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2021年2月の記事一覧
過日、機内から雪化粧した山脈を撮ったところ、写真の際に初春の富士が写っていた。日本一たる山はたしかに雄大だが、その上にある空ははるかに大きかった。おそらく人がちっぽけ過ぎるのであろう。海も空も際にはなんとも惹かれる青がある。これ以上歩をすすめるなら異次元だぞと云わんばかりである。
先ほど幾年かぶりに、或る喫茶店にはいった。かつて本をとじ、よく頭を空っぽにしていた珈琲屋であった。日々きれいな花が活けられているのだが、久方ぶりに足を運ぶと花器が昔から変わってないことになぜか氣がついた。なんら取り柄のない平凡な花器であるものの、やはり淡々と昔からあるものはよい。
鈴木大拙がまったく歯がたたなかったという僧が、昔おいでた。写真はその方の著書で、カジという。現代漢字にはもうない。意味はこの本とであってくださって、ありがとう。そして、読んでくださってありがとうとお時宜をする姿になる。世に出回らなかった名著は、やはりはじまりの数行で惚れてしまう。
父の急逝から二日後に山手で散髪をした。かねてから行きたいと思っていた美容室であったが、結局その日が初めてで、かえってそれがよかった。まだ父の事業を継ぐか否かも決めかねている時期であった。入店するとクリスト風な仏國帰りの美容師と目があった。再び歩む氣になったのはなぜかあの時である。
夕刻のブタペストを歩いていると、空に一足が浮いていた。かつての東洋には頭の上に草履をのっけて去った禅坊主がおいでたが、今回ははるか頭上に靴がある。それにしても、この街には妙に履き物が似合う。空がそろえば、風が変わり、天も我も一体なる境地がひかえるという。地を歩こうとしないことだ。
四角い写真を撮る場合、絶対美の割りだし方として、辺を3:7に分けたところ同士を斜めに結ぶといった方法がひとつある。写真の菜の花はそのようなところを狙って撮ったものの、どうもおもしろくない。唯一見られるのは群れからぴょこんとでた連中くらいか。そそっかしく空にはみだしたいものである。
書物の原風景は神に祈りを捧げた際の祝詞になる。わが国の場合はそこから巻物を経て、現在の冊子へとなった。昔は全世界で三万冊しかなかった書物も大量生産され、今や日本だけで年間一億冊以上もの本が断裁されている。これをブックロスというが、冊子の形を進化させれば本は容易に復活する氣がする。
柳亮の『黄金分割』という名著がある。一時期絶版だったが復刊した。絶対美への計算法は東西で異なるものの、結局は似た地点が割りだされる。柳は西洋の美を視たが、この國の視点も絶対美から微かにずらす等、趣がある。コロナ禍における歩みも王道を知りつつ、その脇道の散歩を樂しみたいものである。
春光五雲中。百何十年ぶりかの二日の節分、氣分転換になればと茶の先生に原稿を届ける。時に声をだして笑いながら「これ書くの相当時間がかかったでせう?」と嬉しそうであった。まさに軸のような空模様で、庭の景色の移ろいがおもしろかった。〆はおかきと珈琲。やはり茶室では抹茶よりも珈琲に限る。