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数ヶ月ぶん溜まっていたクリエイター用のオンラインセミナーを観ていて、やっぱり共通していることがあるなと思った。 それは、企画を遂行するには、個人の熱量が中心になければいけないということ。 企業の採用面接を思い描いたときに、自分がそれをやっていて楽しいから、自分がやりたいことだからと言ったら、落とされる気がする。 もちろん言い方の問題ではあると思うけど。 でも、大きなことを成し遂げた人に、イヤイヤ仕事をしている人はいなかった気がする。 仕事と自分の楽しみを切り分けると
しあわせってなんだろう。 幸せになるにはどうしたらいいんだろう。 そんなことを日頃から考えていたら、最近気がついたことがある。 何かに感謝することと、幸せだと感じることは、ほとんどイコールだということだ。 私は幸せの中でも、お金持ちになるとか、結婚するとか、夢を叶えるとか大きな出来事よりも、毎日の生活の中に隠れる小さな幸せを大切にすることに重きを置いている。 それは、たまに食べるご褒美のコンビニスイーツだったり、やっぱり好きだなあと思う高校時代の友達と語りあかす夜だ
毎日noteをお休みし始めてから一ヶ月。アウトプットがなくなると、発信する癖がなくなる。 誰かに向けた言葉ではなく、輪郭も色もはっきりしない感覚が、自分の内側に積もるようになる。 この一ヶ月、何かを感じずにはいられないようなできごとがたくさんあった。私の感覚だと、あまり楽しくないものの方が多かった。 みんなが知っているニュースや、ツイッターでのあれこれや、昨日受け取った八月のサマーインターンの不合格通知なんかがそれなんだけれど、うーん。 面接が苦手すぎて、人生で一度も
わたしがこんなに幸せにこだわっている理由。 そして、哲学が好きな理由の根本には、世界は結局、私たちの感覚でしかないという考えがある。 水と酸素が同じような原子でできているとか、宇宙の8割は暗黒物質という中二病な名前のものでできているとか。物の本当の形を探す学問の楽しさも、もちろんわかる。 でも、どんな原子でできていようが、どんな構成で、どんな法則でくっつきあっていようが、わたしにとってリンゴはリンゴなのだ。 それは、私たちの人生観や人間関係にもっと強く表れる。 昨日
幸せになるためには、選ぶ勇気が必要なのかもしれない。 あなたが不幸なのは、過去や環境のせいではありません。ましてや能力が足りないのでもない。あなたには、ただ”勇気”が足りない。いうなれば「幸せになる勇気」が足りていないのです。 ベストセラー・嫌われる勇気でも、哲人はこう話す。 幸せになる勇気の説明は「嫌われる勇気」に譲って、このnoteでは選ぶ勇気について考える。 幸せには、いろいろな勇気や覚悟が必要みたいだ。 この二つのツイートはどちらも、自分が誰に影響される
人は、名付け親になりたがる。 自分がつけた名前を、みんなにも使わせたがる。 結婚を幸せなものと名付けたら、それを他のみんなにも使ってもらおうとする。そのために、独身を不幸せなものと呼ぶのだろうか。 そんなことを、このnoteを読んで思った。とってもとっても良いnoteだった。 たしかに、私たちには目の前のものを好きに呼ぶ権利がある。 道端に咲く黄色い花を「サリー」と呼び愛でてもいいし、育てているトマトの苗を「とまちゃん」と名付けても良い。 人がだれかに抱く思いを、
友達が、人に見返りを求めるのをやめようと頑張っているらしい。 私も、期待せずに友達と接しようと意識し始めた。 そんな矢先にこのツイートが回ってきて、そうそうと納得しながらリツイートをした。 でも具体的に、他人に期待をしないってどういうことなんだろう。私たちは、他人に何を期待してしまっているんだろう。 〇〇をすべきという期待母親なんだからお弁当を作って当たり前。彼氏なんだから長電話に付き合って当たり前。 そんな風に、相手との関係や役割から、勝手に「〇〇すべき」と思い込
「幸せなとき」は、繰り返し使えるからエコだ。 友達と遅くまで語り合って、大笑いした夜。 口いっぱいに出汁の香りが広がる、美味しい親子丼を頬張ったとき。 話を聞いてくれたり、一緒に怒ってくれたりして、友達の大切さを改めて実感した瞬間。 それらは、寝る前に「今日はいい日だった」という実感をくれるだけではなく、数日後に振り返っても、何年後かに懐かしいねと言い合いながら思い出しても、同じ幸せを運んできてくれる。 それは、面白いという感情や、感じた味そのものを思い出すのともち
いいことがあったら、悪いことがある。 気がついたらそんな風に思うようになっていた。 友達から、恋の相談を受ける。 「昨日は一緒に勉強できた。距離が縮まった気がする。一緒にライブに行くことにもなった。」 そんな時私たちは、期待しすぎるなと自分に言い聞かせる。 相手も自分に気があるかもしれない。 そう思った瞬間に、自分以外の誰かと楽しく話す相手を見て、特別な友人ですらない自分を嫌いになるからだ。 楽しい時ほど、その時間はいつか終わるという事実に悲しくなる。 嬉しい
初めは理解できなかったり感動していたものにも、いつかは慣れる。 そんな当たり前のことに気が付いて、ふと怖くなった。 変えたいと思っているものは今変えないと、幸せな「今」に気付こうとしないと、だめなんだと思った。 そんな話をします。 ・いろいろなものに慣れた私 ・心が揺れ動かなくなることが怖い ・どうやったって慣れてしまう私たちはどうしたら良いんだろう いろいろなものに慣れた私アメリカの大学に通っている私は、夏休みに一時帰国をして、また最近アメリカに帰ってきた。