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「真善美」を考える旅のはじまり
とある飲み会で、「真善美って何か説明できる?」と話を振られて、とっさに考えて答えたこと(に加筆修正したもの)。
○真は自然が決めること。
natureをみては何が真で、何が偽かを探求するのがscience。
○善はみんなが決めること。
何が善いことか、悪いことか、は集団の合意によって決められている。
○美は自分で決めること。
何を美しいと思うかは自分が決めている。
即興で答えたにしては、割といい線いってるんじゃないかと自分でも思うのだけど、その場にいた美大の先生が、たしか、プラトンやカントを引用して、説明し直してくれて、僕はそれを全然理解できなかった。
自分が世界をどう認識しているかが大事な気がした
たとえば、今の会社で事業をする意味ってなんだろう、とか、利益を上げる意味はなんだろう、とか、看護師の妻は人の命を預かる仕事をしているけど、彼女の仕事と僕の仕事(僕が急に明日休んでも誰かの命に関わることはほとんど、ない)に、優劣とか重要さの差とかあるんだろか、とか、日々考えるわけです。
それらの問に向き合うときに、そもそも自分は世界をどう認識しているんだろう、っていうことを理解しておくのは、すごく考えを助けるだろうな、と感じていました。
真善美を冒頭のように整理したときに、企業活動の目的は真の追求なのか善の追求なのか、美の追求なのか、を考えてみると、もしかして、真の追求のためなのか?と思うのですが、まだ自分の理解が足りていない感覚がありました。
そこで、その飲み会にいた美大の先生に、「真善美が何かを知りたい」と相談したところ、勧めていただいた本が二冊あって、それらを半年かかって、ようやく読み終わったので、感想文を書きます。
それがこの二冊。西洋哲学史(今道友信)と美学への招待(佐々木健一)。
「真善美ということを言い出したのは西洋哲学なので、どういった文脈のなかで扱われたのかを知るのにいい本」として西洋哲学史を。
「美とは何かを問う際の確実な入門書」として美学への招待を。
西洋哲学では2000年間くらい神をすごく意識していた。そしてカントが現れた。
西洋哲学史を読み進めていき、近代にいたるまでは、「神の存在と自分の認識や仮説の整合性をどうやって担保するか」というところに、叡智が注がれまくっている、という印象を受けました。だから、それまでの真善美というのは、神をベースにして考えられてる。なんか、ここから現代に生きる僕の考えの軸になりそうなことが、抽出できるきのだろうか・・・と訝しむ気持ちをもちながら読み進めて、そして、近代に入った頃、だんだん、神のことを話さなくなったな、と思う頃にカントが登場して、「純粋理性批判」とかの話の中で、「真善美」に関する議論が展開されました。
しかし、びっくりするくらい、カント以降の話が難しい。もう、全然わからない。こりゃあ、カントについてちゃんと勉強しなきゃ無理だ、という思いに至りました。
この本を読むだけでは、真善美とは何かということを掴むには至らなかったけれど、神との関係性の中で展開されてきた哲学から離れたところにカントが真善美を言い出したんだな、という流れを捉えることができました。
「美」が自分で決める、といったときの「自分」を考えた
次に美学への招待を読みました。
この本で大事だな、と思ったのは、以下の二点。
・近代美学が「美的体験と美的範疇」で議論されていたのに対し、現代は「解釈と美的概念」に代わった
・美の議論のなかに、自分の感覚でどうとらえるかが登場する
「美しさは自分で決めている」というのは、あまりにも無邪気な発言だったんだな、ということに気づきました。つまり、コンテクストやあるいは何を美しいと思うのか、という前提知識なしに「美」を議論することは難しい。
また、「美学」に関する本ですが、感性の章を読みながら、僕は安宅和人さんの「知性の核心は知覚にある」の論考を思い起こしていました。
そうか、知覚するところが出発点なんだ。との思いを深めました。
二冊読み終わってみて、本の紹介の仕方のなんと的確だったことか、と感じました。「西洋哲学史」を読んで背景は(ぼろげながら)頭に入れられたし、「美学への招待」を読んで、「美」とは?への思索を深めました。
「美」に関連して読んだ本2冊もここで取り上げる
同時期に、友人がこちらの本をすすめてくれた。引用文献には「美学への招待」はエッセンスをわかりやすく解説してくれている本だった。
また、美を追求する人は「環境」をどう捉えるんだろう、とか、環境保護を第一に考えたとき、果たして芸術活動はどのようにして正当性を主張するのだろう、ということに興味があって、こちらも読んでみた。
僕は「エコロジー」とか「環境」の対義語は、「発展」とか「開発」だとばっかり考えていたのだけど、この特集号を読んで、僕は「自己」とか「自我」みたいなものも対義語になりうるんだ、ということを知った。
それはまさに「美学への招待」で感性が主題に挙げられていたことと対応するんだろうな、と感じた。
しかし、「真善美」の理解には程遠い感覚が強く残っている
このnoteのタイトルを「真善美」を考える旅のはじまり、としたように、まだまだ理解することがいっぱいあるなあ、という感覚を抱いており、これはどこかで本腰をいれてカントと友だちになりに行かなければならないかもしれない・・・