コミュニケーションと心
物事には、幸せを感じる出来事とそうではない出来事がある。誰もがその幸せを感じれる方を望むと判りもする。それは、誰もが”幸せになりたい”と心で望んでいる事にあり、その思いと物事が共感してこそ幸せを感じる。それは赤子でも判っている。
ただ。
その出来事には多分に相手(ひと)が関わってくる。そこにはコミュニケーションが必要となり、その出来事を複雑化させている。
それは出来事により感情を湧かす事でそうなる。
コミュニケーションを日本語にすると「意思疎通」と言う。その意味を辞書で調べてみるとこんな説明がありました。
このような意思疎通をコミュニケーションと言うそうです。
では、そのコミュニケーションはどのように行われるのか。大概は自身の考えていることと相手の考えていることを伝え合うことで理解を深め、認識を共有することをしている。。。。。はず。
このように言葉にすると誰もが分かりもなるが、それが本当に出来ているかは別ごととなる。それを先の言葉のように分かっているように思えても、実際にはまったく理解に辿りつけてないからである。それは心のリスクとなり感情を湧かさせる。
意見の固着
人はコミュニケーションをする時、自身の経験や本屋ネット等で得た情報を活かし、建設的な会話をする人と自分の意見を言いたい人がいる。後者は意思疎通とはほど遠い事が判る。
前者は双方が建設的に考えを伝えることで成り立ち、理解を得ることができる。と、誰もが判る。だが、それは「同じ目的を見失わず」に会話した時にだけ辿りつける。
”同じ目的を見失わず”とは、感情を湧かさずに会話し合える人どおしに限りできる。これが3人、4人と人が増えれば更に同じ目的を見失うリスクが増す。
その理由が「意見の固着」である。
判りやすく言い換えると『自分は正しい』が独りでもいると会話が破綻する。
その”自分は正しい”と思う事態が感情そのものであり、知らず知らず感情の押し売りが始まる。その感情は感染しやすい。
先程から”同じ目的”と云ってはいるが、この同じ目的を皆さまがどう想うか。
目的を何にしているかです?
目的といえば何かを達成する事と考え、それを目的”と皆さまはしてませんか。
それは正しくもあり、こころの意思疎通で云うならそれではまだ誤っているのです。単に事を達成するのであればそれでも悪くはないが、こころもそれに執着すれば、意見は固着し感情が湧きだす。
目的はちがうところにある
人は意見に対立が起きるといとも簡単に感情を湧す。湧かすだけならまだマシだが、その湧いた感情のキャッチボールをしだすから手に負えない。
そもそも、目的が違うところにあるから、求める目的が違えば語気も強くなり互いに収まりどころを見失う。その”収まりどころ”が本来の目的がそこにある。
しかし、互いにコミュニケーションをするのではなく、感情のキャッチボールが始まれば同じ目的を遠の昔に忘れさっている。まぁ、仕事関係どおしなら言葉を選びもするが、心は怒り(かんじょう)に囚われ発している。それは表情を見れば一目瞭然。
そもそも、目的が違うところにあると知らずに会話する事から始まっている。
はてさて、本来の目的とは何なのか。
例えば、仕事などであれば「やらないとイケないこと」は決まっている。それを目的とする人は多いだろう。それを目的とすれば、やったことに出来た出来てないと判るからだ。ただ、そんな関係は皆さまも経験した意見の衝突に見舞われ意思疎通以前となる。
それは、本来大切にすべき目的が違うところにあると、自身が知らずに今まで活きてきたことに理由がある。それはどんな物事にも幸せを感じる出来事とそうではない出来事があると云うこと。
こころを無視したコミュニケーション、意思疎通は偽りの感情と言うこと。
互いに考えていることを伝える事も大切
理解を得る事も大切
認識を共有する事も大切
だが、そこに自身のこころ、相手のこころ。
そこに幸せを感じる出来事とできなければ、偽りのコミュニケーションとなる。
互いに幸せを感じれなければ”納得”はありえないのです。
おもてなし
日本には『おもてなし』という言葉があります。
これは旅館などに泊まる際によく使われる言葉です。その”おもてなし”は、世間一般的に泊まる方がおもてなしを受けると思われているが、実際、そうなのだろうか。
日本では特にその質を熟す事に尽くしており、お客樣をもてなすことをしているのは確かです。そうであっても、そのもてなしに「お」が付く意味が本来の目的はちがうところにあるのです。
もてなしを受けると自分だったらどう思われますか。どんなに高級な旅館などでも「もてなし」ひとつで二度と来たくもなくなる事はあります。その理由は”幸せを感じれず”残念な思いで帰ることでそう思わずにはいられなくなるからです。
だが、1つ勘違いしてないだろうか。
お金を払って泊まってやるのだから”もてなし”は当たり前。その”もてなし”に幸せを感じれないならお金を払って損(ふこう)したと思ってませんか。
それでは日本の大切なこころ、「お」の付く意味を見失って当たり前です。
「お・もてなし」は誰にするものか。
ひとはどこまで行っても”平等”であることが大切であり、必要なのです。その平等とはどんなに金持ちでもどんなに凄い人でも、こころの価値は平等(おなじ)には変わりないのです。そのこころを無視して自身の”意見に固着”すれば、意思疎通などできるはずもなく、もてなされる権利も失います。
旅館などの人たちも顔に出さなくても「明日には去る人」と感情で抑え苦笑いで接しもするのです。
言葉には出さない偽りのもてなしをお・互いに仕出し合いつまらなくてしまいます。旅館を例にしましたが他の仕事でもよくある事です。それはプライベートでもよくある事なのではないでしょうか。
どちらかが我慢し、言葉上手な人が言い負かす劣等感(かんじょう)に慕っていたりもします。それはどちらかではなくお互いに感情で抑している結果です。
「お」
お・もてなしの「お」はお互いの”お”です。
旅館などに泊まる人もそこに泊まる人もひとなのです。
その人どうしの平等が”もてなし”合うことで『お(互い)・もてなし』となります。単にお金払う側と宿泊サービスをする側と立場(やくめ)が違うだけで、こころは幸せを感じ合おうとする目的があるはずです。それを「業」として立場が生じているだけなのです。
お金をもらうのが幸せと思うのも自由です。それの対価として”もてなし”を受けるのも自由です。それはそれで良いのですが「また、行きたい」と思う人は互いの幸せを感じた時にこそ、そう思いまた泊まりにくるのではないでしょうか。
ひとはどんな状態であっても平等なこころが大切です。先にも云いましたが誰にでも心はあります。その心の価値は「平等」な状態でいる事です。平等であることが幸せを感じる余裕もあれば、共感もでき共有もでき幸せを感じ合えるのです。
その心を使って人は人と意思疎通を図れるのです。幸せを感じつつ、互いの経験した知識を更に共有することで、またその1つ上となる平等で幸せを深めます。その心を持って”本当の目的”ができ、人が『聞く耳(こころ)』を使うのです。
一旦、感情が湧くとその耳を見失います。どんなに丁寧に説明したとしても、お互いの聞く耳がなければ意思疎通はできるはずもないのです。幾らコミュニケーションを取ろうとしても出来ないのにはそんな理由があります。
「お」はとても大切と云うことですね。
一呼吸
もともと、人は赤の他人です。
血を受け継いだ子(ひと)であっても、この世に産まれることで赤の他人となるのです。少し寂しい云い方ですが、そう思うことの大切さもあるのです。
家族だからと言って、喧嘩をしないとは限りません。それは、自分と違う人だから喧嘩もするのです。人は人とコミュニケーションをして活きている限り上手い下手は関係なく、コミュニケーションをしながら活きるのです。それは赤ちゃんであっても同じです。喧嘩こそしませんが、泣いて怒って意志を伝えようとしているのです。
産まれてしまえば赤の他人なのです。だから、喜怒哀楽(かんじょう)を人にブツケれる権利を持てるのです。その権利を使う人のみ自身のこころ、相手のこころを知り得ます。ひとはこころなくして意思疎通はできないのです。
ただ、それら感情に自分自身が囚われてしまうとその感情を上手く扱えなくなります。その結果は喧嘩など、こころの平等を無視した罵り合いになります。
ひとは本来、そんな罵り合いを望んではいません。本来、ひとは幸せになることを望んでおり、そんな時だからこそできることを1つ残しております。
それは、一呼吸ついて謝ることです。
その謝りは謝罪する意味ではなく、お互いの感情を落ち着かすための一呼吸です。
それができる人は凄いのです。
それができずこころの平等を更に崩すことを選ぶ人は、人とは違うものへと化しているとも言えます。
相手が謝ることが当たり前と「意見の固着」するばかりでは、意思疎通の本当の目的(いみ)を知る由もないのです。一呼吸はどちらがやっても良いのです。事を解消するればそれが正しいのです。
そして、その勇気を持つものだけがコミュニケーションの大切さを知り得る者たちですね。
コミュニケーションとは、お互いの考えの相違を理解し認識してこそ、お互いの同じ目的となる幸せを共有することで成り立ちます。
(心のカタチより)
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