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生駒の神仏「磐船神社」*府民の森(くろんど園地→ほしだ園地)〜天野川、私市駅『交野.2』

2024年6月29日 
JR学研都市線「河内磐船」駅から
竜王山を経て、くろんど園地までは
前回の記事『交野.1』に

休憩所から
少し歩いて


くろんど園地を出て、
磐船神社へは
ゴルフ場の中を通る。
12:20

ハイキングコースの
案内はあるが

途中、
ゴルフ場施設の
入り口からは
車道が続く。

コースが
正しいが
不安だったが

くろんど園地から
同じコースを
歩いている
慣れていそうな
ハイカーと、
男女のトレランの人が
いたので
少し安心。


しばらく
単調な
アスファルト道を
歩く。


やがて案内あり
168号線を横断。

橋を渡る途中、
2人組のハイカーより
道を聞かれる。
地図を開いて
方向のみ確認し
伝える。

道はあるが、
車道の状況は
未知のため
自己責任で、


Googleマップは
便利だけれど、
やっぱり
紙の地図も必要。


左手には

天野川トンネルの滝

道なりに
しばらく歩くと、
観光客数名あり。

磐船神社

境外より、
拝殿の奥に
御神体の
磐座。
大きさに
ワクワクする。

斜めから、

扁額には
「磐船宮」

社号標には
「磐船明神社」

天野川に沿って
鎮座する。

境内には、
夏越しの大祓い
茅の輪くぐり。

左から、
本社祭神 天孫饒速日命 石碑
不動明王
磐船稲荷


御神体の
磐座は、

ニギハヤヒが
高天原から
降臨する時に
乗っていたという
「天の磐船」だ。

参拝。

四社明神


御祭神は、天照國照彦天火明奇玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)

またの名を「ニギハヤヒ」

磐船神社御由緒
御祭神 天照國照彦天火明奇玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)(饒速日尊)

『日本書紀』や、『古事記』『先代旧辞本紀』などの古い書物によりますと、
天孫饒速日尊は天照大御神の御孫神にあたり、大御神の御命令により、高天原より天の磐船に乗って河内國河上哮ヶ峯(いかるがみね)に降臨されました。のちに大和國に入り、大和河内地方を開発し建国の礎を築かれ、人々より天津神(天より来られた貴い神様)と崇敬された神様であります。
また饒速日命が降臨に際して、天空より国土を望まれて「虚空(そら)見つ日本國(やまとのくに)」と言われた事が「やまと」という国号の始まりとされています。
尊は高天原より持って来られた十種瑞神寶(とくさみずのかんたから)により鎮魂祭を行い、病に苦しむ人々を助け、死人をも蘇らせたと云われ、加持祈祷の根元にして神道のみならず修験道、密教、陰陽道から崇敬されてきました。
尊の子孫は物部氏と呼ばれる古代大和朝廷における最大最強の氏族を形成し、大連(おおむらじ)として 代々の天皇に仕えており、ここ交野の地には肩野物部という一族がおりました。
ーー
当神社は、饒速日尊が乗って来られた天の磐船をご神体として祀り、古来より天孫降臨の聖地として崇敬されています。当神社の創祀年代は詳らかではありませんが、磐座信仰という 神道最古の信仰形体と伝承の内容から、縄文から弥生への過渡期まで遡ると考えられております。
その後、物部氏を中心として祭祀が行われていましたが、物部氏本宗の総亡後、山岳仏教や住吉信仰などの影響を受けるようになり、平安時代には「北嶺の宿」と呼ばれ、生駒山系の修験道の一大行場として変貌を遂げるに至り、境内には四社明神の石仏や、不動明王像が祀られ、例大祭には護摩壇を設けて大火焚祭が行われています。また、当社大岩窟は、古来より行場として知られ、現在でも多くの行者や拝観者が訪れます。

おもな境内摂末社
行場岩窟 白龍社 黒龍社 金龍社 白水社
四社明神 大日如来 観音菩薩 地蔵菩薩 勢至菩薩(住吉四紳) 
     鎌倉時代
不動明王 「天文十四年十二月吉日勧請開白大蔵坊法印清忍」の銘あり 
     室町時代
磐船稲荷 稲荷大明神

例祭 春季例大祭  5月5日
   夏越大祓 6月29・30日
   奉斎会大祭 9月下旬

由緒案内板より



以前に訪れた、
2009年2月22日の様子。
岩窟めぐり

2009年2月22日
2009年2月22日

現在は
一人では不可のようだが、
以前も
社務所に届けてから
行った。

2009年2月22日
2009年2月22日

いろいろ
忘れてしまっているが
くぐりぬける時に
お尻が濡れたのを
覚えている。

2009年2月22日

くぐり抜けると、
生まれ代わり、
リセットされ
再生される。

2009年2月22日

岩窟の外、
先には
天の岩戸之宮

2009年2月22日
2009年2月22日
2009年2月22日
2009年2月22日

境外に出て
来た道を
少し戻り、

白龍の滝

鳥居の右
磐船ゲートの脇を抜け
滝の横、
川沿いの
管理道を上る。

府民の森・
ほしだ園地

らくようの路へ
右折し、

手前の低い山は、
男山、石清水八幡宮。

遠くの高い山は
愛宕山大権現。

伏拝。

しばらく歩き

急坂下り、

園地案内所(ピトンの小屋)の脇に出る。
休憩、自販機のアイス。

「生駒山系まるごとハイキングマップ」
発行:大阪府みどり公社
地図880円。
一枚物の大きなマップ
今まで使っていた物が
折り目で、
擦り切れ、
バラバラなので
買い替え。

向かいには
クライミングウォール施設。

哮が峰(たけるがみね)のお話

クライミングウォールの向かって右側にそびえる、標高168mの断崖絶壁の山は哮が峰(たけるがみね)といいます。 この哮が峰には、饒速日命(にぎはやひのみこと)が降臨したといわれています。物部(もののべ)氏の祖先神。 饒速日命は天磐船(あめのいわふね)にのって天くだり、長髄彦(ながすねひこ)の妹である三炊屋媛(みかしきやひめ)を妻としました。神武(じんむ)天皇の東征の際、長髄彦は天皇に服従せず、饒速日命は長髄彦を殺して天皇にくだったといわれています。

大阪府民の森HPより

哮ヶ峯

ここが
「いかるがみね/たけるがみね」
ニギハヤヒが降り立った場所だ。

ただ、
磐船神社では、
神社一帯の山地がそれだとして
「いかるがみね」と呼び、
古代から聖地として
信仰されていたそうだ。
もちろん、
ニギハヤヒが
乗って来られた
「天の磐船」が
あるのだから。

ニギハヤヒは
その後、
山辺郡布留の高庭へ行った。
(現・天理の石上神宮)

最初に降臨されたところは「河内の国の河上の哮(いかるが)峯」と伝えられ、その後、饒速日命は大和国山辺郡布留の高庭(現・石上神宮の地)に遷し鎮められました。

石神神宮HPより


駐車場のそばを
抜け、
私市(さきいち)駅へ
遊歩道が整備され
歩きやすい。

天野川沿い、

天の川、七夕伝説。

この川は
枚方の
淀川へ
繋がる。

昔、
ニギハヤヒが
やってきた時。

淀川は
枚方付近までが
海になっていたのだろうか?
そこから
この天野川を
遡ると
「河上の哮ヶ峯」にたどり着く。

磐船は
岩のように
硬い木の
船となり、

富雄川を下り、
大和国山辺郡
布留の高庭へ
向かったのだろうか?

すぐ南は
富雄の地だ。
古事記には「登美」であり、
日本書紀では「鳥見」だ。
そして、
富雄の名前の由来は、
「鵄(とび)」だ。

大和の
先住民の首長・長髄彦とは
どんなふうに
出会うのだろう?


富雄川は
大和川に流れこむ。

大和川を
遡れば
布留川から
石上神宮に。


別れた
流れは、
初瀬川となって
大神大社
付近にも
たどり着く。


途中、
少し街中を歩き

京阪「私市」駅、
3時過ぎ着。

歩くと繋がる
楽しい妄想、
ありがとうございました。







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