『洪水の終り』事件は季節の移ろいとともに。今こそ読んでほしい戦争の悲劇
発表年/1967年
辻邦生さんの作品にはエピグラフ(作品の巻頭に置かれる引用文や題辞)の置かれているものが少なくありません。例えば先の『献身』では次の句が置かれています。
『洪水の終り』のエピグラフは『旧約聖書』創世紀のこの部分、
有名な「ノアの箱舟」の一節です。神は箱舟から出たノアと、二度とすべてのものを滅ぼす洪水を起こすことはないという契約を結びます。冒頭に置かれたこのエピグラフはどんな意味を持つのでしょうか?
1.登場人物とストーリーのあらまし
『洪水の終り』の登場人物は日本から訪れた「私」とポーランド人の少女テレーズ・モロツカ、ドイツ人のギュンター、イタリア人のマザコンのアルベルト。他にも何人か登場しますが、主に事件に絡んでくるのはこの4人です。
皆は中部フランスのある大学で行われる西洋中世関係の夏期講座に参加するために集まったのでした。大学では男女別の寄宿舎が用意されていて、学校と寄宿舎を往復する毎日です。「私」とテレーズは理由があって1週間出席が遅れたのですが、おかげでオーステルリッツで偶然同じ列車に乗り合わせることになりました。そのせいもあって、「私」とテレーズは最初から近しい間柄となるのです。
国籍も年齢も違う人々が集まって寝食を共にしながら学ぶことで、講座以外のことでも彼らは互いに知り合うことになります。フランス人学生のルイ・ロベールがアルジェリア戦争への兵役が決まっているという話が出てくるので、1957、8年頃のことでしょう。第二次大戦終結からやっと10年を過ぎたところなので、人々の中にもまだ戦争の傷跡が残っていました。それでも互いに親密になることで、彼らはそんな傷跡を越えてゆこうとします。けれど、ポーランド人のテレーズにはどうしても越えられない壁がありました。戦争当時、ポーランド人がドイツから受けた残虐な仕打ち、それによってテレーズの中に深く刻まれた苦悩が、やがて悲劇を引き起こすことになるのです。
2.移ろいゆく季節とともに推移する事件、その緻密な構成
『ある晩年』でも触れましたが、辻邦生さんの作品の特徴は文章の美しさです。その要因を担っているのが情景描写で、特にこの『洪水の終り』では、季節が移ろってゆくとともに事件に近づいていきます。夏の40日間ほどのことなので当然と言えば当然なのだけれど、情景描写が示唆する全体のムードの変化は、初めからきっちり計算されたものでしょう。そんな、次第に影を落としてゆく情景描写を、少し拾い出してみます。
最初の光景はP**市に向かう列車の中からの風景なので同じものではないけれど、最初にきらきら光って見えた教会の尖塔は、やがて「黒く、陰鬱な感じ」に変わっていきます。そして、季節が秋の装いを帯びてくるのに合わせて、講義も終了に近づいてゆくのです。そんな、ある期間を過ごしたセミナーなどが終わりつつある寂しさを、実際に経験したことがある方も少なくないのではないでしょうか?
そのあいだにも、悲劇の訪れを予感させるようなエピソードが、講義の様子や、パーティーや、離れた町でのフェスティバルなどを挟みながら語られていきます。前にも書いたように、辻邦生さんの短編小説がある種ヨーロッパの懐かしい映画を見るような雰囲気を持っているのは、この辺りにも要因があるような気がします。
3.当事者あるいはそれに近い人でないと書けないことがある
実際に戦争体験のない、僕たちのような世代がほとんどになってきた今、あの戦争をどう描くかは、ひとつ大きなテーマだとおもいます。辻邦生さんは戦中に生まれまた、自ら見聞きされたこともあって、いくつか戦争に材をとった作品を書かれています。しかし、直接戦争を扱っているわけではなく、戦争に対する何らかのおもいがあって書かれたのか、ただモチーフとして戦争を選ばれただけなのか、そこはわかりません。それでも、ここに取り上げられたようなドイツへのポーランド人の怒りといったようなことは、実際に近くにいた(それは直接本人から話を聞いたとかいうことではなく、場所とか時代とかいった意味で)人でないと、テーマにしづらいのではないかとおもってしまいました。
余談ですが、広告代理店にいた頃、ある商品のイメージにポーランド人の女性を使ったことがありました。彼女は留学生として来日していて、たまたまアルバイトでモデル会社に在籍していたのです。チラシを作成するのにその子を撮影、終ったところでモデル会社から、チラシが出来たら彼女に送ってあげてほしい、と言われました。どこへ送るのかと聞いたところ、ポーランドの自宅とのこと。メモ用紙を渡すと、彼女はそこに住所を書いてくれました。そこで、拙い英語で、
What language?
と尋ねると、彼女はきっぱりとした調子で、
Polish(ポーランド語)
と答えたのです。それまでどちらかと言えば華奢でおどおどした感じだったのが、ポーリッシュ、と答えたその瞬間だけ、凛として誇りを持った女性に見えたのでした。
ポーランドが戦争でいろいろな目にあった国、というのは世界史で少しは学んでいたので、あるいはそんなふうに見えたのかもしれません。けれど、だからと言って彼女と戦争が直接結びつくようなことはありませんでした。
辻邦生さんは15年後に、より詳しくポーランドを扱った『樹の声 海の声』という長編を書かれています。こちらは第二次大戦前のポーランドですが、こちらについても、いずれまたご紹介するつもりです。
4.そして僕の感想
直接の事件としてポーランド人であるテレーズのことがあったり、間接的には最後にアルジェリア戦線に取られてゆく形でルイ・ロベールとの別れがあったり、黒人学生に対する感情の変化があったりと、なかなかに重いテーマで描かれる本作ですが、全体としては重苦しくなることなく、フランスの夏の輝きに彩られている印象です。それはきっと本作が、辻邦生さんの、フランスポワティエでの講座の実体験を下敷に書かれているからということと、辻邦生さんの作風の特徴でもあるのでしょう。「私」とテレーズ・モロツカの別れのシーンでは何度読んでもウルッときてしまうけれど、全体を通しての明るさが、巻頭に置かれたエピグラフの答えなのかもしれません。
【今回のことば】
『洪水の終り』収録作品
・河出書房新社「辻邦生作品全六巻<3>」1972年
・新潮文庫「サラマンカの手帖から」1975年
・中央公論新社「辻邦生 全短編<1>」1986年
・新潮社「辻邦生全集2 異国から/城・夜/北の岬」2004年
他
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