横井小楠の思想形成と「父としての側面」をさぐる 熊大附属図書館で講演会
第13回紫熊祭期間中の11月3日、第39回熊大附属図書館貴重資料展「小楠に届いた手紙―横井小楠文書にみる幕末群像―」の公開講演が附属図書館であった。三澤純教授(大学院社会文化科学教育部)と今村直樹准教授(永青文庫研究センター)が、維新期に活躍した熊本藩士・横井小楠(1808-1869)について、思想的性格と父としての側面という二つの観点から講演した。
資料展と講演会は昨年に小楠の子孫が熊大に「横井小楠文書」を寄贈したことで実現したもの。
今村准教授は小楠の人脈と思想形成過程について、天保・弘化期(1830-1847)の熊本藩における「実学党問題」に注目し再検討・その後の小楠に与えた影響について考察した。小楠は幕末維新期の政治に大きな影響を与えた思想家であるが、著名になる前(30代)の動向は「検討する価値がある」という。
「実学党」は小楠ら藩政改革派グループであるが、当時は現在著名な小楠ではなく、メンバーである下津久馬(1808-1883)が1000石取りの大身家臣であり、家老に重用されたことから藩政の表舞台で活躍していたという。小楠は藩校・自習館での勢力拡大を図り、「徐々に衆人(学生)を『我党』に引き込めば、五〇年後の藩庁役人はすべて『我党』になる」という発言をするなど、大きな影響力を発揮した。しかし、最終的に実学党は藩政における抗争に敗北し、藩政掌握は挫折する。
幕末に小楠は「朋党の憂」「朋党の禍」を強く批判しており、今村准教授は「背景には自身が当事者となった藩内抗争の苦い経験、あるいは藩政があるのではないか」と指摘し、青年期の改革への挫折がのちの思想形成に影響したとの見解を示した。
三澤教授は「父としての横井小楠」と題して、思想家としてのイメージが強い小楠の「父」としての側面に着目した。
小楠の兄・時明が1854年に死去した後、小楠は家督を継ぎ、2人の甥(左平太・大平)を養子として育てている。のちに日本初の官費留学生(アメリカ)となる2人だが、神戸海軍操練所・長崎語学所で学ぶ左平太は「他藩からの学生は遊女屋に入り浸って先生からの申し付けも聞かない。きちんとやっているのは自分たちくらいだ」と小楠に手紙で記すなど、「他藩の学生をけなして自分をアピールする癖」があったという。
そんな左平太に小楠は書簡で「他に拘らず可成丈心力を尽し修行致さるべく候、他の非をのみ唱え我が修行怠り候は士君子の恥ずべき事なり」と厳しく叱責する。三澤教授は左平太らに「士君子」(学問・人格ともに優れた立派な人間)となってほしいとの願いを込め、あえて厳しく指摘したのではないかと推測した。
小楠は現在、公共社会論・非戦思想で再評価されており、「今回寄贈された『横井小楠文書』に含まれる書簡群を分析することで、研究史の進展が期待される」(同)と期待を寄せた。
(2024年11月4日)
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