幸せを望むなら
(心のカタチより)
幸せって何でしょう。
何か美味しいものを食べたから幸せ?
欲しい物がもらえたから幸せ?
好きなひとと一緒だから幸せ?
その幸せとは何なのか。
その大概が”幸せと満足”を同類となっているなら、それは幸せを履き違えているのかも知れない。
結果として、幸せと思えるかも知れないが、それは”幸せになりたい”の願望を満たした満足という感情が思わせている。感情は高ぶりもすれば覚めもする。その感情が冷めた時、はたして幸せは心に残るのか。
たぶん、次の”幸せになりたい”の願望がはじまり、知らず知らず感情に囚われ先の幸せと思ったことを上書きすることに心奪われる。
それが悪いかと言えば悪くはない。ただ、幸せとは何かを自分の”もの”にすることはない。それではこころを幸せで満たすことなく、一時の満足という感情で満たし続ける羽目となる。
ひとの心は幸せという癒やしが必要。その癒やしは幸せとは何かを知ることで、その幸せと自身の心が共感し残される。
自分たちは美味しいもの、欲しい物、楽しい事などの感情をそそる”もの”が多くある。それに心を囚われる事は極普通なことだが、それに心囚われていては本当の幸せを感じることはできない。感情はいずれ覚める”もの”だから。
幸せって何か。
幸せとは母のお腹の中で持たされた”もの”。
※詳しくは心のカタチより『幸せを持たされる』を参考に。
その母のお腹の中で持たされた”もの”とは、『心地よさ』という幸せの基準です。
ひとは産まれてからその基準に戻れるか戻れないかで感情を湧かし活きているのです。人はこころに湧く喜怒哀楽(かんじょう)を使うことで、その基準と共感できるよう戻ろうとするのです。
人は誰しも母から産まれるのです。だから、誰もがこの基準をこころに持つのです。それをこころに湧く感情を誤って使い心囚われ、振り回されれば幸せの基準を見失うことになり戻れなくなります。
もし。母を嫌っていたとしても、それは産まれてからの出来事(かんじょう)で、その基準は誰もが心に持つのです。
幸せって何か。
それを感じれなくして心と共感し得る訳もなく、まして相手がいれば互いの心が共感と知る術もなくすのです。それは自身が良く判っているはずです。心に”不安(かんじょう)”が湧くのはそんな理由だからです。
本来、ひとは”心地よさ”を感じれれば十分なのです。
本来、お互いに”心地よさ”を感じ合えれば十分なのです。
それ以上を望むのは決して悪いことではありませんが、その感情を上手く扱えなければ、その”心地よさ”を無にしてしまいます。
”幸せを望むなら”、まず自身の心と幸せを共感できなければなりません。こころが持つ”心地よさ”という幸せの基準を知るのです。
誰かと”幸せを望むなら”、自身の心と共感し得てから、そのこころを持って相手の心と共感するのです。
そして、それには相手の心から自分と同じ”心地よさ”を引き出すことが必要です。ひとは唯一こころに同じ幸せの基準を持ってます。その基準となる”心地よさ”を相手と共感させるだけで良いのです。
ただ、その際は感情を添えると共感し得る”もの”も出来なくなりますので注意してください。
”幸せを望むなら”、幸せの基準となる『心地よさ』を感じるだけで出来るのです。
追伸。
ここでお話した”幸せの基準”を心のカタチでは『こころの価値』と云っております。過去のお話や今後のお話でも良く見る言葉ですので、記憶していただくとブレず参考していただけることと思います。
いつも心のカタチを読んでいただき。感謝です。
語りべ ぽち☆
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