ケチ男くんへまっしぐらな世の中だからこそ
すっごくケチな男の子がいた。
ぼくが小学生の頃だ。2学年くらい下。
その子は、「映画はやがてテレビでやるから、映画館なんて行くのはもったいない」という持論だった。ほかにもいろいろケチだったが具体的なのは忘れた。
『バック・トゥー・ザ・フューチャー』を映画館で観たときの感動は忘れられない。
その後何度も観てる。
レンタルビデオやテレビの洋画劇場、最近だと配信で。
でも、大阪の北野劇場・・・当時は「早い者勝ち」で席取ってた。予約なんて、なかった・・・で、満席の観客たちと驚いたり、ワクワクしたり、笑ったりして味わった「最初」の『バック・トゥー・ザ・フューチャー』体験に勝るものはない。
この体験から、例のケチ男くんの言うことは「違う」と思ってた。
この本に出会った。
著者アントニオ・ダマシオは神経学者。彼の認知神経学は、ぼくが大学(阪大人間科学部)以来研究してきた「人がどのように世界を認知するか」へ、新しい知見をくれた。
ダマシオを理解するには「情動(emotion)」と「感情(feeling)」という二つの語が鍵になる。
情動は身体が舞台で、感情は心が舞台。
「鳥肌が立った」という言い方がある。
どんなときに「鳥肌が立つ」かは各自のこれまでの経験による。
ある人は素晴らしい音楽や演劇に出会ったとき。
ある人は「警戒しなければならない」場面に出会ったとき。
「鳥肌が立つ」というのは情動であり、その情動に対して「素晴らしい音楽に感動した」と思うのが「感情」。
同じく、「鳥肌が立つ」情動に対して「だから目の前の男は油断ならない。用心しよう」と「警戒する」のが「感情」。
神戸ポートタワーてっぺんの展望フロアへ上がった。
「いい景色だねー」と、写真撮りまくりインスタにあげて喜んでた。
透明のウォールに囲まれてはいるが、実際のところ、塔のてっぺんであり、風が強い。
急に足がすくんだ。歩けない。動けない。
「神戸といえば、そうだ、阪神・淡路大震災のとき・・・」
この、「歩けない、動けない」というのが「情動」であり、「怖い」という「感情」が生まれた。
展望フロアからは、「人が一人ようやく」という狭い階段で下りねばならない。手すりにつかまり、「ようやく」「やっとこさ」、下りた。
「怖い」という感情が第一にあり、第二に「足がすくむ」という順番ではなく、現実に起こったのはその逆だ。
つまりダマシオの言う通り。
『バック・トゥー・ザ・フューチャー』という映画のストーリー、誰が何してどうなったというのは、それこそテレビで見ても、配信で見ても、映画館で見ても変わらない。
でも、映画を味わう体験というのは、大いに情動的、つまり、身体的なものだ。身体に響く「満席の観客たちと驚いたり、ワクワクしたり、笑ったりして味わった体験」は、「情動」。身体に根ざす情動があるからこそ、「感動」が深くなる。
人間が面白く、深く、味わい深いのは、この、「情動」があるから。
情動は生物進化の中で、すべてのものに備えられている。学習なしに。
極端にシンプルなゾウリムシ。単純な単細胞生物で、全部が身体。脳もないし心もない。でも、外部環境中の潜在的危険・・・尖った針、強い振動、高熱、低温・・・が生まれたら、即座に泳いで逃げる。これはゾウリムシの学歴や出自・身分に関係ない。全員がそうする。ゲノムに織り込まれているから。これはぼくたち人間の持っている情動の本質を表している。
人は「直感的に」行って良いか・行ってはいけないか・行きたいか・行きたくないかを判断している。そこに合理は介在しない。
AIにできないのは、この、「情動」だ。身体がないから。
何が言いたいか。
現場のデジタル化、AI化、DX(マツコデラックス)化は、要するに冒頭登場したケチ男くんになる。
映画なんて、テレビでやるから劇場行くのはもったいない
横浜赤レンガ倉庫のTシャツ屋さんのコンサルティングをしたことがある。
コンセプトが「ブリティッシュ(イギリス)」「若者」「元気いっぱい」だった。
店に行ってみると、おしゃれなBGMが流れてる。
ぼくはこれを「ビートルズ初期の元気いっぱいな曲に変えてみましょう」と提案した。
売上、5倍になった。
棚にあるTシャツ、同じ。価格、同じ。接客、同じ。
人は情動で動く。
ケチ男くんへまっしぐらな世の中だからこそ、ぼくはいまこそ、「直感=第1感」を前に据える必要があると考えています。
JOYWOW「直感部」というコンサルティング・サービスを始めよう、そう思ってます。