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ハンバーグの歴史その2 大正時代からのアメリカ料理ブームとハンバーグ・ステーキの登場(東洋経済オンライン記事補足)
東洋経済オンラインにおいて、ハンバーグの歴史記事(前編、後編)を公開しました。
例によって字数の関係で情報量を圧縮した記事となっているので、説明が足りない部分をnoteで補足していきます。(前編/その1はこちら)
拙著『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』では、東京における西洋料理が、どの国から、いつ、どのようにやってきたのかを明らかにしました。
明治時代に真っ先に普及したのはイギリス料理です。この際に広がった挽肉料理が、メンチボール(イギリス料理のforcemeat ball)でした。
フランス料理は、開国と同時に横浜や東京のホテル等に導入されましたが、一般への普及はなかなか進みませんでした。
フランス料理の普及が遅れる一方、大正時代以降の東京において、アメリカ料理ブームが巻き起こります。
1913(大正2)年に千疋屋が始めたフルーツパーラーは、アメリカのアイスクリームパーラーを模した店舗。フルーツパーラーの定番メニュー、クリームソーダ、パフェー、ホットケーキ、ショートケーキ等はアメリカのスイーツです。
このフルーツパーラーはまたたくまに全国に伝播します。ちなみに、スポンジ生地のいちごのショートケーキもこの時期アメリカから渡来したもの。不二家が発明したというのは嘘です。
そして昭和初期の東京では、アメリカ料理店、アメリカ料理を出す店が増殖し、そこにハンバーグ・ステーキが登場します。
拙著『串かつの戦前史』から、当時のアメリカ料理の隆盛ぶりについて引用します。
下の図は昭和5年の銀座飲食店地図(新橋側)です。
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“まずいちばん左上のブロックには、アメリカのアイスクリームパーラーの影響を受けた千疋屋フルーツパーラーがある。記載はされていないが、資生堂アイスクリームパーラーもこの区画と右の区画にあったはずだ。”
”この区画にあるエスキーモは、”フレンチスタイルを看板にして居たエスキモーらも、最近アメリカ風の料理を出しはじめた。時勢だと云はなければならない”(『銀座食味新景』 戸田運也 『食道楽 昭和6年7月号』)という、フランス料理からアメリカ料理への転向組”
”左上から二番目のブロックのレストラン・モナミは、エスキーモと同じ”アメリカ風の盛り沢山な一品料理”の店。”
”エスキモー、モナミ、資生堂、不二屋、オリンピック、フジアイス、スエヒロなどが揃っていたが、資生堂と風月堂を除いてはアメリカ風の盛り沢山な一品料理で大衆の人気を得てゐた。”(角田猛『東京の味』)
”アメリカ風の安いランチを喰べさせる店としては、オリムピックや、富士アイスや、不二家などが覇を唱へて居る”(味・人・経営(一) 戸田運也 『食道楽 昭和11年3月号』)
”上段の右から4ブロック目にはニューヨーク・バーがある。このブロックのタイガー支那食堂は、『銀座』(松崎天民)の広告によると”米国式支那料理”の店。”
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“左上1ブロック目の富士アイスクリームは既出の通りアメリカ料理の店。”
”左下2ブロック目に三共製薬の三共ソーダファウンテンがあるが、『銀座』(松崎天民)の広告によるとその上にカフェテリアの銀座エムプレスがあるはずだ。”(注 ソーダファウンテンとカフェテリアはアメリカが産んだ飲食店フォーマット)
”その右のブロックのレストラン・オリンピックは既出の通りアメリカ料理の店。地図には記載されていないが、一番右下のブロックにはアメリカ式中華の銀座アスターが存在する。”
”そして昭和10年代には、路上にホットドッグの屋台がでた。”
このように昭和初期の銀座で流行していたアメリカ料理店。それらの店の中には、ハンバーグ・ステーキを出す店もありました。
アメリカ料理店「富士アイス」では、戦前に作家の三宅艶子(『ハイカラ食いしんぼう記』)および国文学者の池田弥三郎(『たべもの歳時記』)がハンバーグ・ステーキを食べています。
昭和5年発行の食べ歩き本、時事新報家庭部編『東京名物食べある記』においても、「富士アイス」でハンバーグ・ステーキ五十錢を食べています。
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『白木屋三百年史』によると、大正11年に石渡支配人がアメリカを視察、そこで得られた外食店のノウハウを輸入します。この時アメリカから導入した仕組みが、食品サンプルと食券制とカフェテリアでした。
その白木屋のカフェテリアにおいても、アメリカ料理であるハンバーグ・ステーキを出していました(時事新報家庭部編『東京名物食べある記』)。
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同じく『東京名物食べある記』によると、フランス料理からアメリカ料理へとシフトした「エスキーモ」では、ハンバーグ・ステーキ・サンドウィッチ(現在でいうところのハンバーガー)を出しています。
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さて、白木屋のカフェテリアのメニューを見ると、ハンバーグ・ステーキ以外の料理(カツレツ、魚フライ、シチュー等)はイギリス系統の料理。つまりアメリカブームに乗って、イギリス料理の間にハンバーグ・ステーキが割り込んできたのです。
現存する西洋料理店、日比谷の「松本楼」もイギリス系統の料理を出す店でしたが、大正時代にハンバーグ・ステーキをメニューに取り込みます。
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その結果、イギリス料理である「メンチボール」(forcemeat ball)の隣に、アメリカ料理である「ハンバグステーク」が並ぶようになったのです。
ハンバーグを導入した店は、白木屋や松本楼などのイギリス料理メインの店だけではありません。
フランス料理をメインにしていた料理店も、アメリカ料理ハンバーグ・ステーキを導入するようになります。
ハンバーグの歴史その3 ホテルニューグランド/サリー・ワイルの「ハンバーグ・ステーキ」はアメリカ料理 に続きます。