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図書館に住む巨人

図書館を歩いていると、自分という存在が揺らぐ瞬間がある。

書架に並ぶ本を眺めていると、その人類の叡智に圧倒され、瞬間、自らが世界のほんの一部分でしかないことを自覚する。

これは浜辺から大海原を眺める、あの感覚に酷似している。


私たちは普段、何の疑念も持たずに自らの存在を中心に世界を捉えている。この感覚があまりに当然すぎて、普段は「自分を中心に据えている」意識すら感じない。

世界という舞台に自分が出演(存在)している感覚で、自分も舞台装置の一部なのだ、という感覚には中々ならない。

…が、僕はふとした瞬間、自分を中心に世界を捉えている自己を自覚し、自らの傲慢さに動揺してしまうことがある。

この感覚を覚えると、ふと図書館に足を運びたくなるのだ。

図書館にいるとき僕は、極めて矮小な個人になる。
あまりにも強大な知の世界に四方を囲まれ、自分という存在の小ささを客観的に感じられるのである。


海や山とは異なり、図書館は人類の産物だ。
ゆえに図書館は、悠久の時を経てなお続く、人類の果てしない営みを来訪者に体感させる。

「巨人の肩の上に立つ」なる言葉がある。
学術・研究分野で目にすることが多い言葉で、
「先人が積み重ねた知恵を借り、新たな発見をする」といった意味の比喩表現だ。

今、自分が捉えている世界は当たり前のものではない。人類が積み重ねてきた歴史があって、初めてこの世界は成り立っている。
そんな思いを馳せていると、自分という存在の在り方が揺らいでくる。

巨人の肩に乗って彼方を見渡す自分と、巨人の身体との境界があいまいになる。
自分もまた、人類が生み出した巨人の一部になるのだろうか。


僕にとって図書館は、偉大な巨人に謁見する場でもある。
自分という存在は当たり前の存在ではない。今をこうして過ごせているのは、生々しい古傷だらけの巨人の存在あってのものなのだ。

図書館は、ただ優しいだけではない。時に人間という存在の小ささを自覚させ、果てしない虚無感を与えてくることもある。

だがそれも、気分の悪いものではない。その虚無感すらも大切な体験として受け入れたい。そんな気持ちにさせてくれる、不思議な魅力を図書館は持っている。

図書館に住む巨人はいつだって、厳しくも慈愛に満ちた表情で、矮小な私たちをそっとその肩に乗せてくれるのだ。

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