私なりの無記・中道の模索① 唯物論、ニヒリズム
無記・中道の模索
私は悪夢障害と、おそらくはそれによる精神状態の悪化を経験するという過程を経て、いわば「信仰」を受け入れるにいたりました。
しかし信仰といっても、宗教にありがちな、不可視の超自然的な存在、人間の祈りに応えて介入する霊的な存在を肯定し信じるというものではないです。現時点のところは。
(こういった信仰のうちで、いくつかの形態に関しては批判的意見を表明することはあっても、こういった信仰の全てを完全否定しようというつもりもないです)
分かりづらいのですが「内なる意識(霊性)」の信仰を重視するといったものです。
特に瞑想の実践においては非常に重視するし、長時間の瞑想を習慣にする人には、すすめることもあるかもしれません。
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また私は信仰的な立場だからといって、唯物還元論(唯物論)を否定しようというつもりもないです。
超自然的・霊的存在を積極的に信仰しようともしないで、かつ、唯物論を否定しない、それで「信仰をもつ」というのはどういうことなのでしょうか?
私は私なりの無記・中道を模索しています。
唯物還元論について
唯物還元論(唯物論)は、神や霊魂、輪廻転生、霊界など常住不変な超自然的・霊的なものの存在を説く多くの宗教やスピとは対立したものです。
霊的なものが存在しないと証明することは出来ていないので、唯物論も結局は宗教・信仰ではないかと、特に宗教信者の立場で批判する人もいます。
しかしあくまで私の印象では、この唯物論は現代の先進文明水準の知性においては「神・霊魂が存在する」「人間の生にはこの物質的な世を越えた霊的意義がある」という主張よりも、より「確からしさ」のある、もしくは、より信頼できる見解と評価されることがあるのは妥当なことだと感じています。
YouTube:高須クリニック 高須幹弥氏の意見。「人間は死ぬとどうなるんですか?死後の世界はあるんですか?」
「内なる意識(霊性)」や「インスピレーション」であったとしても結局は脳の活動によって生み出されるものであり、つまりは物質に還元されるという可能性自体、そのような考え方ができること自体は、私は認めるところです。
私は唯物論の信奉者ではないのですが、しかし、信仰的な立場でこれを否定しようとも考えていません。
ニヒリズム(虚無主義)について
主張する人の性格にもよると思うのですが、唯物論が正しいと受け入れてしまうとニヒリズム(虚無主義)に陥ると主張する人もいます。
確かに突き詰めるとそういったところはあると私も思います。
「全ては物質に還元され、死んでしまえば意識活動、精神性も無くなるのだから結局はなにも無いじゃないか。全ては無駄で無意味だ。虚無だ。生きる意義などない。絶望しかない」(消極的ニヒリズム)というわけです。
このニヒリズムについては、、消極的ニヒリズムについては、これが正しいものだとわざわざ主張しようという意欲が私にはありません。主張する意義を感じません。
そもそも大部分の人は消極的ニヒリズムには魅力を感じないのではないでしょうか?
哲学的な素質のある人や高知能の人は例外なのかもしれませんが、これは哲学的な態度というよりも、本人の性格だったり、認知の問題、鬱や神経症の傾向だったりというものではないでしょうか?
もしくは過酷な状況下では、このように考える人が増えるのかもしれません。
また生物学的には、消極的ニヒリズムに陥って絶望して厭世的になり生きる意欲を失ったりしやすいような(遺伝的な)素質・素因は、進化の過程で淘汰にさらされてきたのではないでしょうか?
たとえ消極的ニヒリズムが真実であると声高に訴えたとしても、実際には人間社会でこれが常に優勢になることはないのではないでしょうか?
心のどこかで「死んだら無になるかもな」と薄々考えてはいても、それなりに楽しく人生を送りたいとするほうが自然なのではないかと思われます。
これが人間の性(さが)、生命活動の性だと考えています。生きる意欲、生命の衝動というものです。
この性の上に「内なる意識」の信仰を据える考えです。
唯物論がひょっとすると真実なのかもしれませんが、しかし、唯物論による消極的ニヒリズムによって「内なる意識」の信仰すらも無意味である、とはしない方針です。
自分の瞑想の実践において主観的な価値は認めようとする方針です。
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