存在の意味。どんな存在でありたいか?を考えるのは傲慢なのか?
承認欲求という言葉は、SNSとともに多くの人に語られるようなった言葉。
どう生きたいかは、自分で決めることなのに、自分で決めることを放棄し、誰かがしているから私もと思ってしまう。
そして、そこで場所取り合戦が行われる。ネット上でなくても、私たちは場所取り合戦をして生きている。学校、仕事、結婚などなど、すべてが場所取り合戦だ。
しかし、望まなければわざわざ報告せずに生きてきた。いや、生きてこれた。しかし、多くの人がSNSという手軽なツールで報告するようになり、報告したい、したくないさえ考えず、報告してしまう時代になった。
息を潜めて暮らすのが、難しくなった時代ともいえるかもしれない。そして、自分で決めることを放棄しやすくなった時代。
調べなくてもプッシュされてくる情報だけで溺れるほどの量になる。しかし、その情報は大きなバイヤスが掛かっていて、自分で調べたものではないことにさえ気づかない。
詐欺すれすれのビジネスが横行し、お金がほしいと思った瞬間その罠に堕ちる、秒とかからない。そして、その罠から抜けることは難しい。日本人は「NO」をいうのが苦手だから。
そして、その罠を用意した人もまた、誰が作った罠にはまって、取り戻すために自分で作った罠を仕掛けている。自分の失敗を誰かの足を引っ張って取り戻そうとしているかのよう。いつか儲かるかもという思考で依存するギャンブルのようだ。
以前からあった、セミナージプシー。自己啓発という言葉が、昔から嫌いだ。自己啓発セミナーブームが始まった頃、多くの人がその渦に巻き込まれていった。誘われている友人を見ていた。なぜか私は誘われなかった。時を同じくして、ネットワークビジネスも盛んだった。これは、誘われたけれど、NOと告げた。NOを告げた回数は1回ではなく、5回以上あった。同じものもあったし、違うものもあった。短期派遣で行った企業はは、そんな会社の事務所みたいなところだった。そこの社員の人たちは誰もその商品を使っていなかった。現実を見て、納得した。
さて、「どんな存在でありたいか?」を、昨日あたりからずっと考えている。というか頭から離れず、仕事の原稿か書けない。自分はどうありたいのか?を見失ったような感じ。
たぶん、この思考は時々必要になる。自分の本当の意志を確認するために。きっと時々やってきているのだけど、今回はちょっと分かりやすくやってきた。
で、思った。そもそも生きているだけで丸儲けなのに、どう在りたいか?なんて考えるなんて、傲慢ではないか?と
承認欲求によって苦しむ人たち。
自己顕示欲に溺れる人たち。
事故肯定感という言葉に責められる人たち。
他者視点なんて糞くらえだ。
と言いながら、他者視点でしか存在を確認できない社会。
自分らしさは、他者が決めるものと言い張っていた自分を思い出す。
ただ「自分らしさ」探しをしている人を狙っているたくさんの悪い人がいる。つけ込む人がいる。オレオレ詐欺同様、待ち構えている。
「何者かになれる」煽ってくる人がいる。
何者かになりたいのかどうか? さえ考える時間を与えない人たちに巻き込まれないように、自分にとって大切なものを自分の頭で考えたい。
在りたい自分を、自分で考えない人たちは、在りたい自分にはなれない人だから。