なぜ、東大卒の社会起業家が、「豚汁や」をはじめるのか?
こんにちは、喜多恒介です。はじめましての方は、はじめまして。お久しぶりの方は、お久しぶりです。明日から豚汁や「YO-JO」をはじめる者です。今年、34歳になりました。
タイトルを見られた方はきっと、「おいおい、東大卒業して、何で豚汁やをやるんだよ?」「学歴、もったいなくない?」「どんなヤバい豚汁やをやるんだ?」「34歳でそんな冒険して、だいじょうぶか?」と思われていると思います。
…僕も、そう思っています(笑)
最近のあまりの自分の変わりっぷりに自分でビックリしています。ちょっと前まで、まさか「自分が飲食店をやる」なんて、夢にも思っていませんでした。突然のことなので、そこらへんの経緯と想いを話したいなぁ、と思ってこの記事を書いています。
ちなみにですが、僕が「豚汁や」をやるということは、「相当世の中が、転換点を迎えている」ことと多分同義なので、ぜひちょっとそこらへんの話も見ていっていただければ幸いです。
以下、目次
豚汁やをはじめようと思ったきっかけ
1,僕は、「The.教育」をやりたいわけではない。
はじめましての方むけに自己紹介すると、僕は喜多恒介です。東大在学中から10年以上、教育に関わり続けてきた社会起業家です。
自分で言うのもあれなんですが、割と「教育ガチ勢」です。100億円の文科省の奨学金の立ち上げをやったり、高校に「出張授業」をのべ3万人にやったり、箱根に通算1000人以上招待して「合宿」をやったりしています。
大学院では、認知行動科学やナラティブ・アプローチを用いた自己効力感の向上などを研究して、ちょっとだけ教育工学的な論文も書いたりしていました。
きっとこれだけ見ると「いやいや、「教育やりたくない」なんてお前、どういうことだよ?」と思われるかもしれませんが、まじで「THE.教育」には興味がないんです。その証拠に、学部在学中に、教育系の科目は一つも取っていません。
先ほどの合宿のサイトや論文をよーく読んでいただけると分かる通り、僕は「人の本音や主体性を引き出す」「人と人の本物の関係性を紡ぎ出す」「その結果としてよりよい未来をつくりだす」ということが大好きなだけで、「教える」とか「勉強」には殆ど興味がありません。そういうものは、好奇心や主体性やコミュニティが備わっていれば、子供は勝手にやるものだと思っています。(ここらへんの価値観は僕の母校の武蔵の教育方針が大きく影響していると思います。)
2,教育の限界を感じた瞬間
教育と名前のつくものを10年間やってきたのですが、様々な子どもたちと関わる機会をいただきました。孫正義育英財団に選ばれるような「超天才」から、甲子園を目指す熱血野球少年、通信制高校に通う子どもたちまで。
そのなかで僕らがやり続けてきたことは、彼らに「問いかける」ことだけでした。
「あなたは、何と何と何に興味があるの?」
「魔法が使えたら、どんなところに行ってみたい?」
「5年後、どんな姿になっていたいの?」
などなど。
その問いかけの答えを集めて、その子の「個性」や「本当になりたい姿」を少しずつ明らかにしていって、調べたり行動したりしてみて、最終的にはそれを台本無しで発表できるようになる、そんなことをプログラムにしていました。
※興味のある人はプログラムの思想や学校で使ったワークシートを見てみてください!
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手前味噌だけど、僕のつくった「やりたいことを見つけるワークショップ」や出張授業は「自信作」で、なにせ「選択肢の中から直感的に好きなものに○をつけて並び替えるだけで、自分のやりたいことの輪郭が見えてくる」という超簡単仕様なのです。
具体的には、「国や職業や専門性や動名詞の一覧の中から、ピンときたものを複数選んで、順位付けをして、それらを組み合わせて自分のなりたい姿ややりたいことを言語していく」という「アート思考×KJ法」をつかったアプローチです。背景には「ナラティブキャリアカウンセリング」「計画的偶発性理論」「キャリアアンカー理論」「SCCT理論」などの概念を組み合わせていたりします。
難しく書いてしまいましたが、とにかく子どもたちのやることは最低限「選択肢の中から自分が好きなものに○をつける」それだけです。それだけで、全てがはじまるのです。その結果をChat GPTに入れれば、自分の興味関心がどんどんと広がるし、職場体験やオープンキャンパスでどんぴしゃの所が見つかる確率もぐんと上がる。奨学金や課外活動の情報もはいってくる。そんな「自分に眠る魔法のアルゴリズムの種」を明らかにするワークショップを、僕はいろんな学校にやっていきました。
※授業風景は、こんなかんじです!
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さて、どうなったでしょうか?子どもたちは自分のやりたいことを見つけて、羽ばたくことができたでしょうか?
…結果は、二分しました。「最高の結果」と「絶望の結果」です。
「最高の結果」でわかったこと。それは
「このワークショップは、本当に人生が変わる」
「自分の根源を見つけて表現することは、とても尊いこと」
「高校生だけじゃなくて、中学生でも小学生でもできる」
「プロジェクトとか進路選択とかあらゆる領域に応用可能」
ということでした。
子どもたちからも、こんな最高の感想をもらって、僕は大号泣でした。ほんとに、うれしかった。
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一方で、「絶望の結果」もありました。
「子供が主体的になると、先生が不安になってしまう学校が多い」
「親の目が気になって、本気で思ってもいないことを書く子が、一定数いる」
「学校によっては、そもそも、「選択肢に○をつけられない」子がたくさんいる」
でした。特に最後の「○をつけられない」は驚きでした。
自分の好きなものを、表現することがそもそも、怖い、きらい、嫌だ。という子がとても多かったのです。
活発な子が多い都内の学校だと、ほぼ全員数十個は100個に○がつくのですが、とある地方の学校や通信制高校だと、「クラスの4割が1つも○をつけられない(つけない)」という現象が発生しました。
最初は本当に驚いたのですが、よくよく状況を聞いてみると、起こるべくして起きていることでした。
・親が子供を抑圧している
・親が子供に無関心
・学校の先生が生徒を怒鳴りつける
・クラスに心理的安全性がない
・周りの目がすごく気になる
・今まで成功体験がまったくない
など、「自分の好きを表現することが、自分の身の危険を生じさせる」という環境だったのです。その結果、子供の自己肯定感がとても低く、「好きなものを好きだと言う」それがとても怖いことになってしまっているのでした。
その状況をなんとかしようと、この数年間手を尽くしてきたのですが、結論は「親ゲー」「校長ゲー」でした。
・親のあり方が子供に及ぼす影響があまりに大きすぎて、「タイミングにもよるが、ベテランのメンターや先生が何十何百時間とかけて、子供が少し前向きに変わる」が限界
・向き合い続けると、いわゆる「支援疲れ」を起こすメンターや先生もでてくる。
・そもそも校長にリーダーシップが無いと、学校にしっかりと関わることすら叶わない。
という結果でした。
学校が無理なら、「オンラインで自分でメンターを選んで、いつでも無料で進路相談ができる相談室」をつくって100万人に告知をしたのですが、それほど多くの子供が参加するには至りませんでした。「そもそも、そういう知らないところに飛び込めない」のが子どもたちの現実でした。
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…ここで僕は、思いました。
「この手の教育って、構造的に、無理じゃね?」と。
「主体性をはぐくむための教育は、選択肢に○をつけることすら叶わない子どもたちがたくさんいる以上、やればやるほど格差が広がるものなのでは?」
「そういう子たちに強制的にやらせることも出来なくはないが、それって主体性の真逆のことでは?」
「そういう子どもたちを取り囲む、「親と先生」が子供の主体性の無さを助長させているのでは?」
と。
本当にそうなのかは、まだ確証が持てていませんが、少なくとも今の僕の実力では「自分の好きなものに○をつけられない子ども」に「出張授業やオンライン授業」という形で主体性を身につけてもらうことは、難しいように思えました。
これが、僕が感じた「教育の限界」です。
※もし、コスト度外視で学校制度自体を全部プロデュースできるなら、農業や漁から自炊から掃除までやるなかで主体性を身につけつつ、職場体験や自然環境で世界を知りながら、すべての授業をコーチングとワークショップにして、それを6年間やるみたいなことができたら、そういう子どもたちも主体性を取り戻せるかもしれないと思いますが、もはや国家と義務教育制度を変えないといけないので、それはもう少し先の話になりそうです。※そういう意味で、世界を旅する高校、インフィニティ国際高等学院とかも出てきたのは、すごいこと!
※そういう理想の学校づくりを、僕はこの合宿で毎年実験していて、結果として参加者が「大学に行かずに自分で大学をつくったり」、本当の主体性に気づいて才能が開花したり、すごいことがたくさん起こっているのですが、こういう場に飛び込める子って、もともと主体性の素養があるんだよなぁ、と思ったり。
※主体性の無さの根源にアプローチするため、ACTの原理などを応用した認知行動療法的アプローチも開発して何百人かと向き合ったのだけど、教育者側におそろしいほどの胆力とトレーニングが必要かつ、受ける子供の覚悟も必要なので、難しい。
※教育を突き詰めるほど、「子供のせいではない」ことと「自己責任論の恐ろしさ」を痛感する。近代の「確立した自己が責任を取る」という思想の矛盾と限界を感じる。ここらへんの議論はパリ大学准教授の「責任という虚構」という本に書いてある。
※人の主体性を引き出す観点で、U理論とシステム思考を応用したコーチング手法も考案し実践している(図参照)。が、そもそもコーチングは相手が求めないとできないものなので、変わりたいと思えない状態の子供には何もできない。
3,身体、変えたらどうなるのよ?
めちゃくちゃ長くなって申し訳ない。ここから少しずつ豚汁の話しになってくる…はず。とにかく、現時点での教育の限界を感じてしまった以上、僕は別のアプローチを考えなくてはいけなくなった。
「どうすれば、子どもたちの本当の主体性やつながりを、取り戻せるのか?」
という僕の「願い」であり「問い」を考えるにあたり、まず「親をなんとかせねば」と思うのだが、これは筋の悪い方法だということがすぐわかる。そもそも親には、変わるインセンティブがほぼ無いのだ。
そこで、教育以外の手法を考えてみた。色々と学んでいくと、
音楽、スポーツ、建築、インセンティブ設計、などあらゆる手法があることがわかった。しかし問題は「音楽やスポーツや建築は、僕自身にルーツがない」ということだった。
じゃあ、どうするべ?
と考えていると、アインシュタインの言葉が思い浮かぶ。「あらゆる問題は発生したのと同じ次元では解決できない」と。
そうか。原理を学んで次元を掘り下げたら、なにか見えてくるかもしれない。そうして僕は「主体性」や「人の意志」というあいまいな言葉を、次元を掘り下げて化学的に分解すべく、解剖学や脳科学を学び始めた。
三項随伴性理論、ドーパミン、オキシトシン、セロトニン、下垂体、ポリヴェーガル理論、ソマティック心理学、腸脳相関、腸内細菌叢、などから始まり、
実践的な実験として
合気道、整体、ヨガ、瞑想、交互浴などを、あらゆる場所で何百回も試していった。
「なんか喜多、最近、宗教ぽい」と言われることも多くなったのだが、本人はいたって真面目に、臨床と科学的研究をやっているつもりではある。
だが、突き詰めていけば突き詰めていくほど、「あれ、宗教的技術ってめちゃくちゃ大事じゃね?」と思うことも、とてもある(僕は未だに無宗教ではあるが)。
たとえば、宗教でよく「姿勢を直させる」ってよくやるじゃないですか。座禅然り、祈りしかり、とにかく身体の姿勢を、宗教は大事にする。
僕が子供の頃は「なにそれ?うさんくさ!」と思っていたのですが、最近だとハーバード大学とコロンビア大学の共同研究で「いい姿勢すると、脳内ホルモンの出方が変わって、自信がつきまっせ!」みたいな論文も出ていたりする。
そうすると、「じゃあ武道の達人がやっている姿勢や骨や筋肉や脳の使い方と、人の意識ってどう繋がってるのよ?その時の脳内ホルモンってどうなっているの?」とかも気になってしまって。こちらの成田新十郎先生のお弟子さんに弟子入りして、原理を習ったりしています。(90近いおじいちゃんが、触れただけで人を投げ飛ばす姿は、衝撃である 動画)で、習ってくると「あれ、これヨガの呼吸法と姿勢とめっちゃ似てね?」とか「この原理、整体にも応用できるよな」とか「コーチングで相手から本音を引き出すときと原理が一緒だ」とかがわかってくるわけです。
だから、このときの僕の整体とか見てほしいのですが、(動画)「患者に触れて、祈る」だけでぎっくり腰がほぼ良くなっているのです。どう見ても怪しいし、これこそ宗教っぽいと思うかもしれませんが、これも解剖学的な観点では、頚椎と仙骨の位置の調整を、呼吸の調整でやっているだけなのです。「祈っている」というのは外面であって、その実は「整体する側の呼吸状態を、患者に真似してもらいつつ、身体の重心の緊張を解いてもらう」ことしかやっていないのです。
というわけで姿勢的なアプローチは、子どもたちの主体性を向上させることに、とても有効だとわかったのですが、実はこれが一番むずかしいことが後々わかった。
というのは、どんなにいい姿勢を子どもたちに教えても、モチベーションが低い子ほど、ほぼ必ず姿勢を崩してしまう。何度言っても、悪い姿勢になる。
「あ、これも筋が悪いのか」
他にも、睡眠、運動、片付けなど、あらゆるウエルビーイング系のアクションと行動変容もコーチングで試してみるが、やはり「よくない状態の人ほど、抜け出すのが難しい」という結論になってしまう。
僕は思案にくれることになる。
そして、思いつく。
人間よくするの、「人間じゃないもの」のほうが、よくできるんじゃね?
と。
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脳内ホルモンについて調べていると、やはり至るわけです。腸内環境に。ここには100兆匹の腸内細菌が住んでいると言われ、我々の意志すらも司っているわけです。
たとえば腸内細菌のあり方で、彼らは僕らが食べたいものを左右するし、幸せを感じる脳内ホルモンのセロトニンは8割腸からでてくる。参考記事:https://www.nikkei.com/nstyle-article/DGXMZO09434550R11C16A1000000/
4,親を変えるか、食を変えるか
人間は一つの生命ではなく、「腸内細菌100兆匹プラス私1」の集合生命体だと思った方がいい。そう考えると、「その100兆匹とうまく付き合うことができれば、自分の意識や行動がいい方向に向かうのでは?」「それは、どうすればいいのか」と考えるわけです。
そう、その方法が「食」です。腸内細菌にとっては我々が食べる食べ物がエサなので、食べる食べ物を変えれば、腸内細菌のあり方が変わり、ホルモンが変わり、意識が意欲が主体性が変わる。そういう仮説です。
そう考えると、「子供の主体性を回復させるために、食を変えることは、親を変えることより筋が良さそうだ。」と思うわけです。
食は、給食や子供食堂やレストランなど、子どもたちと様々な接点があるし、何より1日3食3回のチャンスがある。そして人は食欲に基本抗えない。「美味しい」の魔力には逆らえない。ならば、本当に美味しくて腸にいいものをつくればいい。
なので僕は自分の「うんこ」を研究し始めます。「え、なぜ、うんこ?」と思うかもしれませんが、うんこにこそ腸内細菌の秘密がつまっているのです。
僕は慶應大学の先端生命科学研究所を何度も訪れ、うんこの中の腸内細菌の分析と食と日常パフォーマンスの関係を分析したり、議論したりしていました。
そして、至った結論が「日本人、発酵食品と食物繊維が足りてないよね」ということでした。各国、各地域、各人で理想の腸内環境はまったく違うのですが、日本における最新の研究では、腸内環境の多様性が子供の自己肯定感・自己効力感に大きく影響することがわかってきており、またそれらが食物繊維や発酵食品によって増える腸内細菌によって左右されることも明らかになりつつあります。
「じゃあ、日本人の食事で発酵食品と食物繊維を増やすには、どうすればいいのよ???」と思い、自分の食生活で実験し続けました。
ブロッコリー、ひじき、豆、オートミール、ヘンプ、納豆、ヨーグルト、チーズなど、様々な「発酵食品&食物繊維」の食べものを日常的に接種する習慣を試してみました。
ですが、どの食品も日常的に接種することは、難しかったのです。どれも、毎日は食べられない。調理が大変。飽きる。
僕はまた思案にくれます。
「じゃあ、昔の人はどうしていたのよ?」
と。
すると、答えが見えてきました。
「玄米と、たくさんの野菜を味噌で溶いた汁物、漬物だ。」
と。
いわゆる「一汁一菜」。
たしかにこれなら、飽きずに圧倒的な量の食物繊維、ミネラル、発酵食を取ることができる。
試してみた。
「ん、これは「あり」だぞ?!」
気軽にさっとつくれて、それでいて飽きが来ない。さすが日本古来からの食習慣。
だがしかし、なんだか物足りない。僕は死ぬほど美味しいものを毎日食べたいのだ。ゆえにこんな問いが浮かんだ。「もうめちゃくちゃ美味しい「ご飯」と「汁物」と「漬物」とは、いったい何なのか?」
こうして僕の理想の食探しの旅が始まった。
5,日本中、世界中の美食を訪ねて、行き着いたもの。
まず、本当の意味でからだに良くて、美味しいものとは何なのか、その身体的感覚を探る必要があった。
その最初のヒントは山形県鶴岡市にあった。
食べたら、涙が出てくるほど美味しい。食材への感謝が止まらない。そんな料理の数々。アル・ケッチャーノは、素材一つ一つの魅力を、土や環境レベルから解析し、地元の食材がその使命を全うできるよう、料理をする。その結果、地域の農業や産業が活性化し、未来へとつながる。そう、まさに僕が目指している教育の姿と、合致しているのだ。
僕は、気づく。「そうか、食とは「料理ありき」なのではない。「食材ありき」なのだ。」と。
カレーという料理をつくるために、たまねぎやじゃがいもがあるのではない。
じゃがいもとたまねぎとにんじんという食材を生かすために、スパイスを入れて、肉を入れて、カレーをつくるのだ。
「こうあるべき」という型ありきではない。その人、その食材の個性ありきの教育、料理なのだ。と。
これは近代の大量生産、大量消費、中央集権の概念とは真逆だ。個別化、循環型社会、自立分散、の現代へのパラダイムシフトだ、と。
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そんな気づきをもとに、さらに僕の足は世界の美食の街にまで向かう。
世界一の美食の街、サン・セバスティアン。水の都、ベネチア。火山と氷河の国アイスランドetc…
どれも本当に美味しかった。感動した。だが、なんというか「舌と脳」が揺さぶられる感じで、決して「全身で感じる、震えるほどの命の喜び」ではなかった。
あと問題だったのが、「毎日、食べられるものではない」ということだった。毎日食べるには、刺激が強すぎる。僕の目指すものは、「全身で食材の命を感じられる、毎日食べられる料理」だということがわかってきた。
6,海老を焼いただけ。そこにすべてがあった。
僕が求めていたものの一端。
それは、サン・セバスティアンの町外れにあった。
世界一の炭火職人の店「アサドール・エチェバリ」の右腕、前田シェフの一品。ただ、「海老を焼いただけ」の一品。
それは、命の全てを表していた。いや、命だけではない。その海老がいた海までも表している。口に入れた瞬間、言葉を失う。美味しさとか、塩加減とか、そういう次元ではない。命への感謝と循環。それだけがそこにあった。
もちろん、前田シェフはそれを再現するために、技術のすべてを尽くしている。「ただ焼くだけ」の作業には恐ろしいほどの技術と工夫が凝らされている。
…「これだ。この感覚だ。」
…「これを、日本の一汁一菜に再現するのだ。」
こうして、僕の食づくりの方向性が定まったのであった。
僕は、どんな豚汁をつくりたいのか
7,「野菜出汁」との出会い
一汁一菜の骨格を成すものは、やはり汁物。汁物でどうやって「命への感謝、命の循環」を表すのか。
ここでもやはり、食の実体験が活きてきた。
ここでの野菜だしの使い方と組み合わせ方が美しすぎて、「これは、毎日食べられて身体に染み入るぞ!」と確信。毎日野菜出汁を取る生活をはじめる。
昆布と、水と、野菜。そこにたまに動物系の出汁と塩味を加える。
昆布の違い、水の違い、野菜の部位の違い。それらがどう味に反映されるかを一つひとつ分解して理解していく。
そこに旨味の各種酸の概念や、分子栄養学の考え方を加えていく。
すると、どんな食材でも「これとこれとこれをこう組み合わせれば、だいたいこう美味しくなる」という理解が進んできた。
何回も調理を積み重ねるなかで「染み入るように、美味しい」という感覚を料理で再現できるようになってきた。
しかし、それだけではまだ理想の料理には、足りなかった。組み合わせによる美味しさの広がりだけでない。必要だったのは、食材そのものの持つポテンシャルを見極め、仕入れる力だったのだ。
8,食材の持つ、生命力
生命力あふれる料理をつくるためには、やはり「生命力あふれる食材」を手に入れなければならない。しかし、そんな食材は、どこにあるのか?ここでもヒントになったのは、僕自身のルーツであった。
僕は、三陸の漁師の孫であり、奈良県の農家の孫でもある。祖父母から送られてくる荷物から、毎日食卓にイクラやアワビが並び、野菜に果物にお米に困ることは無かった。
特に印象的だったのが、釣ったばかりのパキパキのイカや、活きたまま船の上で食べる潮味のアワビ。あのときの透明な味、命の味は、舌の上というよりも全身で感じる感覚のようなものだった。
しかしそんなものを都内で食べようと思ったら、1食何万円もするレストランの予約を取らなければいけない。
僕はふたたび全国を回り、取寄せ、聞き込みをし、一汁一菜のための食材を集めることになる。
そのなかで、千葉県の林SPF、愛媛県の三間米、岩手県の大久保農園のごぼう&長芋、山形県鶴岡のだだちゃ豆など、今の豚汁の骨格を成す食材が徐々に見つかってくることになる。
9,ほんものの調味料の破壊力
そうして多くの生命力あふれる食材と向き合うと、自然と疑問が湧いてくることになる。
「どうすればこの食材のあるがままの魅力を、料理にすることができるのか?」
この問いへの答えは、僕にとってなんとなく見えているものだった。
命の全体性、熱による変容、食材にピッタリとあう塩。この3つがキーワードだった。
命の全体性とは。食材をなるべく皮をむかずに、使うこと。食材を部分ではなく、なるべく全体で食べるようにすること。食材が育った環境つながりで食材を合わせること。
熱による変容とは、その食材が持つ自然界での食べられ方を考えながら、無理なく熱を入れること。
食材にピッタリ合う塩とは。何千種類もある塩のなかから、ぴったりのものを選ぶ。その食材の甘味を引き出すのか旨味を引き出すのか。それによって合う塩は異なってくる。塩一つで、食材の魅力は5倍にも10倍にもなる。試しに豚バラ肉に「粟国の塩」を使ってみてほしい。甘みが何倍にも増して、あたまがとろけるはずだ。
そんなわけで僕は、世界一のソルトコーディネーター青山志穂さんから学びながら、数百種類の塩とにらめっこして、毎日の食で実験を繰り返している。
コシヒカリのお米に合う塩、メークインのジャガイモにあう塩、脂身の多い豚肉に合う塩、一汁一菜の素材の魅力が、塩によって何倍にも引き立っていくことだろう。
そのように日々アンテナを張っていると、すごい調味料の話が舞い込んでくる。たとえば「美袋之唄」という糀味噌。口にした瞬間、ふわっとした優しさが広がり、舌に何も残らず体に染み渡る、すごい味噌だ。これを使って汁物を作ったら、どうなるのか。
もちろん、とんでもない味になる。素材の魅力が完全に引き立つ。
逆に添加物をたくさん使った味噌を使うとどうなるのか。素材の風味の広がりが完全に死ぬのだ。これには、本当に驚いた。別に僕はスピリチュアルでもなんでも無いのだが、事実としてほんとに風味が死ぬのだ。
10,豚汁100本ノック
ここまでわかれば、あとは実践を繰り返すのみだ。僕は、家で毎日汁物を作り始めた。
豚汁をベースに、たまに鶏汁。ミネストローネ、カレー、シチューetc… 柔らかな野菜出汁を基本とした汁物のあらゆるパターンを試していく。しかし、やればやるほど、自分の至らなさに気づく。料理の道のなんと奥深きことか。
逆に、今の料理界隈が見落としていることにも気づく。素材を、本当の意味で活かしきること。命のしずくを、いただくこと。それを徹底してできている料理は、世の中には殆どない。
たいていの外食を食べるよりも、「自分で豚汁をつくったほうが、だんぜん美味しい」という状態になった。
味は現時点でも毎日変わり、模索中ではあるのだが、「絶対に美味しいご飯を炊く」「唸るような生命力あふれる汁物をつくる」のは必ずできるようになった。
まだ圧倒的な未熟者ではあるが、このタイミングで表参道と高知に期間限定でお店をださせていただくチャンスをいただき、今に至る。機会をいただいた土岐山さんに感謝である。
11,豚汁の持つ圧倒的な可能性。そして玄米と塩。
豚汁は、つくればつくるほど奥が深い。どんな野菜でも入れられる懐の深さがありつつも、絶妙な配合で食材を組み合わせると、爆発的な旨味を出してくれる。
たくさんの食材を組み合わせれば、日本人に足りない栄養素をすべて補える。
そこに、日本一のお米と名高い「三間米」の玄米を出す。遠藤五一さんのコシヒカリも出してみたい。豚汁に合うお米を、もっともっと探究したい。こんなチャートも世の中には存在する。
このお米それぞれに、ピッタリと合う塩がある。お米の糖分と、塩の塩分と、豚汁のうま味と脂。組み合わせれば、とんでもなく脳がとろけるような味になる。
それでいて、健康。
これこそが豚汁と玄米と塩の可能性なのだ。
今後、どうしていきたいのか?
12,豚汁から広がる4つの可能性
具体的なことは、10月1日までの豚汁全国ツアーを終えてから考えたいのだが、僕は今4つの可能性があると思っている。
1,学食、社食、福祉施設、子ども食堂で、圧倒的に美味しい1汁1菜を提供する。圧倒的に美味しいお米と、豚汁と、漬物と。それを極めて、全国の栄養不足の子供達や大人たちに、最高の食を提供したい。
学校でこんな生命力あふれる豚汁やカレーが提供されたら、子どもたちのエネルギーもあがってきて、勉強や活動量が増してくるだろう。
会社で食べられたら、食べた人のパフォーマンスが上がってくるようになっていくだろう。
福祉の現場で食べられたら、高齢者がめちゃくちゃ元気になるのではないだろうか。
子ども食堂で振る舞えたら、子どもたちがどれほど喜ぶだろう。
人を変える手段は、教育や研修以外にも存在する。むしろ食と教育と福祉を組み合わせることで、驚くべきインパクトを生み出すことができるのではないか、そんな仮説をいま僕は持っている。
これらの科学的なエビデンスを腸内環境をはじめとしたもので、明らかにしていきたい。
2,豚汁と塩による、地域活性化
全国1000以上の市町村に、オリジナルご当地を豚汁があってもいい。さいたま豚汁、霧島豚汁、宮崎豚汁みたいな。
全国を回っていて思ったのは、「地元の食材をちゃんと活かしきったお店があまりにも少ない」ということ。
たとえば、愛媛県の八幡浜にあるこの居酒屋は、ホントに美味しくて素晴らしい。ここのために八幡浜にわざわざ行きたくなるほどだ。ミカンの刺身食べたいなぁ、と。
こういうお店が、地域に複数あるような世の中になったらどうだろう。
観光客が落とすお金の金額が上がることはもちろん、地元のレストランのレベルが上がれば、地方に住む人のウェルビーイングも飛躍的に上がる。そればかりか、栄養も行き届くし、予防医療にもなる。地元の食材が生かされれば一次産業も盛り上がる。腸内細菌や作物の栄養素と土壌との関係から、新しい持続的な環境のあり方が見えてくる。例えば淡路島などの農作物と土壌が豊かなところでの事業は非常に面白いものになるだろう。
食を通じた地方の再興、ひいては人口問題や財政問題の改善、自然との共生。これには大きな可能性がある。
それを、豚汁でできるのではないか、という仮説だ。
3,男版のスープストックトーキョーとしての養生豚汁屋チェーン。これも可能性がある。なぜなら、東京で「安く」「早く」「美味しく」「たくさん」「健康的に」食べられる飲食店はなかなか存在しない。僕も東京に行くたびに苦労する。
大戸屋、やよい軒なども、いまいちパッとしない。
そこで養生豚汁の出番だ。養生豚汁なら、「安く」「早く」「美味しく」「たくさん」「健康的に」食べられる。
男がラーメンや牛丼やコンビニ食に流れる前に、養生豚汁で圧倒的な健康を手にできる。そんな可能性があるのではないか。
都内での実証実験では、道行く女子高生やサラリーマンが試食で、「うまっ!」と驚きの声をあげてくれている。
たくさん食べられて、健康的にお腹いっぱいになれる、そんなスープ屋があってもいいのではないだろうか。
そこにコーチング的なしかけも入れられるかもしれない。子ども食堂も併設できるかもしれない。
4,世界食としての豚汁の可能性
ロシアのボルシチなど、世界にも豚汁のような国民的汁物が存在する。その地の食材を集めた汁物は、まさに栄養面でその地の人たちの健康を支えている。
「ここに、味噌を加えたらどうなるのか」
ここに僕は大きな可能性を感じている。だって豚汁はカレー粉を加えたらカレーになるし、トマトを加えたらミネストローネ、クリームとバターを加えたらポークストロガノフになることを、僕はこの数ヶ月で知ってしまったからだ。
味噌に含まれている種菌は、日本に昔からいる存在だ。その種菌が食を通じて世界に広がること。それを通じて世界の腸内細菌のあり方が変わること。それすなわち世界中の人の性格が変わること。もしかしたら世界平和に通じる道かもしれない。そう思わせるほどの可能性がある。
13、豚汁の先に見ているもの
豚汁の先に僕が見ているもの。それは、リジェネラティブという概念。すなわち「つながりの再生と活力と創造」。食と教育を通じて、人と人、人と万物のつながりを取り戻していきたい。そして一人ひとりがイキイキと活力溢れる世の中にしたい。それこそが、我々が真に目指す、持続可能な社会なのではないだろうか。
…これから生成系AIや量子コンピューターや核融合などのテクノロジーにより、どんどん現実とバーチャルの垣根が無くなってくる。
そんなマトリックスのような未来に向けて歩みを進める私達が、残響のように残す軌跡。それこそがこの「リジェネラティブ」という道なのだろう。政治家の曾孫にして、農家と漁師の孫かつ、医師と看護師の息子の自分がここに至るのは、ある意味必然なのかもしれない。
なぜ、東大卒の社会起業家が豚汁やをはじめるのか?
きっとこれは世の中の大きな転換点になっているのかもしれない。
ではでは。
※僕の豚汁に興味のあるかたは、こちらから→https://lin.ee/qIV1H8Q 食べられる場所を、LINEでご紹介しています。