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【いざ鎌倉(28)】決戦へのカウントダウン

早速ですがお詫びです。
23日に公開した「【いざ鎌倉(27)】源実朝による代替わり徳政と鴨長明の鎌倉来訪」ですが、編集途上のミスで「鴨長明の鎌倉来訪」の箇所でテキストが一部欠落していました。申し訳ございません。
公開から12時間以内に読まれた方は不完全なバージョンだった可能性がありますので、気になる方はその部分だけでも再読ください。

さて今回から建暦3(1213)年の話になります。
和田義盛の人物伝まで含めて全4回のシリーズ和田合戦となります。
第25回がプロローグですので、未読の方はこちらから是非お読みください。

泉親衡の乱

幕府と実朝にとって激動の建暦3(1213)年の幕が上がります。

正月10日、実朝は2年連続となる二所詣の実施を決めました。
16日に由比ガ浜で身を清める二所精進を予定したところ、陰陽師は日が良くないと反対しましたが、実朝は強行し、22~26日の4泊5日で二所詣を行っています。
陰陽師の反対を振り切っての二所詣は、この年の不吉を意味しているかのようでもありました。

北条時政の失脚後、しばらく続いた鎌倉の平和はこの年の2月15日に破られます。
この日、御家人・千葉成胤が阿静坊安念という僧を逮捕し、北条義時に突き出しました。
千葉成胤を訪ねた安念は謀叛の話を持ち掛けましたが、成胤は実朝への忠義を重んじてその場で安念を逮捕し、義時の所へ連行したのです。

安念は取り調べで計画の詳細を供述し、謀反の全容が明らかとなります。
計画の中心は泉親衡という信濃の御家人であり、先代将軍源頼家の三男・千寿丸を大将軍として北条氏討伐の兵を挙げるという計画でした。
親衡の他にも信濃の御家人が複数計画に関与していましたが、かつて木曽義仲の本拠であったり、比企能員が守護を務めていたりと信濃は政治的敗者の多い国であり、北条氏をはじめとするこの時の幕府中枢とは距離があり、冷遇されている武士が多かったと考えて良いでしょう。

親衡の挙兵計画は主犯格130人以上、その関係者200人という大規模なものであり、16日には早速10人以上が逮捕されています。
首謀者の泉親衡こそ逃亡を許しましたが、大将軍として担ぎあげる予定とされていた千寿丸の身柄は確保し、謀反は未然に防がれました。
めでたしめでたし。

ということには残念ながらなりませんでした。
謀叛に関与して逮捕された者の中に、侍所別当・和田義盛の息子である義直と義重、甥の胤長が含まれていたのです。
幕府高官の親族が謀叛の計画に関与していたことで幕府に衝撃が走ります。

侍所別当・和田義盛

和田義盛の嘆願

和田義盛が心から願った上総国司任官は結局実現しませんでしたが、将軍実朝との関係はその後も良好であり、北条一門に次ぐ武士団三浦一門の長老として実朝を支える立場にいました。
この年、正月に御家人が将軍をもてなす行事である「椀飯」は大江広元、北条義時、北条時房、和田義盛の順に行われており、義盛は御家人の序列ナンバー4でした。

泉親衡の乱が明らかとなり、息子2人と甥が逮捕された時、義盛は上総国伊北荘(千葉県いすみ市、大多喜町周辺)に滞在しており、鎌倉を留守にしていました。

3月8日、鎌倉に戻った義盛は将軍御所に参上し、実朝と面会します。
この時義盛は、これまでの自身の功績を述べ、息子2人の罪を許してほしいと実朝に訴えました。
実朝は義盛の訴えに感心し、特に審議することなく即日義盛の息子2人の罪を許すことを決めます。
上総国司推薦問題の時もそうですが、実朝は義盛を信用し、心から頼りにしていることが感じられます。

北条義時の挑発

翌日、息子2人の赦免を勝ち取り安堵した義盛は、一族98人を引き連れて将軍御所の南庭に列座し、大江広元を取次として、今度は甥の胤長の赦免を求めました。
今日で言うデモと座り込みという強いアピールを義盛が行ったのは、胤長が息子2人とは異なり、謀反計画の主犯格の一人と見なされていたからでした。
実朝もこのことは認識していたようで、さすがに義盛の申請を却下し、義時の被官(家臣)である金窪行親・安東忠家が預かっていた身柄を侍所検断奉行(検事兼裁判官)の二階堂行村に引き渡すように指示します。

この指示を受けた北条義時は、和田胤長を後ろ手に縛りあげ、わざわざ一族の前を歩かせた上で行村に身柄を引き渡しました。
この行いは和田一族にとっては面子を潰されるとんでもない恥辱でした。
実朝がこのようなアピールをしろと指示するとは考えられません。
明らかな北条義時による挑発でした。

これをきっかけに和田一族は将軍御所への出仕を停止します。
今度はストライキで抗議行動に出たわけですが、事態が好転することはなく、3月17日に義盛の甥・胤長は陸奥国に流罪となります。
胤長の幼い娘はこのことがショックで病となり、命を落としてしまいました。
和田一族は北条義時への怒りを募らせていきます。

深まる対立

3月25日、和田義盛が配流となった甥・胤長の屋敷の拝領を申し出ます。
これまで幕府では没収された土地は一族の者が引き継ぐのが慣例であり、「御所にも近くて出仕に便利なので拝領したい」ということでした。
申し出の通りこれは幕府の慣例であり、少しは義盛の怒りも収まるのであれば実朝には反対する理由はなにもありません。すぐに義盛の申請を許可します。
しかし、4月2日、北条義時が「屋敷は自分が拝領した」と主張し、金窪行親と安東忠家に分け与え、義盛の代官を追い出してしまいます。これも義盛との関係を考えれば実朝の指示とは考えられず、義時による独断と考えてよいでしょう。
和田義盛は当然この対応に不満でしたが、訴えを起こすことはありませんでした。

4月15日、将軍御所での歌会に義盛の孫・和田朝盛が久々に顔を出しました。
一族が御所への出仕を停止したことに従い、欠席が続いていましたが、朝盛は歌会の常連メンバーであり、実朝が信頼する側近でした。
実朝は、和田一族の出仕停止という不穏な空気に不安を感じていましたが、朝盛が姿を見せて見事な和歌を披露したことで不安は解消されたように感じました。

しかし、和田朝盛はこの夜、自邸に戻らず、そのまま寺院に足を運んで出家してしまいました。このままでは和田一族は挙兵することになるが、実朝に弓を引くことも一族を相手に戦うことも自分にはできないというのが理由でした。
実朝と一族の板挟みとなり、悩んだうえでの決断であり、歌会への出席は実朝への別れのつもりだったのです。

鎌倉を離れ京へ向かった朝盛ですが、駿河で和田義盛の四男・義直に追いつかれ、連れ戻されました。
朝盛は和歌だけでなく弓の名手であり、将来の和田一族を背負って立つ武士です。
義盛にとって、優秀な孫が勝手に出家することはいかなる理由でも認められませんでした。

鎌倉に戻り、実朝の前に姿を見せた朝盛は黒衣の僧形となっていました。
変わってしまったその姿に将軍実朝は嘆き悲しむとともに、朝盛の苦悩から北条氏と和田氏の対立が最早後には引けないものとなっていることを悟りました。

決戦前夜

和田義盛への挑発行動に出る北条義時に対し、将軍実朝は最後まで事態を鎮静化させる努力を続けます。
4月27日、実朝は義盛に謀叛を諫める使者を送りました。
義盛は
「頼朝公が存命の時は多大なる恩賞を頂いた。亡くなられてからわずか20年で没落することになったことを嘆いている。謀反の企てなどない」

と返答しました。
義盛の返答を聞いた北条義時は御家人たちを集め、
「義盛の謀叛は間違いないが、まだ甲冑の準備をする段階ではない」

と語りました。
その日の夕刻、実朝は再度、使者を義盛に送ります。
義盛からの返答は
「将軍には何の恨みもない。ただ、北条義時が傍若無人なので事情を聞こうと若者たちが集まって話し合っている。自分には止めることができない」
というものでした。

4月29日、義時に親子の縁を切られて蟄居していた北条(名越)朝時が急遽鎌倉に呼ばれます。朝時の母は比企氏です。

北条(名越)朝時

朝時は前年に将軍御台所の女房に夜這いをかけたことで実朝の怒りを買い、義時に義絶されていました。
その朝時を父・義時が呼び戻したことで、多くの人が北条氏の戦争準備を悟り、鎌倉の緊張感はピークに達しました。

5月2日申の刻(午後4時頃)、侍所別当にして幕府創設の功臣・和田義盛はついに挙兵を決断することになります。

幕府創設以降、はじめて鎌倉が戦場となる和田合戦はこうして開戦に至りました。

次回予告

激闘!和田合戦。

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