誰かが作ったものに乗っかるのは、楽なようで苦しい。 それは私の性分だろう。 ただ自分の思考には限界があり、一人でできないことも多い。 それをどうするか? 今あるものに依存しないことも考えてかなければならないときがきた。 新しい扉は開いた。その先にあるものは、まだゼロ。 だけど、それぞれの場所で、今度はパートナーシップをとって向き合えば、 加速するのかもしれない。 限りある時間は、誰かと進めることで増やすことができる。
承認欲求という言葉は、SNSとともに多くの人に語られるようなった言葉。 どう生きたいかは、自分で決めることなのに、自分で決めることを放棄し、誰かがしているから私もと思ってしまう。 そして、そこで場所取り合戦が行われる。ネット上でなくても、私たちは場所取り合戦をして生きている。学校、仕事、結婚などなど、すべてが場所取り合戦だ。 しかし、望まなければわざわざ報告せずに生きてきた。いや、生きてこれた。しかし、多くの人がSNSという手軽なツールで報告するようになり、報告したい、し
爽快さが1㎜もない夏の中でうだる。 暑さ、大量の雨、解決されないウィルス。 不意打ちの雷鳴。 そんなことも当たり前なのか? かつて夏休みは楽しいものだった。 しかし、今は過酷だ。 そして、こんな不平等な暮らしのなかで、こんなことだけが誰もに等しく平等に降りかかる。
どうやら今を長く続けてしまった自分を感じるこの頃。 コロナ禍や争い、未知の未来。 「いつか」なんて妄想だとは思っていたけれど、よりリアルに。 この場所に長く居すぎたような気がする。 小さな変化は自力でできても大きな変化は、他者の力も必要なのかもしれない。でも、自分でできることも。 これからどう生きるかが、これまでどう生きたかの結果であって、欲するものを手にするための努力を惜しまないことを、新たに。 他力本願もありだ。これまでと言ってることちがっちゃっているとしても、それ
生きることは泥臭い。世の中は泥臭い。 SNSで語られるキラキラや良いことやってますは、現実だとしても、それだけで生きている人っているのかな? と思う。 そして、それが理想とか格好いいとかなんて微塵も思わない。 綺麗事だけで生きるなんてできない。生きることは闘いだ。 明日が来ることは奇跡だ。 SNSは、苦しい叫びを伝える場所でもある。 助けを求める場所でもある。 それを受け止める場所でもある。 自らのことを実名で発信することを、減らした。 過去の投稿もほぼ消した。 この
大して大きくもない丸い場所で、戦いが起きてしまった。 争いは、自己顕示欲か? 戦いの目的は何か? 悲しみ苦しむ人がいても、終わらない。 丸く端を作らないために作られたのに、いつも誰かがはみ出し、攻められる。 神の意図を無視した僕らは、いつか報復を受ける。 その覚悟はあるのか。
現実すぎて、言葉にできない。 僕は臆病者だ。 平和ボケだ。 なぜひとつの星に仕切りをつくったのか? 神は何を望んだのか? ひとつになれないまま、正義という名の主張で戦いは起こる。 反対を叫ぶ人は、安全な場所にいる。 僕も安全な場所で息を潜める。 卑怯な人間 #存在の奇跡
何を大切にするか? を問われる時代になった。 誰かと同じであることに意味のない時代になった。 何かひとつでいい、これは譲れないモノがあるだけで、人は自分を肯定できる。 そんな風に思っている。 自由に動けないからこそ、他者評価でなく、自己評価で生きたい。 #存在の奇跡
多くの人が、未来を予測する。 とても論理的に。 ただ先が見えないのが未来。 予測されたものに怯える必要はないのかな、と思ったり。 人生100年時代にも100年生きる人もいればそうでない人もいる。 2000万円問題も、数字に縛られて今を楽しめないなら、永遠に苦しい。 日本沈没だってないとは言えない。 日本の紙幣は紙切れになることもなくはない。 そもそも、地球の存在も確実なんて言えない。 とても偏った、バイアスだらけの発言だけど、「今」をどう生きるかの連続が未来なんだと。
ふとあたまに浮かぶことでモノゴトを決めることがある。 意思のある継続だと思っていたことが、惰性になっているのでは、と思った日。 太陽が暑く輝く時期に、手放そうと決めた。 どう準備して、どう伝えて、どう終えるか。 手放さないと、安穏としてしまう恐怖。 好きだけど、続けてはいけないこともある。 得るものを得たら、潔く去るべき場所がある。 現状維持の良い面と悪い面。 放っておくと、続けてしまいそう。それは意思のある継続ではない。 すでに数字と経験として語れるだけのことはした。
新年早々、関わってはいけないものが来た。 以前なら、どうするか考えたけれど、もう考えることもなく、 正直に伝える。 そして、忘れる。 2022年は、関わってはいけないものには関わらない。 自分を守るため。時間を守るため。
決めたわけではないけれど、綺麗事を言わなくなった2021年。 気付けば体に染みついている。 誰かのの顔色をうかがうことのむなしさや、 誰かの言葉に従うことの無意味さを、 嫌というほど、味わって。 噛んだ砂。 特に感慨もなく、 昨日や1週間前や1ヶ月前と同じように、 書き仕事をしながら、苦し楽しく言葉を探す。 おそらく絶対に奪われたくないものなのだ、と知った。 もう我儘にしてもいいでしょう。 もう無駄な我慢はしなくていいでしょう。 今を続ける楽さを数年やったから、また変
卑しい自分を見るとき。 頭で分かっていても、心は反応する。 まだまだ遠い、悟りの道。 いや、悟るつもりはなくても。 誰かのいいことを羨むのは、当たり前のことでも、 自分のなかに見る下劣な心が、本音なのだと分かる。 だから、この情報時代に情報から離れようとしている。 1ヶ月以上かけて、手を伸ばしすぎたものたちを丁寧に手放し。 やっとザワザワが少し減った。 それでも、不意に目にする誰かの成功を妬む自分がいる。 けっして、それを言葉にしない自分がまた、低俗過ぎて嫌になる。
自ら発信できる場が増え、誰もが自分の良い面だけを盛大にアピールする時代。 だけど、それを見たい人は、ほんの僅か。 それでも承認を求めて、人は発信を止めない。 目立つために時に偽りを交える。 毎日増えていくチャンネルやアカウント。誰の審査も得ない無法地帯。 そんな場所からは距離を置きたい。 静かに暮らしたい。そっと。 本当に必要とされる場面以外は。 仙人にはなれないけれど、バカみたいに騒ぎたくもない。 誰かの真似た言葉でカリスマぶっているちやほやされて、嬉しいの? その代償
100%の客観はなく、 ニュースさえも、バイアスがかかった情報が流れる。 歪んだ情報、増えすぎた情報の海で、溺れる必要などない。 僕らはいつからこんなにも自分を信じられなくなったんだろう? 知らない誰かからの評価や承認など、どんな意味があるのだろう? 共感してくれる人がいるのは、嬉しいことかもしれないけれど、 共感してくれる人がいなくても、自分の思いは自分で守りたい。 正誤と他人に委ねるのは生きるのを放棄しているよう。 正義や正しさやあり方は、人の数だけあって、 時にそ
SNSは便利以上に、キツイもの。 それが今、思っていることです。 ここにはチャンスもあるけれど、ストレスもある。 そして、情報もあるけれど、大切なものを見失う原因もある。 定期的にすべてを辞めたくなる。 仕事柄、難しいことは分かっているけれど、個人的なことは極力減らしてきた。 可能な範囲で手放して、時間を生み出した。 といいつつ、ここに書いている時点で、辞められていない。 ただひとつ増えたのは、書くことでの満足。投稿は投稿せずに削除。 結局言葉にしたいだけなんだ。 昔は