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首都高の壁にぶつかって
死にかけたときには、それまでの人生が走馬灯のようによぎる、という。
それは、ニンゲンの生存本能が、少しでも生き残るために使えそうな情報が脳内にあるかどうか、脳細胞を高スピードに活性化させて探し出そうとするからだと。
その雨の朝もそうだった、のだろう。
私は、首都高速目黒2号線を、都心環状線に向かって走っていた。
荏原の入り口から上がってすぐ、庭園美術館に向かう本線との合流はものすごい急カーブ、しかも下り坂だ。
あっ。
そう思ったときはもう遅かった。
ハイドロプレーニング現象。
教習所で習ったその長いカタカナが頭に浮かび、目の前には壁に激突していくフロントグラス越しの映像がスローモーションで広がった。
次の瞬間、いろんな過去の思い出が脳裏に浮かんできた。
本当に早送りの人生ビデオみたいに。
「後輪が滑っているとき、それを止めるには、進行方向と逆方向へハンドルを切るんだよ」
それは自動車メーカーのテストドライバーをしていた叔父とF3000を観に行ったときの言葉だったろうか。
とっさにハンドルを動かした。
でも。
もちろん、ドシロウトの私に操られた車は、吸い込まれるように高速道路の壁にぶつかった。
♢
ニンゲンは必ず死ぬ。
ワニみたいに100日後のことかもしれないし、何十年も後のことかもしれない。
でも、次の数十分のことかもしれない。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している
その時の経験は、この一節を、鮮明に呼び起こした。
♢
高校の時、同級生が亡くなった。
体育館から教室に向かう階段の上で、ちょっと話をして「じゃ、またね」といったのが最後の会話だった。
だって明日も学校で会えるもの。
「また」はないかもしれない。
小説の中の友人キズキと、彼女の面影が重なった。
♢
誰かと話すときは、「またね」が来ないかもしれないと思って話をしよう。
自分にも、相手にも、それは起こりうるから。
♢
大学生の早春に首都高の壁にぶつかって、「反省はしても、後悔はしない」という気持ちが、自分の中でさらに濃く鮮明になった。
もし、明日死んでしまうとしても、後悔のないように。
ひとに誠実にやわらかく接しよう。
やることの優先順位をつけよう。
違う風に取り組めばよかったという気持ちは、次に活かすための反省としよう。
でも、後悔はしない。
そんなことを考えるようになったころ、同じように考えていたこのひとの言葉を知った。
Live as if you were to die tomorrow.
Learn as if you were to live forever.
(明日死ぬと思って生きなさい。
永遠に生きると思って学びなさい)
♢
そうやって生きてきたから、コロナ禍の中でも、私は自分が死ぬことを恐れてはいない。
怖いのは、自分が罹患して、それを知らずに誰かに移し他の人の生命をおびやかすことだ。
だからこそロックダウンのロンドンでおとなしく家に篭っている。
死にたいと思っているのでも、死んでもいいと思ってるのでもない。
もし、死ぬようなことがあっても、後悔しないよう生きてきたから、運命を受け入れる気持ちができている、という意味だ。
それは、幼い頃からの夢だった「海外で生活すること」を自分の力で実現したという満足感なのかもしれない。
いい仲間に出会い、大変なプロジェクトを成し遂げたという達成感なのかもしれない。
同時に、もう自分がニンゲンを再生産することはできない年齢になってしまったという諦めなのかもしれない。
あるいは、ただ単に、ものごとへの執着が少なくなったのかもしれない。
♢
ニンゲンはみな、距離に近い遠いはあるにせよ、死という一点に向かって歩いている。
だったら、できるだけ周囲に真摯に接し、世の中にポジティブな影響を与えたい。
あの人と関われてよかったといわれるように。
だって、もしもまた、自分の人生が走馬灯のように早送りされていくようなことに出会っても。
そして今度は助からないとしても。
「ああ、いい人生だった」
と思って、終わりにしたいもの。
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![ころのすけ](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/83782340/profile_cd293878dc7ba988f0dbcd0bc48102f6.png?width=600&crop=1:1,smart)