえ見つけ出したとしても、相手が自分に関心があるという確率もまた低く、孤立、孤独死の道はほぼ絶対的に必然付けられたものとさえ言える。
さらに携帯やネットのバーチャルなコミュニケーションにおいても、それは完全に「強い悪魔」の庭になっていると言ってよく、力なき「弱い悪魔」が救われる(「強い悪魔」によって見出されて生気を吸い尽くされる恩恵にあずかれる)事などもはや奇跡に近いのである。
現実世界においても、「強い悪魔」は常に携帯を見ることによって、他者を排除するよそよそしさの結界を作り、メディアと「強い悪魔」とが共犯関係にある、健全な現実のコミュニティーを否定する排他的バリアーは完璧に出来上がっている。
ネットにおいても、力なき「弱い悪魔」は、ただ無視され、スルーされ、コンタクトがあったとしても、だいたいがいいようにだまされているのであって、場合によってはとても理不尽な攻撃を受けることすらある。
「強い悪魔」によって、利用されるか孤独死するかの二択の邦(くに)・時代にあっては、人間の基本的人権を確立することは容易ではない。
要約するなら、多くの人類によってイメージされた、「神」、イエス・キリストとは全く正反対にいる「強い悪魔」によって支配されるこの邦で生きることは、我々男性がまさにイエス・キリスト以上の艱難辛苦に立ち向かうことを意味する。
日本が瀕する自殺や幼児虐待、少子高齢化の社会衰退を克服するということは、「強い悪魔」による支配を打破することに他ならないのである。
「ウォール街を占拠せよ」で有名な社会活動家カレ・ラースンは消費社会やメディア支配の打破を唱えたが、その問題の根幹にある焦点がずれている。
また、ほとんどが無宗教・無思想な日本人のわれわれが悪魔だと言うなら、道徳教育を徹底させればいいという考えが出てくるかもしれない。
しかし、それも今日の肥大化したメディアの広告支配が変えられない限り、個人の自由が前提にある以上、完全に無意味である。ブータンの国王もそれを理解しつつ受け入れてはいる。
もはや「弱い悪魔」が生き残るためにやるべき道は皆無と言ってもいいほどなのである。
■「救いなき、道徳なき東京に死を!」
物を探すために渋々訪れる新宿駅周辺の人ゴミの中を歩いていると、このまま生涯孤独をさいなんできた自分自身がその体力の衰えとともに力尽きて倒れ、冷笑主義で冷酷で貪欲な日本大衆の面前でのたれ死にするのではないかという強い恐怖感に襲われる。
もちろん、それは新宿ならずとも、東京、上野、池袋、渋谷などでも全く同じことだが。
とても、この地は心ある人間の住める場所では到底ない。
それはまさに泳ぎ続けなければ、財布をすられて溺れ死にしそうな、休息の足場の全くない「悪意の大海」であり、この不親切さだけの渦巻いた、魂の全く通わない、まさにサルトルの言う、「ここが新宿だから彼らはいる」というだけの実践的-惰性態の集合すなわち「集列」である。
この一切の連帯も慈悲も持たない亡者どもの地獄のよそよそしさの世界から私は一刻も早く抜け出したいのである。
しかしながら着飾った都会の女はとても強くたくましい。
現にこれらの女たちとは男と比べても圧倒的に自殺が少ない。
それはまず第一に女とは男のように戦いや力の序列の世界に生きていないからだ。
男は日本の特権階級にある無知な世襲政治家や男のアイドル、あるいはコネだけで生きているようなお笑いタレントや芸能人を見ると、大概は自分がよほどの大成功をしていないなら自分が彼らよりも不幸であると思う。
少なくとも彼らとの間に生まれた不当な距離を埋めようと、彼らとは異なるまさに自助努力で最大限の努力を積み重ねて、生き残りをかけていかなければならない。
仮にそう思わなくとも、生きていくためにそういった競争の宿命に立たされる。
しかし、女であればそれらをムーディーに捉えるだけで良い。
ただ女として保守的に生きて誰とも戦わず、それらテレビの中だけの優位にある男たちを、男として見る。
出会うことなんてないはずなのに、流行として自分の中にすんなり受け入れる。
第二にデュルケイムが言うように、女は男に依存しなくても良い生き物である。
男の未亡人の自殺者数が女のそれを圧倒するように、男とはほとんど女なしには生きていけないし、そのくせ社会的稀少価値である女を獲得するには並々ならぬ競争がいつも発生する。
しかし、女とは本能だけで男を無慈悲かつ理不尽に取捨選択するだけで良い。
そして女は自らが男に依存される存在なので、人生を戦わなくて済む。
わかりやすく言えば、大手出会い系サイトでは、女は無料であり、男を少し相手にするだけでお金をもらえて、1日何十通もの交際を求めるメールが届き、大半の女が1回の性行為で2万円を相場とする金額を男に要求する。
逆に男は女の掲示板やプロフィールを覗いたり、メールを出すだけでお金がかかり、かつ一年間通して女性から一通もメールが来ない。
私が「東京は死んだほうがいい」と願うのは、ここが女と金と力と欲望だけの戦場であるためだ。
この日本の若いあるいは熟れた女たちの排他的な情欲というものを補う「プレーローマ」というもの、いわば普遍的な愛というもの、日中朝を除くほとんどの世界に行き渡っているような人として最低限の宗教的な愛が完全に欠落しているためだ。すべては女の排他的で動物的な性的欲求と金銭的な欲望に直結した呪わしい社会であるのだ。
現にそういった女から運悪く排除され続けた孤独な魂は、自殺や孤独死、ストーカー犯罪その他の諸問題となってこの国の統計に具体的な数字として如実に現れている。
生まれてこの方ただの一度も女に愛されたことのない、話すらしてもらえないこの私は学生時代やテレビで美しい女ばかりを見せつけられ、ことに私はそうしたプレーローマの必要性と、戦後一切の道徳すら否定して、他者配慮の概念を顧みなかったこの国の残虐性とよそよそしさと格差といったそうした地獄的な側面だけしか見えない国、日本にさいなまれる。
私の一つ年下で同じ「団塊ジュニア」の木嶋佳苗は決して美しくない。しかし、ほぼ何でも手に入れることが容易にできた。彼女はこの邦(くに)の社会衰退の象徴的な存在である。
他の「強い悪魔」は、殺人がヤバイと理解しているから、そういう意味でただ「彼女よりも賢明な悪魔である」というだけなのだ。経済力にほとんどの力点を置いて、男を取捨選択するのは変わらない。
※こちらは2012年03月22日にアメブロで投稿された、現在非公開の記事となります。
あくまで一哲学者の記録として保存することを目的とした記事であり、2020年現在の社会情勢にそぐわない部分があることはもちろん、私自身、道半ばの時期で、今の私自身とは異なる点も多々あり、ニーチェに影響された大変厳しい文章となっていますことを予めご了承下さい。
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