ぽち☆

ぽち☆は医者でもなければセラピストでもない。人は好きだが喋るのが下手。困ったもんだ。た…

ぽち☆

ぽち☆は医者でもなければセラピストでもない。人は好きだが喋るのが下手。困ったもんだ。ただ。若い頃から自身の心と言動の矛盾に悩まされ、1つの答えを見つけた話をいたします。ご興味ある方はお付き合いいただけたら嬉しく思います。たぶん。得るものはあるんじゃなあでしょうか。

マガジン

  • こころの治癒

    今回は”こころの治癒”について、幾つかのお話をしてみました。その話は自身や身近に”こころの治癒”を望むひとへの参考になればと想います。人は”心を知らない”ことが心の病をつくり出し、答えのない感情に囚われてしまうのです。その感情からこころを開放するには本音である”気持ちのままに”いられることが大切となります。本音でいることの難しさはあっても、それをするのかしないのかは自分が選べれるのです。まずは心を少しでも知って感情を紐解くことからはじめましょう。それがこころの治癒を促します。

  • こころを病(やま)すということ

    何故、人はこころを病(やま)すのか。それは、心のことを然程習ってないことにはじまる。 人は心を知っているようで実は心を知らない。それは心という字とその意味を辞書で知ったぐらいで心を知っているとは到底言えない。 ただ、一つだけ良く知ることがある。それは”幸せになりたい”と思っていること。それだけを知っていれば、こころの病は解けだす。 「今、幸せに感じないから」 それが自身の心に反し感情を湧かす理由とさせる。その理由が深くなれば深くなるほど、心に負担する。 病は気から。 これに効くクスリは「いつも気持ちのままに」いること。 ここでは、心のカタチ的にお話します。それが正しいか正しくないかは、自分しだいです。 要は自分がそう思うか間違っていると思うのか。それとも自分はこう思うと解釈するのか。それは自由です。自身が気持ちのままに納得することが”こころによく効く”ということです。

  • いつも気持ちのままに

    自分たちはよく感情に振り回されている。それは心を然程(さほど)知らないから、自身のこころがブレ易く不安定な状態にあるからである。 そんなこころと向き合うには自身のこころを知り、そのこころを自分のために使えるようになることが大切になる。 そのために忘れてはならないことがある。 それが『いつも気持ちのままに』。 これには、多大な人との関係があってこそ、その価値を感じ得ることができる。それは人のこころと云う鏡に映し出された自分自身を知り得ることで判る。 人は自分(こころ)を良く知っていると言う。だが、心のあるところや心のカタチさえも知らず、何を思って知るというのか。 きっと、それは「人は独りでは活きられない」とこころでは解っているから、そうでありたいという思いがそう言わせている。 ここではそんなお話をしてみます。

  • 心のカタチ

    自分たちは心を持っている。ただし、その心のことをよくは知らない。それは、心が何処にあり、どんなカタチをしているか知らないからはじまる。 自分では心を知っていると思っている。ただ、本当に知っているのかを知らない。それもそのはず心をよく分かってないから知っているとも知っていないとも言える。 では、誰が心を知っているのか。専門医の先生、セラピストの方々、六法全書を書かれている人。その人たちに心とは何かを聞けば、いろいろと説明してくれるだろう。ただ、その方たちにきょうつするのは、心が何処にあり、どんなカタチをしているか。言えない。 それは自分も同じ。 ここではそんなこころを知るキッカケとなればとお話します。

  • 心のカタチ - いつも気持ちのままに

    自分たちは心を知っているようで実は知らない。 それは漢字とその意味ぐらいしか習った記憶がないことに始まる。今、自分の心に振り回されるのは心を知らないがため感情の虜となることで起こさせる。心を知らないことが多大に影響するとも知らずに。心とは何か。心は”ある”と誰もが言うがその心のあるところもカタチさえも知らない自分たち。自身はその心を使うどころか、心に振り回され使われてしまってもいる。心を知らないとはそう云うこと。 それでも。 自分たちには「幸せになりたい」といつも思う心がある。 自分たちには幸せになる権利があるからそう思う。その権利を使うには気持ちのままになることが大切になる。それは心を感じることででき、そして、その幸せを感じる心を知らなければできない。 幸せを感じる心とは何処にあるのか。 心のカタチはそれを紐解きだす。 『いつも気持ちのままに』 心を自分のものにする言葉となる。

最近の記事

  • 固定された記事

こころは悩む”もの” - こころの治癒①

(心のカタチより) 皆さんこんにちわ。 ぽち☆いいます。私の話を読んでいただいている方々に感謝いたします。スキやフォローをいただいた方にとても感謝しお礼を申し上げます。その感謝を込めてスキを多くいただいた以前のnote『こころの治癒』のマガジンを綴ることにします。 このマガジンは、今までの数々の話を基に悩みや心の病を持たれる方・お近くにそのような方がいらっしゃる方に知っておいてほしい話になります。 この話はぽち☆の経験からではありますが、20数年にわたり複数の方と接し”

    • 今より後のことのこと

      ぽち☆です。 今年はじめに「今より後のこと」を書かせていただきました。もし、記憶などない方は下記も読んでいただければと思います。 あの時は会社員でしたが、今はフリーしてます。こころもフリーに。 また、あれから時間が経ち事が進みましたので、また私事の話をします。 しばしお付き合いいただければ幸いです。 以前「やりたいことは決めており、それをどうやって幸せに結びつけていくかが今後の自分への課題」と云いました。その課題を熟しつつ、幸せを感じながら一歩を踏み出しております。ただ、

      • ひとは完璧じゃないから楽しめる

        ひとは完璧じゃないから楽しめる 楽しみ方はひとそれぞれ ただし その楽しみの先には 必ず幸せだろう未来があるから楽しめるのです ひとのこころはいつも ふたつの選択ができる楽しみがある ただ、それをこうしないとダメとか こうしないと幸せにならないなどと 一つの選択に執着すればその未来を最悪にもしてしまう ひとはふたつの選択ができる それは他のやることを探すのではなく そうするか そうしないか そのふたつの選択がいつもあることにある その未来ひとつに執着すれば そうなら

        • ひとは完璧じゃないからひとなのです

          ひとは完璧じゃないから ひとなのかも知れませんね。 完璧じゃないから 喜怒哀楽が湧くこころがあり そのこころにある気持ちが 幸せにも不幸にも感じれる ひとは誰もが幸せになりたいと 思ってます だから、幸せになりたい思い(かんじょう)が 幸せとなるためのこころのパワーを湧かせるのです 不幸だから何。 幸せだから何。 完璧じゃないから こころが湧かす感情で 楽しめると気づかないとイケないのです 要は未来(じんせい)を 楽しむか楽しまないかは自分次第だったのです それが

        • 固定された記事

        こころは悩む”もの” - こころの治癒①

        マガジン

        • こころの治癒
          20本
        • こころを病(やま)すということ
          6本
        • いつも気持ちのままに
          6本
        • 心のカタチ
          5本
        • 心のカタチ - いつも気持ちのままに
          5本
        • こころのおはなし
          5本

        記事

          変換器なこころ

          ひとは心に感情と気持ちを持っている その感情は誰もが知る喜怒哀楽となる感情だ ただ、気持ちは何かと問えば感情と同一に考える人が多々いる ぽち☆が話す心のカタチでは気持ちは感情を湧かす”もの”としてある それは、唯一心の中心にある自分自身となる”もの”であり その”もの”があるから喜怒哀楽とさまざまな感情を湧かすことが出来る 例えば、ひとには「幸せになりたい」思いがあり、 不幸になりたい人はひとりもいない それは何故かというと幸せは自分のためになると心の中心に育まれ記憶

          変換器なこころ

          恋のチカラと愛のチカラ

          ひとは独りでは活きられない そこには、恋のチカラや愛のチカラが湧く時がある それらチカラは時にこころの距離を犯してしまいもする それはこころを知らないから仕方なくもあるが ひとはそう望んでないのも分かっている そもそも、恋とはなんぞや そもそも、愛とはなんぞや それさえも恋や愛の感情をまんま感情として扱えば 結果はこころ(きもち)とは違う結果をもたらす それが「こころの距離を犯してしまう」ということだ 恋 以前も「心のカタチ」で書いたことがあるが 恋は「亦(また)」

          恋のチカラと愛のチカラ

          人だから弱さもある。だから。

          人は自信のないことに感情を湧かす。 それは、自分が進むべき道を阻むことになる。 そんな時、誰かに手を引かれ、誰かに背を押してもらい進みもできるが、 必要なのは自分の意思がそれに伴うかが大切となる。 たまたま、上手く行ったとしてもそれは偶然なのかも知れないし、 誰かにより先が保証されていたことに歩めただけかも知れない。 それが悪いとは言わないが、それではいつも誰かの支えがなければという条件を心に生み出す。それは。 自転車の補助輪がいつも倒れないという安心を与え、 いつま

          人だから弱さもある。だから。

          こころのほっぷすてっぷじゃんぷ

          ひとのこころには感情がある。 その感情をどう使うかで未来が変わる。 何かをこれからやり遂げたいとき、どのようにこころを使うかと云うことです。 何かをやり遂げたい。 あなたならどんな事をやりたいですか? そのやりたいことには自分だけでできることもあれば、周りのひとを巻き込みやることもあるでしょう。そんなやりたいことに対し、自分はどう思っているかです。 何も考えず行動に起こす人もいれば、考えに考えて事を進める人もいるでしょう。そのやりたいことの大変さによってもそれに対する

          こころのほっぷすてっぷじゃんぷ

          今より後のこと

          少し私事のことをお話します。 後2日を残し新たなことへ進みます。それにはどんな事が待ち構えているかは到底想像できません。ただ、想像はできなくても残りの人生を築き上げることはできると感じてます。 それは、まちがいなく幸せになるために今より後のことを考え実行していく事になります。考えると云っても既にやりたいことは決めており、それをどうやって幸せに結びつけていくかが今後の自分への課題です。 その課題に向かうにあたり、考えるの扱い方を間違えれば、その結果は思いのようにはならないで

          今より後のこと

          こころの除夜の鐘

          ゴーン!ひとつ こころにしみる鐘の音 ゴーン!ふたつ どのこころにしみるのか ゴーン!みっつ 自分のこころに響くのさ ゴーン!よっつ 自分の胸のあたりに響くのか ゴーン!いつつ それとも、自分の頭に響くのか ゴーン!むっつ どちらにしても心地よい響き ゴーン!ななつ ただ、その響きも時間とともに消えていく ゴーン!やっつ 時間は自分の味方なのか ゴーン!ここのつ はてさて、敵なのか ゴーン!とう 時とともに消えゆくのは心地よいとは言えない ゴーン!じゅうい

          こころの除夜の鐘

          コミュニケーションと心

          物事には、幸せを感じる出来事とそうではない出来事がある。誰もがその幸せを感じれる方を望むと判りもする。それは、誰もが”幸せになりたい”と心で望んでいる事にあり、その思いと物事が共感してこそ幸せを感じる。それは赤子でも判っている。 ただ。 その出来事には多分に相手(ひと)が関わってくる。そこにはコミュニケーションが必要となり、その出来事を複雑化させている。 それは出来事により感情を湧かす事でそうなる。 コミュニケーションを日本語にすると「意思疎通」と言う。その意味を辞書

          コミュニケーションと心

          笑顔のために出来ること

          人のこころには幸せな記憶とそうでない記憶がある。その記憶のどちらが好きかは決まっている。それをどう自身の心から引き出すかを解っているようで知らなかったなら。。。 前回、『気づきとこころ』というお話をしました。 その「気づき」には2つの気づきがあり、その1つが”自分で気づく”、もう1つが”人に気づかせてもらう”でした。ただ、その”気づき”は結果、どちらも自分の心を一旦止めて、触れる”もの”に気づくためにあったのです。もし、まだ読まれてない方は下記を読んでいただき、この話の続き

          笑顔のために出来ること

          気づきとこころ

          ”気づき”には、気づき方が2つある。 1つは、自分で気づく もう一つが、人に気づかせてもらう 前回、『こころを育む』というお話をしました。 その中で「気づき」の大切さと”こころの余裕”と云う「1」をつくる話でした。もし、まだ読まれてない方は下記を読んでいただき、この話の続きをご覧ください。 この2つは、極当たり前なことことですが、それにはその気づき方がとても大事となります。例えば、自分たちは感情的になると今の自分が幸せかどうかなんて知る余裕を失います。自ずと”気づき”さえ

          気づきとこころ

          こころを育む

          前回、『こころの訓練』というお話をしました。 もし、まだ読まれてない方は下記を読んでいただき、この話の続きをご覧ください。 人の心とは、よく平穏を見失うもの。何かが自身に起きるとその事により心が動揺し平穏な心を保てなくなる。それは、時として心休まれない動揺にもなり病すことさえもある。その原因とは自身の心であり、平穏に戻る術を見失う事でそうせざる負えなくさせる。 「こころの訓練」の話では、鼓動を感じる事を話しました。その鼓動を感じる事こそ、我にかえる術だからです。 平穏と

          こころを育む

          こころの訓練

          前回、『こころの回復』というお話をしました。 もし、まだ読まれてない方は下記を読んでいただき、この話の続きをご覧ください。 この”こころの回復”は人が人生を歩むのに、悩み・辛くもなり心を病す人やそんな方が身近にいる人の参考となるはずです。それは”こころを知る”からこそ、その術を扱えると云うことです。 ぽち☆のお話はどれもこれも、ちと読みにくいものばかりですが、大切なのは回復させる心を知り、その心を”もの”として扱えるようになることです。その”もの”を知らずして、どうやって

          こころの訓練

          こころの回復

          ひとは心を悩ますとそれを解消したくもなる。 何故かといえば悩みたくないから。 何故かというと自身の心が辛いから。 そんな悩みが増してくるとその心を病ます人も中にはいる。なりたくてなったのではない病に。 だから、こうも考える。 それを回復したいと。 回復を辞書で検索するとこう書いてあった。 回復(ちゆ) そこに書かれる「悪い状態になったもの」の”もの”をここでは心とする。悩んでいる心を回復させるため「もとの状態に戻す」ということです。 では、この”もと(の状態)”と

          こころの回復