大人の学級文庫
昔、男子校の高校教師を十数年していた。生徒にはよく本を贈っていたが、中には未だに推薦図書を訊ねてくる奇特な教え子も居る。私がカンボジアで起業すると、足を運んでくれる生徒まで居た。実業家や本の著者、プロのアスリート、コーチ、ミュージシャンになった者も居たし、父親になった者も少なくない。皆、凄いなと純粋に感じる。そんな大人になった君たちにふと「ほんの五十冊」を贈りたくなった。まあ、いうなれば「大人の学級文庫」といったところか。中には絶版の本も含まれているかもしれないが、己を信じてたしかな古書店にでも足を運んでいただきたい。
今宵、本を『0#読む時間』を持とう。
まずはウォッカを『1#グレープフルーツジュース』で割って、酒と塩を片手に『2#詩ふたつ』から入っては如何だろうか。クリムトの花に、文字通り詩が二編添えられている。ついでに「ホワイトアルバム」でも聴きながら、本棚の片隅に『3#ソウル・ライターのすべて』あたりを置いておくと、夜が靜かに深まっていく氣がしないでもない。
クリムトは「接吻」で有名だけれども、『4#青い花』の絵もたしかで、いつかウィーンで實物を觀たほうがよい。君が花なのか、花が君なのかわからなくなる程、眼と絵を馴染ませること。利き眼で視ようとしているうちは、君は花になれない。『5#世阿彌』はこの境地を「離見の見」と呼んだ。
ところで君は学級文庫に『6#ムーンマトリックス』と『7#辻が花』が置かれていたのを憶えているだろうか。上の陰謀棚にはアイクを、下の戀愛棚には立原正秋で埋めていた。その意図は「Beyond The Matrix」につきる。要は十代のうちに、私たちが五感の檻に閉じ込められている可能性を識って欲しかっただけだ。
最後のとしは『8#タロットの宇宙』も入れておいた氣がする。タロットは『9#横濱をつくった男』あたりにやらせたら、面白かったのかもしれない。神々がカードをよくきらなかったために、同じ順番のタロットが再度出てしまうことをシンクロニシティという。そのような偶然を必然にするのが大人の条件のひとつであるとおもう。
閑話休題。いったい君は幾つになったのだろうか。
まだ二十代なら『10#人間的魅力』あたりを読み、己の年輪をどのような文様に描くのがよいのかイメージをマネージしておくとよい。枝葉は後から幾らでもつけ足せる。肝心なのは幹のほうだ。この年代に『11#英単語ピーナッツ』をつまみに『12#日本の酒』で酔い、『13#荘子』を枕に胡蝶の夢でも機内で觀ながら、海外を行き来するのも惡くないであろう。
三十路を過ぎたのであれば、自分の裡に『14#質問』のひとつでも投げかけておかなければならない。私の三十代の問いは、
「日本という國がなくなったら、何をもって日本人とするのか?」
という稚拙なものであったが、この問いからプノンペン郊外に茶室「臨川」の写しを建て、クメール人に『15#茶味』を味わっていただいた。幾年か経った頃には、クメール人が古典立脚した点前で薄茶を点て、君と同世代の日本人に喫茶去を傳えていたとおもう。そろそろ『16#字統』に訊きながら、己の西欧化を恥じてもよい年齢だ。この記事も部分的に旧字体にしてある理由がわかってくれたら嬉しい。
ところで私は三十八歳のとき、オーストリアの或る博物館にて通訳にはいったことがある。その際に現地のご夫人から問われたのは、次のようなものであった。君ならどう答えたか。
今、SDGsの叫びも虚しく、『18#俄』に世界が自信を失っている。古き佳き日本にその方法が在るように視る者も世界には多いが、我が國も『19#日本人の誇り』を失って久しい。これに関しては、昭和世代の責任も少なからずあったであろう。心より謝罪したい。
だから君たちはベクトルの向きを間違えるな。英語を學び、有り難く未だに欧米を真似しているようではなんともみっともない。そうではなく、本来の日本文化を學び、母語とともに『20#資本主義の次にくる世界』をホッとさせるような男になればよいではないか。SDGsも嘘からでたまことになる。
以和為貴というくらいだから、吾が國もよほど爭いが絶えなかったのであろう。それ故に『21#日本文化における時間と空間』には萬物ト和スル叡智が水面下で流れているのだ。兎にも角にも、君は本に還ったほうがよい。
夜も深まってきた。闇語りに相応しい靜かさだ。
四十路にいくまえに、『22#人生二度なし』ということをよく噛みしておく必要がある。三十五歳までに何かひとつ人生を賭ける体験をしておかなければ、男はそのまま堕落してしまいがちだ。無論、人生を賭けるのだから、概して「別れ際」や「死に際」に追いやられることになるが、その方が男を發酵させる。どうか別れ際をよく識る『23#生きるのが下手な人』のままで貫いて欲しい。
ちなみに際は『24#三角形』をイメージするとよい。三本の線が交差することで、面の三角形が初めて描かれる。つまり、際は等しく次元がひとつ低いのだ。ここらで『25#フラットランド』の無門がひらき、君が星々のあいだの『26#アルケミスト』であったことをおもい出すであろう。
ここ百五十年、日本人は皆、西欧的な光ばかりを追ってきた。だからこそ君は毀れゆく我が國の翳のみを觀よ。『27#不合理ゆえに、吾信ずる』べきだ。せめて『28#猫の妙術』あたりは朝飯前にできるようにしておきたい。
これからの時代で確実なことは、「時代が激しく移ろう」ということだけである。あべこべのあいだは先入觀を抱かず、無名を貫くことも肝要になる。概して有名になることは運が惡いと識るべきだ。うっかり『29#モモ』を齧って時間泥棒にあっているように私には映る。衒いなく自然体で生きること。
安易にここ百年を金と科学の時代と視るならば、今ここでそれ以外のものにオールイン(全賭け)する必要もあろう。今世、金の対極にあるものは、たった一本の草かもしれぬし、科学の対極にあるのは實は我が身かもしれない。君たちは何処に人生を賭けるのか。何も賭けずに平凡に終わるということだけはあり得ない。
四十路を過ぎたら、ある程度の年輪が君のそびらに出なければ嘘だ。要は身だけは美しくしておく必要がある。これを『30#修身』という。日本語はこの教育觀に「躾」という國字をあてはめた。『31方法序説』以来、人は心と身体に分けられてきたが、我が國の場合はさらに身体を「身」と「体」に分けたことはもっと注目されてよいのではないか。
「体」の方は『32アナトミートレイン』で途中下車でもしながら、『33究極の身体』へとゆるませておけば事足りる。近代のいわゆるカラダはこの程度のもので、要は死体の解剖學に過ぎず、そこから生命は一切感じられない。
ところが「身」の方は茶道で重く扱われてきた文化的身体になる。こちらは触れることもできず、さらに裡でよく移ろう。『34#体癖』から『35#白誌』へと『36#代表的日本人』の親子藝を読みながら身の稽古をしておくとよい。
いよいよ五十路になれば、やや遅い氣はするものの、『37#本から本へ』と移ろってきた己の半生をふりかえり、句読点を一度打つべきだ。一以貫之。男としての仕事を決めきり、人生百年としても、これ以降の浮氣は許されない。君自身の『38#自由の哲學』を建立していっていただきたい。
また『39#ベルゼバブの孫への話』のように次世代も育て始めねばならない。サピエンスとしての『40#種の起源』と卒業を見据え、身の一子相伝をせよ。個人でも『41#鎖國という外交』を採ったほうがたしかであろう。今更ながら『42#日本の歴史をよみかえす』のもよいかもしれない。
書斎には『43#パース著作集』『44#山東京傳全集』『45#大石凝靈學全集』といった全集が数百冊ほど並べられてもよいが、同時に二度と手に入らぬ幻の本を預かろうとする覺悟が肝要になってくる。これこそが「ほんのアジール」へと繋がる第一歩だ。
更待月もとうに出ている。そろそろ筆を置こう。
君の『46世界の読解可能性』は何処まであるのか。神々は君に読まれるのを待っている。『47#全宇宙史』は「河圖」とともにあり、この星は「洛書」からはじまった。だから君には旧き佳き紙の本とともに歩んで欲しい。意外と『48#金鱗の鰓を取り置く術』とともに『49#古事記』に還れば、日はまた昇る。
夜が明けたなら、朝陽を君の双眼で觀よ。
その傍らには「ひ、ふ、み、よ・・・」と頁をめくってきた本がある。おそらく君の子どもたちが読み継いでいく物語であろう。
これにて私は君の「先生」を辞めることにする。
そして、この記事は同時に編集者の中島睦夫氏に奉ぐ。昔、愛読書『50#死の島』を私に託しながら、氏はこう云った。「君が今の僕の年齢になったら樂しみだ。もっとも僕は大器晩成の早世型だから見届けられるかわからないけれども」と。氏は有言實行の男で早くに逝ってしまったけれど、そのときの氏と私はことし同じ年齢になる。君にも氏と同様の言葉を私から贈りたい。少しのあいだであったが、君の先生で居させてくれて有り難う。