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「私は存在するだけで価値がある」なんて当たり前だ......と本気で気づいた話

お久しぶりです。2024年は厄年を迎える、Kinacoです!
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

今さらながら2023年を振り返ってみると
私にとっての昨年は、潜る年だったな〜
と思います。

独立したはいいものの、快調に動き出すことができなくて、自己否定を沢山しました

「行動しない自分ダメ」
「計画性がない自分ダメ」
「ちゃんとしてない自分ダメ」とかね?

やっぱりね、心の中で自分を否定していると、現実にもそれが現れてくるわけです。

だから、こじらせ恋愛をしたり、精力的にお仕事できなかったりということが続きました。

そんな状況にジタバタしていた私ですが。出来ることならさっさと自己否定をやめ、エネルギー高く進んでいきたいじゃないですか。

ところが、自分と向き合えど向き合えど、ノートに気持ちを書き出せど書き出せど、なぜか否定のループから抜け出せない。力が出ない。

そこでKinacoは、ついしてしまう自己否定ってそもそも何なのか?
ひいては、否定している「自分」って何なのか?考えてみました。

そしたらね、なぜか180度ひっくり返った答えが出てきた。

それが、タイトルにもある通り「『自分』を否定する余地なんて1ミリもない……あれ、しかも、私は存在するだけで価値がある、なんて当たり前だ……!」です。笑

否定から全肯定へ。

そして、この「存在するだけで価値がある」の感覚が、ちょっと無理して言い聞かせるあれではなく、私なりのロジックで腑に落ちた。

今では、何かを理由に自己否定しそうになっても、存在価値じたいへの信頼は揺らがなくなったので
自分の中になんとなく芯のような、戻る場所があるような感覚があります。

ということで、このnoteでは「自分という存在への全肯定」について、私なりに理解したことをシェアさせていただきます!

私がいなくちゃ始まらない「モミの木理論」

なぜ、私たちは存在するだけで価値があるのか?

……それはね、私たちの存在は、クリスマスツリーでいうところの「モミの木」だからです!!ドヤア

それに対して、普段、自分をジャッジするときに使っている、ありとあらゆる要素は「オーナメント(=クリスマスツリーに付ける飾り)」です。

モミの木(=自分本体)にオーナメント(=自分本体以外の要素)を飾りつけることで、クリスマスツリー(=自分の全体像、ひいては、自分の人生)が完成します。

オーナメントの種類は、無数にあります。
たとえば、出身、経験、スキル、収入、パートナーの有無、性質、容姿などなど。

「自分本体」以外のありとあらゆるものですね。

私たちは、無数にあるオーナメントの中から、これまでの人生で選んできたものを、自分というモミの木に飾りつけて生きています。

だから何だよ、と思われた方?

肝心なのは、いかなるオーナメントもモミの木という存在がなければ、飾られることさえないということです。

「イメケン彼氏」という煌びやかな飾りも、「恥ずかしい失敗」というグレーがかった飾りも、そもそもあなたがいなければ存在できない。

そもそもモミの木がなければ、クリスマスツリーを作りはじめることさえできないのです。

ということは、どんなオーナメントが有ろうと無かろうと、飾る先の「モミの木の存在価値」は変わらないと思いませんか?

すべての始まりであるモミの木の存在は、なくてはならないもの、つまり価値あるものだと思いませんか?

人間に言い換えると。どんな経験・能力・性質が有ろうと無かろうと、「自分本体の存在価値」は揺らがない。

だって、そもそも自分という存在がなければ、外側のありとあらゆる要素は存在することさえ出来ないから。

やっぱり、すべての始まりである自分の存在は絶対なのです。

その自己否定は、「自分」を直接見て言ってるのか?

ここで、この謎の「モミの木理論」が生まれた経緯を説明させてください。

それは、いつも否定したり肯定したりしている「自分」って何なのか?という問いから始まりました。

「自分」って何で構成されているのかな?って。

……すんごいシンプルに考えて、自分は、自分の「心」と「身体」で構成されている。私は、そう思いました。

今も、いろいろなことを感じてくれている心。
今日も呼吸し、心臓を動かし、生命を存続できるよう働いてくれている身体。

ものすごくシンプルに考えれば、今日もちゃーんと機能している「心」と「身体」で構成される私を、否定する余地なんてあるのかな……?

私がしていた自己否定って何だったんだ……?

「ちゃんとしてない私はダメ」で考えてみる

例として、「ちゃんとしてない私はダメ」で考えてみます。

「ちゃんとしてない」って一見、私と切っても切り離せないもののように見えるので。自己否定のネタとして、無意識に使うことが多い要素です。

「自分」を否定するのが自己否定なわけですから、私の心と身体の状態でも否定してんのか、私の心と身体がちゃんとしてないってことか、と思いきや。

私にとっての「ちゃんとしてない」の内容を見てみると……
・30代なのに資産ない
・結婚してない
・子どももいない
とか、そういうことでした。

自分を否定しているのに、自分を見ていたわけではなかったのです。見ていたのは外側。「モミの木理論」でいうところのオーナメントでした。

……自己否定するなら、モミの木見てから言えってんだ?

これに気づいたとき、「〇〇がない/あるから私はダメ」と言うって、すごく理不尽なことを自分にしていたんだなと思いました。

それはまるで、お菓子に付いているおまけが希望の種類じゃないからって、そのお菓子自体を嫌いって言い始めるような理不尽さです。

おまけが何であろうと、お菓子じたいの美味しさは変わらないのに。
おまけが何であろうと、お菓子そのものの価値は変わらないのに。

こんな扱いを自分にするの、不当ではないですか?

誰がなんと言おうと、自分の存在価値は絶対なのだ

伝わりますでしょうか…..?

とにかく、誰がなんと言おうと、私の世界では、私自身の存在価値は絶対です。モミの木なのです。

クリスマスツリーにとって、モミの木ほど大切なものはありません。

同じように、あなたの人生にとって、あなたほど大切なものはないのです。

だって、あなたの存在がなかったら、いま欲しいあんなことも過去に感じたネガティブな経験さえ、存在することは出来なかったんだから。

ぜんぶぜんぶ、あなたが出発点なんだから。

社会にとって、誰かにとって、価値があるかは知らんけど。
あなたの世界では、あなたという存在自体に価値があるのはもう絶対なのです。

これが「存在するだけで価値がある」ってことなのかなって、思いました。

このことを前提に置いた上で、欲しい飾りがあるなら、とびっきりお気に入りのものを探しに行けばいいし。
気に入らなくなった飾りがあるなら、外しちゃえばいい

それくらいの気軽さで、自分につける要素たちを選んでいいのかなって思いました。

もし、自己否定していると気づくことがあったら、否定の中身を詳しく見てみてください!

あれっこれ自分ではないものを見て、自分を否定している……?と気づくことがあるかもしれません。


すこしでも参考になったら嬉しいです!

最後まで読んでいただき、ありがとうございました♡

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