世界中で皆が行動を制限されはじめた去年、「ブックチャレンジ」というのがSNS上でまわっていた。 好きな本とその理由が語られる。 それは、友人知人たちの本棚をこっそりのぞき見する感じ。 当たりが柔らかく謙虚に思っていた知人の意外に大きな自意識(本の中身より、オレこの有名なアメリカ人投資家と会ってんだぜという自慢話)や、カタブツと思っていた人の意外なチャラ部分(ホイチョイ本が好きだった学生時代の過去とか)がみえて、実に楽しかった。 ♢ 中学一年の現代国語の授業で「好きな本
今年も11月がやってきた。 そう。白トリュフの季節だ。 コロナのとき以外ずっと同じ村の白トリュフ祭りを訪ねているけれど、今まで参加したことがなかったトリュフ狩りツアーにいってきた。 去年、トリュフ生産者ブースでおしゃべりしたお店のおねえさんが「うちだったらそんなに値段高くないから、来年はトリュフハントも来なさいよ」と誘ってくれたから。 晴天に恵まれた、ぜっこうのトリュフハント日和。 1時間半あまりのツアーで、黒トリュフが4個、白トリュフが1個。 この女性ハンターさんの犬
日本語教師をこころざしていたころ。 アメリカに日本語教師を派遣するというプログラムに参加した。 そのプログラムには事前研修があり、派遣先の州に行く前にシアトルでみっちり数週間鍛えられた。 クラスルームマネジメントや、指導教員と上手にペアをすすめていくコツ、異文化体験シュミレーションなどセッションがいくつもあった。 その研修の内容は、アメリカの学校で日本語を教えるときだけでなく、その後多国籍企業で働き、いろいろな国のひとと仕事をするときにも、大いに役に立った。 その講師の
今から14年前、2010年の夏。 ロンドンに引っ越してきたばかりの私には、会社のネットワーク以外あまり交流の輪がなかった。 それも寂しすぎる、と自分を奮い立たせ、ジャズを聴きに行くグループに参加してみたり、さまざまな国からロンドンに来た女性のグループというのに参加してみたり。けれども、あまり愉快な経験はなかった。 当時のオフィスには日本人はほぼゼロ。 イギリスに家族や親戚が誰もいない私は、だから、日本語を話す機会もほとんどなかった。 日本人コミュニティにも参加してみるか
高校時代、先生たちはみんな、今振り返ってもかなり個性が際立ったひとたちばかりだった。 おそらく、逆に、彼らに言わせれば、かなり個性が際立った生徒ばかりだったというのだろうけれど。 逆立ちしたって文系なのに、附属に育ったがゆえに数学Ⅲまでが必修だった私。 あまりにも「なんで数学を勉強しなくちゃいけないのか」を質問しすぎたゆえに、さわやかに「みんなの邪魔にならんように黙っていなさい」と教室の中で、透明人間にしてもらった。いわば「おみそ」。 これについては以前にもnoteに書い
また今回も、ううむと考えさせられた。 3か月ぶりに日本から帰ってきたら、毎週のようにいっていたイタリアンレストランが閉店していた。 正確には「厨房メンテナンスのためお休みします」という張り紙が貼られてひと気がなくなっていた。 家賃が高いロンドンでは、飲食店がこんな張り紙を出して、永遠に再開しないのはよくあることだ。 たいていの場合、未払い家賃をためてそのままドロンするから。 コロナ直後には似たような感じで、北ロンドンの大好きな四川料理の店が「お休み」のまま戻ってこなかっ
「また、お会いしましたね」 ブリティッシュ航空の羽田発ヒースロー行きの機内。 アメリカ英語でそういわれて、がんばって記憶をたぐる。 最近、アメリカ英語のひとと知り合うことなんてあったっけ? うーむという私の表情から察したのだろう。 そのアメリカ人男性は、ヒントをくれた。 「いや、あの。ついさっき。ラウンジで」 ああ。なんのことはない、さっき出発前のラウンジで、冷蔵庫の中のお水を大きなビール用のグラスに注いでいたら、その手があったかという感じで同じことしたガイジンさんが
真田広之の「ショーグン」のエミー賞受賞。 自主制作映画の「侍タイムスリッパー」のヒット。 どうやら日本では時代劇への注目が再びあつまっているようだ。 嬉しい限り。 ◇ 今夏、日本に長期滞在したおかげでできたことがいくつかあった。 ひとつは、7月に東京の明治座で行われた「松平健芸能生活50周年記念公演」を観に行けたこと。 もうひとつは、滞在の最後にぎりぎり新宿ピカデリーで母とふたり、大ヒットとなっていた「侍タイムスリッパー」を観ることができたこと。 ◇ 小学校のこ
7月から9月末まで、15年ぶりに日本で仕事をしていた。 こちらから申し出て、日本オフィスのひとたちが、日本の思考の壁を破るお手伝いをしにいった。 私が覚えている日本は、「オンナノコはその給料で仕事してくれてればいいから」とか「担当は男性に戻してください」とか、そんな言葉を聞くことが多いところだった。 外資で働くようになっても、どこかで、「オンナの、しかも年下の上司か」とかそんな「空気」があるところだった。 それでも今回お手伝いを申し出たのは、いいかげん、多国籍企業でやって
少し、村上春樹を思い起させる。 第一印象は、それだった。 もちろん、印象であって、実際の世界の人に聞いてみたさんは、もっともっとお若い。そして世界を股にかけるビジネスマンさんである。 ♢ 昔、スコットランドのブックフェスティバルで講演したときの村上春樹。 あんなにいろんなことを小説やエッセイに雄弁に書き綴っている職業作家だというのに、目の前の壇上にTシャツを着て座りマイクを握っている男性は、むしろシャイで言葉少な。 ♢ 世界の人に聞いてみたさんからご連絡をいただいた
思いがけない母娘旅の3泊目は、福岡市内から少し足を延ばし温泉へ行った。 せっかく日本に滞在しているのだから、やっぱり温泉に入りたい。 と、いっても、熊本や大分と違って、あまり福岡には温泉のイメージがなかった。 移動時間があまりかからず、お湯の評判がいいところ。 できれば、ザ・日本旅館という風情のところへ奮発して泊まりたい。 そう思って、検索をすると、みつかったのが筑紫野市の二日市温泉にある「大丸別荘」という旅館だった。 なんでだろう。 行ったことはないはずなのに、なぜか
思いがけぬ予定変更で、20年ぶりに母と2人で旅することになった。 前回の母娘旅は台湾旅行。 一緒に行く予定だった友達が行けなくなって、急遽母にピンチヒッターを頼んだ。 そして今回も。 いけなくなった友の代わりをお願いした。 そんな事情でもないと、母にはもれなく父がついてくる。 だから家族旅行は何度も行っているけれど、「母と行く旅行」はめったに実現しないのだ。 ♢ 羽田から福岡空港への飛行機は、私が伊丹から到着する時間に合わせて購入した。 待ち合わせは荷物が出てくるベル
大阪ライフも半分がすぎた8月後半。 大阪に長期滞在することになっていちばん行きたかった場所を、とうとう訪ねることができた。 太陽の塔だ。 「20世紀少年」を描いた浦沢直樹は1960年生まれ。 1970年の万博では、漫画の世界と近い小学生。 彼個人の経験やその時の感情であろう大阪万博への執着心がこれでもかと散りばめられた作品だ。 1970年当時、そこまで子供たちを惹きつけたバンパクというものに、私はなんだか興味がわいた。 そんな頃、たまたま友達とランチのあとに立ち寄った
「いや、ぜったいにかばんの中に入ってるはずなんです」 初めて行った立ち呑みで、紅ショウガの天ぷらと焼き鳥数本をつまみに飲んだ月曜日。 お支払いをしようと思ったら、財布がなかった。 かばんのすべてをひっくり返し、それでもみつからない。 9時までの電話会議の後、私はすぐにオフィスをでた。 けれど、Yさんはまだ残って仕事するといっていた。そう思って電話をかけて、恐縮しながらデスクの周囲をみてもらった。 それでもみつからない。 かばんをお店に「カタ」として置き、とりあえず携帯
白桃をもらった。 そのすごさは、 「岡山の人が、自分の手で、桃づくり名人の指導を受けながら育てた」 白桃を 「完熟したタイミングで食べさせたいと新幹線でハンドキャリーして」 もらった と、分解すると、伝わるかもしれない。 ♢ 岡山に住むお友達との縁については以前にも書いた。 12年も会っていなかったけれど、ここ2回はたった5か月という間隔。 それもこれも、私が夏に関西にいるという、めったにない出来事のおかげ。 「白桃のシーズンに、すぐそこの大阪にいるんですもんね。
値段のないメニューにであったことがありますか。 料理の説明がしっかり書かれているというのに、値段がない。 そういうメニュー。 接待やら、ここぞというデートやら。 そんなお店には、そういう「お金を払わないひとむけメニュー」がある。 私が初めてそんなメニューに出会ったのは、大学生のとき。 麻布にあるとあるタイル屋さんのショールームでアルバイトをしていたとき。その副社長さんになぜか気に入られ、よく周辺のおいしいお店に連れていかれていた。 そのなかのひとつ。全日空ホテルの最上階