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【舞台感想文】たぶんこれ銀河鉄道の夜

どこまでもどこまでも一緒に行こう。

2023/04/02、舞台「たぶんこれ銀河鉄道の夜」を観てきました。この舞台は劇団ヨーロッパ企画が、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をもとに制作した作品です。

今回のnoteでは、その感想文をアウトプットします。

なお、事情は後述しますが、このnoteは舞台の原作である「銀河鉄道の夜」の読書感想文も併せたものになっています。

たぶんこれ、「銀河鉄道の夜」の感想文が主であって「たぶんこれ銀河鉄道の夜」の感想文が付随したようなnoteになってしまっているかもしれません。

また、この感想文は原作や舞台のネタバレを大いに含みます。今後の地方公演や配信、Blu-ray・DVDの映像で初めて作品を鑑賞する予定がある方は、これ以降を読まないことをおすすめします。

















前提

感想文を述べる前に、僕がこの舞台作品を観る上でどのような状況だったのかを記しておきます。

僕がこの作品を知ったきっかけは乃木坂46でした。これまでのnoteで何度もアウトプットしてきたように、僕は乃木坂46が大好きです。そのため、乃木坂46に関する情報は自然と耳に入ってきます。

2022年11月、乃木坂46の公式サイトで4期生の田村真佑さんがこの作品に出演することが発表されました。

ノギザカスキッツ等で彼女のお芝居を断片的に観たことはありました。しかし、そういえば生で長尺のお芝居は観たことはなく、観てみたい。

そう思った時にはチケットを購入していました。彼女のお芝居を生で観れることが楽しみで、上演日をずっと心待ちにしていました。

ちなみに、僕が観た公演は東京公演の千穐楽でした。僕は舞台が好きでよく鑑賞していますが、振り返ってみると、千穐楽公演を観たことはありませんでした。

せっかくなら、きっと出演者に最大限の気合が入っているであろう千穐楽公演を観てみたいと思いました。そして、念願叶ってそのチケットを購入することが出来たのです。

田村真佑さんのお芝居を初めて生で観れることに加え、それが千穐楽公演ともなれば、僕のこの舞台に対する期待や高揚感は絶頂に達していました。

また、題名から容易に想像できるように、この舞台は喜劇の色彩が非常に強い作品です。これまた振り返ってみると、僕はそのような笑いを追求した舞台を観たことがなかったのです。

もちろん、観客の瞬間的な笑いを生み出す演出が取り入れられている舞台は数多くありましたが、全編を通じて笑いを追求している舞台を観た経験はありませんでした。

さらに付け加えると、僕はヨーロッパ企画が制作した舞台も観たことがありませんでした。劇団の名前はなんとなく耳にしたことがあり、喜劇を得意としていることは知っていたのですが、どうにも鑑賞する機会がなかったのです。

そしてなにより、この舞台が原作としている宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読んだことがなかったのです。日本人でありながら、日本が世界に誇る文学作品を読んだことがないとは今更になって恥ずかしいです。

このように、僕には「たぶんこれ銀河鉄道の夜」の鑑賞において初めて体験することが幾つかありました。新しい経験を得られることに胸を躍らせながら劇場に足を運び、実に印象的な経験価値を得ることができました。


あらすじ

分かりやすい感想文をアウトプットするためにも、舞台のあらすじを記しておきます。

久保田紗友さんが演じる美容師のナオは、藤谷理子さんが演じる職場の先輩ナツキからきつく当たられる日々を過ごし、疲弊していました。

それとは打って変わり、田村真佑さんが演じる同僚のレナはナツキから可愛がられています。

ナオとレナは高校時代からの親友です。しかし、先輩のナツキからまるで違う扱いを受けていることから、どうにもすっきりしない関係になっていました。

この作品は、主にナオ・ナツキ・レナの3人を中心に展開していきます。

ナオは残業終わりに帰宅し、ちょっとした不運に見舞われます。それで生じた鬱憤を少しでも晴らそうと、ついつい怒りを込めたツイートを投稿しました。

それが偶然にもナツキの目に入り、ナツキはナオから自分に対する怒りのツイートだと勘違いします。そしてナオは、ナツキからツイートの真意を問い質される羽目になってしまいます。

自分を取り巻く現実に嫌気が差したナオは逃避行の末に黒い丘を登り、草の上に身を投げました。

気がつくと、ナオはいつの間にか列車に乗っていました。他にも数人の乗客、そしてなぜかナツキとレナもそこにいました。乗客達はこの光景にどこか心当たりがあり、状況を正確に把握出来ないながらも口々に「たぶんこれ銀河鉄道!」と言います。

車掌が現れ、常人には理解できないような宇宙らしい単語を交えつつ、列車の説明をします。

車掌曰く、この列車は死んだ人が本当の幸いを目指して乗るものらしいです。そして、この死は肉体的なものに限らず、社会的あるいは精神的な死も当て嵌まるとのこと。

道理で、乗客の中にはインターネットで炎上して有名になってしまった人がちらほらと窺えるわけです。恐らく彼らは社会的・精神的な死に該当しているのでしょう。

そして、見覚えのない人も見えます。彼らはどんな経緯によってこの列車に乗ってきたのか、どうにも推察することが出来ません。

そして車掌が言うには、この列車の停車駅ではゲームが執り行われ、敗者は脱落して下車させられるというのです。

こうして乗客達は、列車に身を委ねて本当の幸いを目指しながらデスゲームを繰り広げていきます。


【読書感想文】銀河鉄道の夜

この舞台を観終わって僕の中に最初に生じたもの、それはこの舞台の原作である「銀河鉄道の夜」に対する興味でした。

というのも、たとえ「銀河鉄道の夜」を読んだことがないにせよ、この舞台には明らかに原作には無いと確信できる要素が散りばめられていたからです。

例えば、この舞台が喜劇であることです。

上演中は、特にデスゲームを繰り広げる登場人物達の所作や思わずツッコミを入れたくなってしまうぶっ飛んだ展開が非常に面白く、何度も笑いました。

そして、そのような演出を観る度に「原作にこんな描写があるわけない!」という確信が頭をよぎっていました。

また、宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」を著し始めたのは大正時代だと言われています。その時代にはインターネットやSNS、それに付随する炎上という概念はなかったはずです。

さらに、この舞台では時折出演者が原作の一節をヒップホップ調のような旋律に乗せて歌うことで物語を進めていきます。そのような音楽も宮沢賢治が生きた時代にはなかったでしょう。

終劇後、これらのような原作との明らかな差異によって、僕は原作に対する強烈な興味を抱いていたのです。

そもそも「銀河鉄道の夜」は一体どんな物語なのか、これほどまでに笑える面白い内容なのだろうか、この舞台とどれだけの差異があるのかしら。抑えきれないような知識欲が湧いてきていました。

知識欲に駆られ、僕は帰路で立ち寄った書店で「銀河鉄道の夜」の文庫を購入し、さっそく読み始めました。

読了後、僕が抱いたのは納得感です。なぜこの作品が文学、つまり学問に位置づけられているのか、その所以を痛感したのです。

「銀河鉄道の夜」には、分からないことがあまりにも多すぎる。探求の余地が異常なほどに広大なのです。

この作品は、ジョバンニという少年が親友のカムパネルラと鉄道に乗って銀河を旅する物語でした。これだけは宮沢賢治文学の初心者である僕でも読み取って理解することが出来ました。

しかし、読了後に思い返すと物語の内容以前に、読むこと自体が大変だったという記憶の方が強い存在感を放っています。

この作品、一見するとページ数はそれほど多くないのですが、読了するためには相当の根気が必要です。読み終わるまでかなり苦労しました。どういうことなのか、詳しく述べてみましょう。

まず、僕は宮沢賢治が作品を書いていた時代の文体にあまり馴染みがありませんでした。これは多くの人に共感してもらえると思いますが、現代の我々が一昔前に著された文書を読むと、それは実に独特な文体に見えるはずです。

言葉というものは生き物であり、時代によって少しずつ遣い方や意味合いが変化しているんですね。後の時代を生きる我々が先人達の言葉遣いに馴染みを覚えないのは、人間の営みにおいて極々自然なことだと思います。

そのような時代間の隔たりを常に抱えつつ、時には注釈に目をやって一昔前の言葉を理解しながら読み進めるのは本当に大変でした。

そして、これはあくまで僕個人の感想ですが、原作の「銀河鉄道の夜」は喜劇とは程遠いものだと思います。笑いの追求するような要素は見受けられず、実に難解です。

一般的に「銀河鉄道の夜」は童話作品と言われています。しかし、実際に読んでみるとその通説には違和感を覚えました。あれを童話というにはどうにも無理があると思います。

そもそも童話とは、読解力が発達段階初期にある子どもたちでも理解できるほどに明瞭な内容になっているものです。特に登場人物達の心情や言動はその最たる例ではないでしょうか。

それらの原因・目的・意図を簡単に読み取れる文章になっているからこそ、子どもたちは理解や共感をしやすくなります。その書籍が童話として成立するためには、なによりも分かりやすさが高い水準にあることが必須だと思います。

その観点でこの作品を読むと、あまりに分かりづらい。

登場人物達の心情が変化する原因や言動の意図が文中からごっそり抜け落ちている、あるいは原因と結果に合理性を見出だせないような場面が多々あるように思えてなりません。

合理性を見出だせない場面でさらに言えば、乗客同士の会話はそれが余計に顕著だったと思います。

作中、時折新たな乗客が登場します。その乗客とジョバンニ一行は会話しますが、意思疎通が全く出来ていないような様子がちらほら見受けられます。

まさに宇宙人と会話しているような、あまりに突拍子と脈絡のない答えが返ってくるのです。読み手どころかジョバンニ一行も頭に疑問符を浮かべているようでした。

これらのような場面が多々あることによって、どうして突然そんなことを考えたり、そんな動作をしたり、そんな発言をし始めるのか理解できず、登場人物達に共感出来ないことばかりでした。

これまで多くの作品を読んできましたが、これほど登場人物に共感出来ない作品は初めてだったように思います。そのようなもやもやとした感覚を懐きながら読み進めるのは、もはや苦行と言っても良いほどに辛かったです。

確かに、僕の読解力不足が原因だという指摘があるかもしれません。

僕はどんな文書でも内容を正確に読み取れるような、十二分の読解力が備わっているとは自覚していません。そのため、決してその指摘は否定しません。

しかし、そのような指摘をするのであれば、この作品を読んだ上で実行してほしいとは思います。

この作品を読み、それでもなお同じ指摘ができるのか。僕と同じように、初めてこの作品を一度読んだだけで登場人物の心情や言動を理解し、僕に説明して聞かせることができるという人から納得のいく解説を受けた時、その指摘を真っ当なものとして受け止めます。

さて、仮に「銀河鉄道の夜」が童話ではないならば、小説でしょうか。

小説とは童話よりも高い次元の文章で綴られているのが一般的です。当然その内容を理解するには童話を読む時よりも高い読解力が必要です。

「銀河鉄道の夜」を理解するためには、童話を読む時以上に高い読解力が必要だと思います。であれば小説としての扱いの方が合っているかもしれません。

しかし、小説として読むと別の問題が発生します。恐ろしいほどに退屈なのです。

「銀河鉄道の夜」は題名の壮大さと打って変わって、実はそれほど起伏がない淡薄な内容です。

想像を絶するような展開や後半で最大の謎が解き明かされるようなワクワク・ハラハラ・ドキドキする演出は見受けられません。そして宮沢賢治が想像した宇宙空間の現象が、さもそれが当たり前と言わんばかりに淡々とした文章で書かれています。

少なくとも僕はそのように感じました。

確かに一つ一つの現象は魅力的な幻想でした。しかし、それが淡々とした文章によって表現されていることで、あまりに味気ない平坦なものに感じてしまいます。読んでいても没入出来ず、面白みを感じません。

これには二つの原因があると思います。

第一の原因は上述した時代間の隔たりです。第二の原因は「銀河鉄道の夜」が未完の作品であることです。第一から詳しく述べていきます。

僕は宮沢賢治の死後から約100年が経過した日本に生きています。アニメが大きな一大産業と化した日本であり、人間が乗り物に搭乗して宇宙空間を移動する様子を描いた映像作品が溢れています。そして僕は物心ついた時には既にそのような作品と接点をもっていました。

この感想文における最も顕著な例として「銀河鉄道999」が挙げられます。僕はこのアニメを全話観たことはありませんが、断片的な映像であれば何度も観てきました。

そのおかげで「銀河鉄道」という言葉を聞いて瞬時に宇宙空間を移動する列車を思い浮かべられるようになっています。わざわざ右脳を活用してそれを何もないところから想像する必要はなく、記憶を呼び起こせば事足りるのです。

その他にも「機動戦士ガンダム」シリーズや「宇宙戦艦ヤマト」等が例として挙げられます。特撮作品まで範囲を広げれば、特に平成のウルトラマンシリーズでは人間が航空機に乗って宇宙空間を移動する様子が実写映像として制作されています。

このように、僕に限らず、もはや現代人にとって人間が乗り物に搭乗して宇宙空間を移動するという表現は一般的になっています。

「銀河鉄道の夜」を読むことにおいてそれは弊害でした。宇宙空間を移動する列車を容易に想像できてしまう僕にとって「銀河鉄道の夜」は初めて読むにも関わらず、どこか既視感がある新鮮な作品ではなくなってしまっていたのです。

恐らく、宮沢賢治が生きていた時代の人にとって「銀河鉄道の夜」は、先行する映像がないからこそ、実に新鮮な幻想が盛り込まれた前衛的な作品に写ると思います。

地上を走る鉄道から着想を得て、まさかそれを空に流れる銀河で走らせるとは、あの時代においてどれだけ斬新な発想だったことでしょうか。

そしてそれが淡々とした文章で書かれていて、なおかつ同じ時代を生きる人間として言葉遣いに馴染みがあることから、宮沢賢治が描いた壮大な幻想が非常に読み取りやすいようにすら思えたかもしれません。

それは、僕には絶対に味わえない感動です。

先行する映像が頭に入っている僕には「銀河鉄道の夜」に本来備わっていた前衛さから新鮮な幻想が取り除かれ、淡々とした文章だけが残ったように見えてしまうのだと思います。

第二の原因である「銀河鉄道の夜」が未完の作品であることについても述べていきましょう。この原因分析には僕の考察が含まれています。

なお、僕は宮沢賢治の全作品を読んだことがないため、専門家のように全体を見通した感想や考察を述べることはできません。そのため僕の考察が説得力に不足している可能性は大いにあります。

それでも考えるに、恐らく宮沢賢治はまず思うがままに自分が想像した表現を書き出し、それに後から色々な表現を肉付けして物語を完成させようとしていたのだと思います。そして作品が肉付けされる前に彼は没してしまったのでしょう。

淡々とした文章で書かれているのは、物語の骨組みだけが著されているが故だと思うのです。

登場人物達の心情が変化する原因や言動の意図が抜け落ちているように見えるのは、それが肉付けされる前の段階だからなのかもしれません。

文中に欠損箇所が見受けられるのも、同様の理由ではないでしょうか。作品に目を通してみると、文中に突然〔以下数文字分空白〕や〔以下原稿一枚?なし〕という箇所が出てくるのです。

これらの箇所に何が書かれていたのか、あるいは何が書かれる予定だったのか、どんなに想像しても正解に辿り着くことは出来ません。それを知るのは宮沢賢治だけです。

このように「銀河鉄道の夜」には未完であるが故に分からない点が多々あるのです。

その上さらに「銀河鉄道の夜」を難解なものにしているのが造語です。

ただでさえ分からないことが多くてもやもやしているのに、それでいて「銀河鉄道の夜」には宮沢賢治による造語が数多く取り入れられています。

当然、それらは文字情報です。絵や写真のような視覚情報ではないため、文中に突然出てきた造語の物体がどんな姿をしているのかどうにも理解が追いつかない。

手がかりが少ないが故に想像するのも限界がある。結局、理解も想像も中途半端なまま読み進めていく他ないのです。読書中、僕には常に造語に対する謎が付きまとっていました。

人間とは分からない問題をあまりに多く抱えると好奇心が萎え、面白みを感じなくなって匙を投げたくなる生き物です。僕は「銀河鉄道の夜」を読んでいる間、ずっとこの性質に苛まれていました。

その結果、この作品を退屈な作品と評価してしまうのだと思います。

「銀河鉄道の夜」を童話として読むのは無理がある。しかし、現代人にとっては小説として読むのも厳しい。

一歩引いてみると、これらの見解は「銀河鉄道の夜」には分からないことが多いという根幹で結びついていました。これこそ「銀河鉄道の夜」が文学であることの証だと思います。

理解できないことを理解するために探求し続けるのが学問ならば、なるほど「銀河鉄道の夜」は文学、つまり学問なのだと悟りました。童話や小説でなくとも、文学ではあるのです。

そして、宮沢賢治が書いた公式解説書や「銀河鉄道の夜」の完成版が発見されでもしない限り、この探求に終わりはないのだと思います。


舞台化という表敬

原作を読了し、その感想をまとめた後で舞台「たぶんこれ銀河鉄道の夜」を振り返ってみると、原作や原作者の偉大さを観客に伝えたいという意欲、そして原作に対する敬意を込めた創作に溢れていたように感じます。

どういうことなのか、まずは前者について述べていきます。

原作や原作者の偉大さを観客に伝えたいという意欲、それはなによりも舞台セットから伝わってきました。それは、観客席から見た限りを俯瞰すると下図のように3つの層を為しています。

「たぶんこれ銀河鉄道の夜」劇場簡易俯瞰図

奥では列車の外、つまり観客席と反対側にある窓の風景が描かれます。奥と中間は壁で仕切られており、その壁は車両の側面を表しています。

中間には列車の客席がいくつか据えられています。中間の舞台セットは基本的に車両内の様子を描くことにしか利用されません。

実際に出演者達は中間の客席に座って会話をしたり、奥や手前を車両の外として風景を眺めたりします。

また、中間の両脇には車両の出入り口が設けられています。中間と手前は物理的な壁で仕切られていませんが、たいていの登場人物達はきちんとその出入り口を通って手前と中間を行き来します。

手前はがらんどうであり、デスゲームが繰り広げられる駅や現実世界の描写に用いられます。出演者や移動式の舞台セットが最も活発に動く空間です。

これらのような演出の配慮は、観客にとって非常に易しいものでした。

出演者が手前から中間に移動したら、これから車両内の様子が描かれる。出演者が中間から手前に移動したり登場したりすれば、これからデスゲームや現実世界の様子が描かれる。観客は出演者の移動や立ち位置だけで場面が切り替わったことを瞬時に把握できます。

僕がこれまで観てきた舞台は、セットを大々的に動かすことで場面の切り替えを観客に伝えていました。それに対して「たぶんこれ銀河鉄道の夜」では、出演者の移動や立ち位置だけでそれをやり遂げています。実に巧妙な演出でした。

そしてなにより舞台セットの層構造は、観客に列車そのもの印象付けることにとても効果的です。

手前ががらんどうで、手前と中間を仕切る物理的な壁がない。となると、観客の視界にはほぼ常時中間の舞台セット、つまり車両内の風景があります。

その構造によって観客席も車両の一部と化し、まるで自分も車両の中にいるような、出演者と一緒に銀河鉄道に乗って旅をしているような心地でした。

舞台全体を通して、原作や銀河鉄道という列車の存在を観客に印象付けることに優れています。

これこそが、上述した意欲の表れなのだと思います。

約100年前に銀河を走る列車なんてものを想像した凄さを観客に伝えたいが故に、なによりもまず列車を印象付ける舞台セットが作り上げられたのではないでしょうか。

次に、原作に対する敬意を込めた創作について述べていきます。

そのような創作にはおよそ2つの傾向・種類があると思います。原作を忠実に再現するか、制作者なりの解釈を交えて原作を彷彿とさせる別の作品を生み出すかです。言わずもがな、この舞台は後者でした。

たぶんこれ銀河鉄道の夜」は「銀河鉄道の夜」ではないものの、上述した意欲も相まって、観客に原作への興味を芽生えさせるような工夫が見て取れました。

その一つが、現代ならではの概念をふんだんに取り込んでいたことです。

我々現代人は、SNSや炎上というものを身近に感じながら生きていますよね。そのような観客にとって馴染みのある要素を取り入れることで、この舞台に対して自然な親しみをもてます。

そして悲しいかな、僕は観劇中に安堵すら抱いてしまっていました。

SNSを利用していれば誰でも炎上を経験する危険性はあり、多くの人はそうならないための緊張感を常に感じているはずです。

その反動で、実際に炎上している人を見た時に「自分じゃなくてよかった」という安堵を抱いてしまいます。恥ずかしながら、少なくとも僕はその一人です。

人によっては「炎上してかわいそうにw」という憫笑もあるでしょう。僕もどこか心当たりがあるように思います。

さて、あらすじで述べたように、この舞台にはSNSで炎上して有名になってしまった人物が幾人か登場します。

そのような人達を観客という安全な立場から観ることが出来て、しかもそれが喜劇として扱われているのです。僕が鑑賞中に笑ったのは、喜劇を観ているが故の面白さと炎上してしまった人達に対する安堵や憫笑が混じっていたと思います。

そして恐らく、観客の多くは僕と同じような理由で笑っていたのではないでしょうか。

理解や共感がないものに対して人は笑いません。つまり、多くの観客が笑っていたということは、この舞台に対する理解や共感を生み出されていたということです。

僕は原作の「銀河鉄道の夜」を読んだ時、面白いと感じませんでした。当然、笑いもありません。理解や共感が出来ていなかったことが明らかです。

それに対して「たぶんこれ銀河鉄道の夜」を観たときは思い切り笑いました。理解や共感が出来たからです。そして自然と原作に対する興味を抱いたのです。

このようなある種の実験結果から考えると、僕と同様に「銀河鉄道の夜」を読んだことがない人が「たぶんこれ銀河鉄道の夜」を観れば、舞台に対する理解や共感が助力して、大なり小なり原作に興味を抱くようになると思います。

もしこれが意図的に作り上げられたものなのであれば、恐ろしいほど秀逸な脚本です。

僕が原作に興味をもったのは、この舞台の脚本を担当した上田誠さんの策略にまんまと乗せられたからなのかもしれません。真相は分かりませんが、いずれにせよ宮沢賢治文学への手引きをしてもらったことに感謝しています。

その他にも、田村真佑さんが出演者に選ばれたことも工夫の一つなのだと思います。

彼女は今や国民的アイドルグループとまで言われる乃木坂46の一員です。見た目もさることながら、非常に個性的で可愛らしい声をもっています。

この現実感がありながらも幻想世界を描いている舞台において、彼女の容姿や声はとてもよく映えていました。納得のいく、この上ないほどの適役だったと思います。

彼女を目当てとしている観客はまずこの舞台に興味をもちます。そして、観客によっては鑑賞後にその興味が原作にも到達するでしょう。

また、デスゲームや現実世界への転換等は原作に描かれていない要素です。ちなみにデスゲームによって脱落した乗客の中には、是が非でも銀河鉄道に再度乗車しようと企む人もいます。

僕は、このような要素は「銀河鉄道の夜」の欠損箇所を尊重した創作だと考えています。

確かに原作にそのような描写は見受けられません。しかし、それはあくまでも残された原稿に見受けられないだけです。

上述した通り「銀河鉄道の夜」には欠損箇所があります。そこに何が書かれていたのか、あるいは何が書かれる予定だったのかは誰も分かりません。これこそが創作の余地です。

欠損箇所があって何が書かれるのか分からない以上、そこにどんな創作が行われようとも、絶対にあり得ないものだと否定することは出来ないのです。

そして宮沢賢治が残した数文字分の空白は、後から肉付けされることで原稿用紙数枚分の内容になる可能性は大いにあります。

もしかしたら、ジョバンニ達は停車した駅でデスゲームを繰り広げるかもしれない。本当にもしかしたら、一度下車した乗客がもう一度乗ってくるかもしれない。

本当に本当にもしかしたら、ジョバンニ一行は銀河鉄道に乗るうちに、急に我々の世界にやってきて炎上を経験するかもしれない。

本当に本当に本当にもしかしたら、ジョバンニ一行は妙で独特な拍子に乗って歌い始めたなんて描写があってもおかしくない。

欠損箇所の内容は分からない。分からないから分からないままにしておく。これは尊重の在り方の一つです。そして、分からないから自分なりの解釈を当ててみる。これも尊重の在り方の一つだと思います。

僕の考察では、上田誠さんは原作の欠損箇所を後者の形で尊重したのだと思います。

なるほど、確かにこの舞台は「銀河鉄道の夜」ではないでしょう。代表的な登場人物であるジョバンニやカムパネルラが登場せず、物語が必ずしも忠実に再現されていない以上、原作とは別の作品と捉えられます。

しかし作中には銀河鉄道という有名な列車が登場するし、どこか聞き覚えのある単語が聞こえてくる。しかも、何となく知っているような作品と同じように物語が展開されている。

ああそうか、たぶんこれ銀河鉄道の夜ですね。


まとめ

前提で述べたように、僕はこの舞台を鑑賞するにおいて初めてのことが多かったです。

それに付け加えると、この舞台が上演された紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYAという劇場に足を運ぶのも初めてでした。

中間の静と手前の動が絶妙に入り混じったあの舞台セットを構築する上で、最適な劇場だったと思います。

もちろん、帝国劇場のように広大で派手な演出が出来る劇場も良いのですが、あれくらいに丁度良くこじんまりしている劇場もなかなかどうして悪くない。おかげで出演者の姿や表情がはっきり見えて、上演中は作品に没入することが出来ました。

さて、原作の「銀河鉄道の夜」と「たぶんこれ銀河鉄道の夜」の感想を述べてきましたが、この感想文を執筆している間、上田誠さんが宮沢賢治に敬意を表していることを実感せずにはいられませんでした。

宮沢賢治が世界的にも有名になったのは、原点を生み出したことが理由なのだと思います。

銀河を走る鉄道なんて、あの時代、宮沢賢治以外は誰も想像し得なかったでしょう。今となっては一般的な表現ですが、その原点を生み出した功績は全く色褪せていません。

クリエイターにとって原点を生み出すこと、つまり全く新しい何かを生み出すことがどれほど偉大で凄いのか想像に難くないと思います。

宮沢賢治の途轍もない想像が紙に書かれて残り後世に伝わったからこそ、現代ではそれが一般的な表現になっているのです。たとえ作品を読んでいなくても、我々は宮沢賢治等の先人達が生み出した空想を享受しているんですね。

ちなみに、僕が「銀河鉄道の夜」の欠損箇所を初めて見て創作の余地と捉えた時、思い起こしたのはフェルマーの最終定理です。数学者のフェルマーは、とある論文の余白に下記のような一節を残しています。

私はこのことの真に驚くべき証明を発見したが、それを記すには余白が小さすぎる

フェルマーの最終定理

まるで読者を挑発するような一節ですね。その後、フェルマーはこの証明に関する文書を一切残さずにこの世を去りました。

僕にとって「銀河鉄道の夜」の欠損箇所は、まるで文学版フェルマーの最終定理とでも言えるような神秘的な謎です。

真に素晴らしい物語を想像したが、それを記すには余白や原稿用紙が足りない、なんて一文を発見したような感覚です。そして、それを別紙や空白に書き出す前に宮沢賢治はこの世を去ってしまったのだと思います。

いやはや、探求の終着駅は全く見えてきませんね。

「銀河鉄道の夜」を読み終えた時から、特に欠損箇所に対する探求や創作は否が応にも始まってしまいます。

まるで宮沢賢治から「この空白には何が入ると思う?」というような、解き明かせない魅力的な謎掛けを知らず知らずのうちに与えられた気分です。

ジョバンニがいつの間にかポケットの中にどこまでも行ける切符を持っていたように、その謎掛けは探求や創作の宇宙を旅するために宮沢賢治から与えられた切符なのだと思います。きっとどこまでも進んで行けることでしょう。

以上、【舞台感想文】たぶんこれ銀河鉄道の夜でした!!

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