![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/46847870/rectangle_large_type_2_d223ca2784a0f0d838d81eb10f5360a1.jpg?width=1200)
【いざ鎌倉(29)】決戦!和田合戦
すみません、今回も「【いざ鎌倉(27)】源実朝による代替わり徳政と鴨長明の鎌倉来訪」についてのお詫びです。
更新時に「実朝が一流の歌人と顔を合わせるのは鴨長明が初めて」と書いたのですが、長明を推薦した飛鳥井雅経も『新古今和歌集』の撰者であり、鎌倉に下向経験がありますから初めては雅経ですね。大変失礼しました。
さて、今回は和田合戦について。
和田合戦はこれまでの幕府内の抗争とは性質が異なります。
これまでの抗争は圧倒的多数の幕府軍が少数の謀叛人を数で圧倒する(梶原景時、畠山重忠、平賀朝雅らを討伐したケース)、あるいは暗殺(比企能員、源頼家の殺害)でしたが、和田合戦はその名前のとおり、鎌倉市街を舞台とする軍勢と軍勢による本格的な合戦となりました。
2日間にわたる激戦を解説していきます。
本記事を読む前に未読の方は先に下記2つをお読みください。
誰もが想定外だった5月2日の開戦
建暦3(1213)年5月2日夕刻。
和田義盛の屋敷近くに住む御家人・八田朝重が和田邸に軍勢が集結しつつあることに気付き、大江広元に急報します。
大江広元はこの時、自邸で酒宴の最中でしたが急ぎ席を立って将軍御所に向かいました。
この時、将軍御所は全く警備の体制が整っておらず、将軍実朝も酒宴の最中でした。
3代将軍源実朝
北条義時には三浦義村・胤義兄弟が義盛の挙兵を知らせました。
三浦兄弟は義盛と同族であり、和田氏の挙兵に協力し、御所北門を攻めることを約束していましたが、最後まで義盛の挙兵に加担すべきか悩んでいました。
和田義盛の父・義宗は三浦義明の嫡男でしたが、若くして亡くなっており、三浦氏の家督はその弟で三浦義村・胤義の父である義澄が継いでいました。
義盛には本来三浦の家督は父と自分が継ぐはずであったという思いがあり、一門庶流の和田氏当主でありながら三浦一門の長老として振る舞っていました。
(『源実朝』坂井孝一(著)より引用)
三浦氏総領の義村と弟・胤義は和田義盛の振る舞いに不満を持っていましたが、義盛の方が20歳以上年上の従兄であり、表向き大人しく従っていました。
しかし、義盛が挙兵するに及んで袂を分かつことを決めたのでした。
三浦兄弟より義盛の挙兵を知らされた義時は囲碁の会の最中でしたが、心静かに装束を改めて御所に向かいました。
このように将軍実朝と大江広元はそれぞれ個別に宴会中、北条義時は囲碁の会の最中であり、合戦直前とはとても思えません。
義盛の謀叛は確実と考えていたようですが、この日の挙兵は想定外だったのでしょう。
一報、挙兵した側の和田義盛は、翌3日の挙兵を予定しており、この時点では同士である南武蔵の御家人・横山時兼の軍勢がまだ到着していませんでした。
しかし、義盛は予定を早めて2日夕刻、挙兵を決断します。
この予定変更は、幕府側に挙兵の情報が漏れたと判断し、先手を打ちたかったのだろうと考えられます。
奇襲をするにしても完全に日が落ちて夜になった方が成功率は上がるはずですが、それすらも待てなかったということは一刻も早く開戦する必要が生じたということでしょう。
申の刻(午後4時ごろ)、和田義盛は150人の軍勢を三手に分け、将軍御所の南門、その向かいにある大江広元邸、小町大路(若宮大路の一本東の通り)にある北条義時邸西・北両門に襲い掛かりました。
和田勢には和田一族だけでなく、土屋義清、渋谷高重、土肥惟平、岡崎実忠、梶原朝景(梶原景時の弟)など相模国の御家人が多数加わりました。
(将軍御所周辺図 前掲書より引用)
「神の如し」朝比奈義秀の猛攻
将軍御所南門を攻める和田勢で幕府側を震え上がらせたのが和田義盛の三男・朝比奈義秀です。
その戦いぶりは『吾妻鑑』に「神の如し」として記され、向かい合って死を免れたものは誰もいなかったと伝わります。
準備不足であった将軍御所は和田勢の猛攻を防ぎきれず、酉の刻(午後6時ごろ)に南門は破られ、和田勢の侵入を許します。
しかし、間一髪で実朝・義時・広元ら幕府首脳は北門より源頼朝の廟所である法華堂に避難していました(27回で鴨長明が柱に和歌を刻んだ場所)。
北門は前述の通り、本来は三浦兄弟が攻撃を任されていました。三浦兄弟の寝返りにより、幕府首脳の避難ルートが確保されたことになります。
江戸時代に描かれた朝比奈義秀の浮世絵(歌川芳員作)
和田勢は、北条義時を殺害し、将軍実朝の身柄を確保できれば勝利確実でしたが、惜しくもその機会をこの時逃しました。
乱入した義秀は将軍御所に火を放ち、これにより将軍御所は全焼しました。
横山時兼の到着
源平の争乱を戦い抜いた和田勢は一騎当千の猛者ぞろいでしたが、それは幕府方にも言えること。
激戦は夜間になっても続きましたが、日付が変わり明け方近くになる頃には和田勢も疲労が見え、矢も尽きるようになり徐々に押され始めるようになります。
和田勢は由比ガ浜まで撤退し、幕府方優勢を見て取った大江広元は文書や書籍を守るために法華堂から政所へと移りました。
3日寅の刻(午前4時ごろ)、和田義盛の挙兵に参加する約束をしていた横山時兼の軍勢が到着します。
既に書いた通り、和田義盛が早めの開戦に踏み切ったために開戦後の到着となったのであり、時兼が遅刻をしたわけではありません。本来、この3日早朝に開戦する予定だったと考えるべきでしょう。
横山勢が戦闘に加わったことにより、和田勢は再度士気を上げ、幕府勢へと攻めかかります。
辰の刻(午前8時ごろ)、西相模の曾我・中村・二宮・河村といった武士団が到着します。しかし、彼らはどちらに味方するべきなのか判断に迷い、合戦になかなか参加しません。
その状況を聞いた将軍実朝は急ぎ自分の花押(サイン)を記した御教書を送り、彼らは幕府軍として参戦しました。実戦経験がなく、武勇にも優れぬ実朝には戦争指導はできませんが、それでも合戦中に自分ができる最善のことをやろうという意志はあったと言えるでしょう。
その後は同様の御教書を関東近隣の御家人に発給して、逃亡した敗残兵の掃討を命じており、すでに戦後を見据えた対応も取っています。
また、和歌を書き添えた戦勝祈願の願文を作成し、鶴岡八幡宮に奉納しました。
死闘決着
日が明けても朝比奈義秀は幕府軍を相手に猛威を振るい、戦果を積み上げます。
しかし援軍が次々と加わる幕府勢と対照的に和田勢は戦力を減らし続け、勝敗の天秤は幕府へと傾いていきました。
開戦から26時間が経過した酉の刻(午後6時ごろ)、義盛の四男・義直が戦死しました。享年37歳。
泉親衡の乱への加担で逮捕された際、義盛が実朝に赦免を嘆願した愛すべき息子の戦死によって猛将・和田義盛の心はついに折れました。
これ以上の戦闘は無益であると涙を流し、程なくして義盛も討たれました。享年67歳。
義重、義信、秀盛といった義盛の息子たちも続々と戦死し、戦いは幕府の勝利に終わりました。
幕府軍を脅かした朝比奈義秀は兵500人余りとともに船6艘で安房国へ逃亡しました。その後の行方はわかっていません。
また、将軍実朝と一族の板挟みに悩んだ末に出家し、一族と行動を供にした義盛の孫・和田朝盛も戦場から逃亡しました。朝盛はこの後、ふたたび幕府軍と戦場で対峙することになりますが、それはまだ少し先の話となります。
次回予告
番外編コラム「和田合戦余話」です。