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高堂つぶやき集。
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2020年8月の記事一覧

横濱港を愛するついでに、空の港も愛するようにしている。やがては宇宙港も当たりまえになるのであろうが、宇宙にはサンズイを満たすような水っ氣がない。一方空には入道雲をはじめとして、かなりの潤いが含まれている。港好きなのは、母なる羊水に浮いていた時分を本能的におもいだすからであろう。

酔芙蓉なる通称「酔っぱらいの花」がある。朝は白く、昼はピンク、夕暮れどきには紅になるところからきている。過日、酔芙蓉のまえをとおると、ちょうど白から薄紅へと花びらが移ろっている最中であった。花の際から中央へと徐々に色づいていく様は、新しき変化が彼方からやってくることの証である。

夜だけしかやらぬ市場というのも、なかなか趣があって好きであった。おそらく夜という漢字は人が臥せる姿から生まれたものだけれども、人々が睡っているあいだの活氣がまた魅力的なのであろう。今朝も丑三つ時に起き、朝の市場近くを散歩したが、やはり夜のそれの妖しさのほうに私はひどく惹かれる。

ハンガリーの博物館で茶を点てた際、収蔵まえの茶碗を使わせていただいた。ご夫人が逝かれたあとに師が焼いた黒茶碗で、現地の客にも愛でられていた。それから三年後の暮れ、師も急逝し、茶碗だけがその博物館に今も収蔵されている。願わくば百年おきくらいに蔵からだし、一服点てて欲しいものである。

この世で信頼しているもののひとつに、微かさがある。微雨、微風、微熱あたりはよきことの兆しであろう。兆しにならぬ兆しであるからだ。表舞台ではウイルス騒動で天変地異が秋頃から起ころうとしているようであるが、その兆しは幾年まえから微かに香るものであった。そよ風とともに生きることである。

世界中で感染なる言葉がニュースをかけめぐっているけれども、私は日本語の「感じて染まる」ニュアンスが昔から好きである。人として日々、感じて染まっていかなければ、生きながらにして死んでいるのと変わらない。無論、コロナ感染はいただけないが、今朝もひとかどのものを感じ、染まっていきたい。