激動の19世紀東アジア情勢の中での日本 / 国家総動員体制と電力官僚の思想 保谷氏(東大)と嶋氏(熊本学園大)が研究報告
「電力国家管理」と「アロー戦争と軍馬」をテーマとした熊本史学会(事務局:熊大文学部内)の秋季研究発表大会が12月7日、熊本県婦人会館で開かれた。本大会は東大史料編纂所から保谷徹名誉教授を招いたもの。
国家総動員体制と電力統制を考える 嶋・熊本学園大准教授
「二つの電力国家管理のあいだ――第一次・第二次国家管理の断絶について――」と題した熊本学園大の嶋理人准教授(経済史)は、国家総動員体制へ進む戦前日本における電力国家管理について報告した。
これまでの研究では1931年の電気事業法改正と国家総動員体制における電力国家管理は一貫した統制経済思想に基づくものとされてきたが、嶋氏は「おなじ逓信省による主導でも内部の思想の違いから、両者は断絶していると見るべきだ」とする。これを踏まえ、電力国家管理でも第一次(1938~39)と第二次(1940~42)では同様に断絶があるのではないか、というのが嶋氏の見解だ。
第一次電力統制は「豊富低廉な電力」の供給を標榜していたが、日中戦争による資材・石炭不足に加えて1939年の大渇水(注:当時は日が落ちるのが早い冬場に産業用電力と家庭用電力の消費が集中して消費が増加した)によって、当初の目標は達成できなかった。
嶋氏は「第一次を推進した当事者は第二次を実施するつもりは当初なかったのではないか」という仮説を立てる。第一次では「豊富低廉な電力供給」が目的なのに対し第二次では消費規正(軍需部門への優先)が眼目になっているため、第一次それ自体で持続的な体制を目指したのではないか、というのだ。
そして1940年2月に入り電力調整令による電力使用規正が行われるが、嶋氏は「39年11月の時点では配電統制を予期する論調はなく、40年1月の時点でも統制は考えられていない」と指摘。方針が急転した背景に行政と現業部門の責任の押し付け合い、逓信省内の派閥対立があった。最終的に第二次電力国家管理と配電統制が実施されるが、第一次の推進者らは失敗を認めておらず、むしろそれは「第一次を推進した官僚らが『粛清』され、前者への不満を理由として実施されたもの」であり両者には断絶がある、と結論づけた。
軍用馬がつなぐアロー戦争と日本の関係 保谷・東京大名誉教授
特別講演として東京大史料編纂所の保谷徹名誉教授(軍事史)が登壇。「アロー戦争と日本―1860年英仏連合軍の軍用馬一件と兵站拠点―」と題し、アロー戦争時に英仏軍の兵站拠点として軍用馬供給を求められた幕末日本を検討した。
1856年、アロー号事件を契機に英仏連合軍が中国に侵攻。58年6月に不平等な天津条約を締結した。ちょうどその頃、米国総領事のタウンゼント・ハリスが着任し、英仏艦隊の圧力を利用しつつ日米修好通商条約を締結させる。
そうした日本国内外の情勢の中、英仏は日軍用馬の調達を求め日本を訪れる。当初は輸送用の「小荷駄馬」の調達のはずが、輸出された馬が軍用馬として中国で使用されるという情報を得るや、幕府は一転して輸出サボタージュに入るも、最終的に押し切られる形で輸出が実施された。
保谷氏は馬取引の実態について資料は少ないとしつつも、武蔵国多摩郡・入間郡の馬喰の資料を引用し、代官所を通じて横浜でフランス・イギリスに対し馬を売却していた実態を紹介した。他にも軍艦用の石炭補給庫の建設など、日本が「補給基地」「兵站拠点」として大きな役割を果たしていたこと、同時にアロー戦争での勝利が日本への無言の圧力となっていたことを指摘し、「列強の東アジア進出過程のなかで開港した日本自身が、中国大陸での列強の戦争遂行に大きな役割を持たされていたことは、分断された東アジアの国際関係を象徴する出来事だったのではないか」と分析した。
関連して三澤純・熊大教授が熊本藩上益城郡矢部手永の仏原村(現・山都町)の庄屋文書から、幕府が輸出を制限するより早く領内からの「異人」への牛馬売渡を制限し、牛馬高騰について協議していたことを紹介。「幕領の天草・日田地域の動向にも注目してみる必要がある」とコメントした。
(735文字)
質疑応答
〔嶋氏〕
Q1:当時の水力と火力の比率はどうだったのか。石炭の調達先は国外も含むのか
A1:地域差があるがおおむね水力と火力は7:3。ただし、筑豊は5:5だが中部地方は水力が圧倒的であるし、会社によっても異なる。この時点では満州や朝鮮も含みはするが、原則として(樺太を含む)内地が供給地となっている
Q2:水力開発と農業生産に矛盾は起きなかったのか。また、当時の電力は(第一次統制で企図されたように)農村で十分に活用されたのか
A2:例えば猪苗代湖で、農業用水と水力電源開発の利害対立で紛争が発生している。当時の農村では灌漑用モーター部門では安価な石油発動機とシェアを争っており、政府が企図した共同作業所などの生産部門ではあまり活用されず、むしろ個人宅の電灯の方が切実に必要とされていたが、こちらにはむしろ統制が強められたという実情がある。日本の電力は生産財としての電力を重視する一方で、消費財としての電力が重視されてこなかったことが(戦後まで続く)問題の一つといえる
〔保谷氏〕
Q1:歴史学上、幕府役人の外交交渉能力が高く評価された時期があった。この報告では軍用馬輸出にあたって幕府役人の交渉能力と国際法知識不足が英仏により指摘されているが、実際はどうなのか
A1:純然たる国際法認識に基づく主張はできなくとも、ハリスとのやり取りでおおむね把握していたとは思う。ただし、外交交渉が本格的に始まったばかりで、軍事的な圧力が存在する中で、条約文を持ち出して抵抗することはできても、それは能力の限界があったのではないか
Q2:(熊本藩と同様に長崎奉行が牛馬売渡禁止を通達した)2月という時期は全体の状況と比較するとどういう時期なのか
A2:幕府から許可が出て、英仏が馬喰から馬を集め出した時期にあたる。長崎奉行と熊本藩など、買い付けの対象となった地域によって対応に時間差があること、他領から買い付けが活発に入り込んでいることなどが注目すべき点だ
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