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【いざ鎌倉(26)】御代替わり 土御門天皇から順徳天皇へ

京の話と鎌倉の話が行き来しますが、今回は京の話です。
後鳥羽院のエネルギッシュな取り組みはこれまでも紹介してきましたが、今回は現在の皇室に色濃く残る後鳥羽院の様々な成果について。

前回は幕府の和田義盛国司推薦問題についてでした。
今回と話は繋がっていませんが、私のお気に入りに話なので是非合わせてお読みください。
通しで毎回読んでくださっている皆さまは本当にありがとうございます。

土御門天皇の譲位、順徳天皇の即位

承元4(1210)年11月、土御門天皇が皇太弟・守成親王に譲位します。
ともに後鳥羽院の皇子。
16歳の兄から14歳の弟への御代替わりです。若い。

譲位の理由はこの年、彗星が見られたから。
土御門天皇に政治的失敗があったわけでも、病気になったわけでもありません。
当時の人たちにとって彗星は不吉の予兆であり、天皇の譲位によって世界を一新する必要がありました。
第84代順徳天皇の誕生です。

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順徳天皇

後鳥羽院の第三皇子である順徳天皇は寵姫・修明門院重子の子であり、後鳥羽院に深く愛されていました。
後鳥羽院は、ともに自分の皇子である兄弟でも兄・土御門天皇以上に弟・順徳天皇を愛し、期待の後継者と考えていました。
彗星の出現は事実ですが、おそらく後鳥羽院は以前から譲位のタイミングを計っていたはずです。

譲位した土御門天皇は上皇となりますが、後鳥羽院の院政が続きますので権力を持たない上皇となります。
院政を行えるのは「治天の君」と呼ばれる皇室の家長1人だけです。
土御門上皇が院政を行うには、後鳥羽上皇が崩御し、その上で順徳天皇の子ではなく、自身の子が天皇となる必要があります。

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土御門上皇

なお、自身が土御門天皇に譲位する際は幕府に意見を求めた後鳥羽院ですが(源頼朝は譲位に反対だった)、この時はそういった様子は見られません。
31歳となり強力な指導力で朝廷を牽引する後鳥羽院にとって、頼朝亡き後の幕府は助言を求める対象ではなくなっていました。

皇室・朝廷儀礼の復興

天皇の譲位に合わせ、後鳥羽院が注力して取り組むことになるのが皇室・朝廷儀礼の復興でした。
平安時代末期以降、院政のはじまりと平家の台頭、その後の源平の戦乱によって政治は混乱し、伝統的な儀礼の形が失われつつありました。
後鳥羽院は愛する順徳天皇への御代替わりをきっかけに、伝統的な儀礼復興に乗り出します。

この取り組みも『新古今和歌集』の編纂と同様、単に近臣に指示するのではなく、誰よりも熱心に作業に取り掛かったのが後鳥羽院自身でした
堕落した貴族たちが長年放置していたが故に儀礼の退廃があるわけで、自分でやるしかないと後鳥羽院は考えたことでしょう。

後鳥羽院は儀礼復興のためにまずは自分で学習する所から始めますが、政治的混乱が続いたことで御所にあったはずの古儀礼についての史料が紛失しているという有り様です。
仕方なく貴族たちに先祖の日記などの資料を提出させると、短期間に徹底的に読み込みました。皇室と朝廷の頂点に立つ自分が誰よりも儀礼について理解しているのは当然であると示すかのような猛勉強でした。

儀礼についての理解を深めた後鳥羽院は、次なるステップとして貴族たちの教育に取り掛かります。

習礼と公事竪義

後鳥羽院が、儀礼復興のための貴族への教育として実施したのが習礼公事竪義です。
簡単に言うと習礼が予行演習、公事竪義が研修会です。

みなさんにも自身の人生を振り返れば学校や企業での予行演習や研修会の記憶があろうかと思います。そして、その記憶は多くの場合「面倒くさい」という感想と結びついているのではないでしょうか?
当時の貴族たちも同じです。
後鳥羽院自らが度々主催する習礼と公事竪義に貴族たちは悲鳴を上げることになりました。

相変わらずの凄まじいバイタリティによる猛勉強で誰よりも儀礼について詳しくなった後鳥羽院。
貴族たちに習礼での振る舞いや公事竪義での問答に誤りがあれその場で容赦なく指摘するため、貴族たちは間違えると大勢の前で恥をかくことになりました。
一方で上手く対応できた貴族は高く評価されます。
出世のため、人前で恥をかかないため、貴族たちは習礼と公事竪義を前に必死に予習することになりました。
式次第、作法、装束、調度品等々……
失われていた皇室と朝廷の古儀礼は後鳥羽院の猛勉強と熱心な教育により、このとき復活することになります。
後鳥羽院は儀礼についての研究の成果を『世俗浅深秘抄』という書物にまとめます。
そして後鳥羽院の後継者である順徳天皇も儀礼重視の姿勢を継承し、後に『禁秘抄』という儀礼の解説書を著すことになります。

なお、後鳥羽院が最も重視した儀礼は天皇一世一代の祭祀である大嘗祭でした。
順徳天皇の大嘗祭は建暦元(1211)年11月に予定されましたが、後鳥羽院の第一皇女・春華門院昇子内親王が薨去して喪中となったことで1年延期となりました。
これは大嘗祭についての習礼と公事竪義がさらに1年行われるということでもあり、貴族たちの苦労がしのばれますね。

ただ、この年の後鳥羽院の働きがなければ令和元年の大嘗祭も全然違う形で行われていたかもしれません。
この時、後鳥羽天皇が古式を復活させるべく努力し、成果を書物に残したことは天皇と皇室の長い歴史の上で重要な意味を持つことになりました。

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令和の大嘗宮

宝剣の復活

古儀礼を復活させる上で後鳥羽院に避けては通れないのが自身のコンプレックスでもある壇ノ浦に沈んで失われた草薙剣(宝剣)です。
順徳天皇の践祚に合わせ、後鳥羽院は伊勢の神宮より奉納された神剣を新たに草薙の剣の「形代」(分身)とする決断を下しました。
この剣がいまも皇位とともに天皇陛下に伝えられているものであることは第2回でも書いた通りです。

しかし、これは後鳥羽院にとっては我がことながら納得のいかない決断であったのでしょう。
建暦2(1212)年、順徳天皇の大嘗祭を前に後鳥羽院は検非違使を西国に派遣し、宝剣を捜索させています。
ただ、残念ながらこの時も宝剣を見つけることはできませんでした。

「菊の御紋」と菊御作

いまの皇室に受け継がれる三種の神器も古式に則った皇室儀礼も後鳥羽院の残した遺産であり、このことを思うと当時の貴族たちと同様に我々も後鳥羽院の存在感の大きさを感じることができるように思います。
ここまでは後鳥羽院による伝統の復興を取り上げましたが、後鳥羽院以降新たに皇室の伝統となったものもあります。
それがいわゆる「菊の御紋」です。

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今日、天皇・皇室の紋章として定着し、パスポートにも記されることで日本国の紋章でもある菊花紋章ですが、好んで使用するようになった天皇は後鳥羽天皇が最初です。

これまでの連載で後鳥羽院の様々な興味関心について触れてきましたが、一風変わったものとして日本刀の作刀があります。
後鳥羽院は備前、備中、京の優れた刀工を召し集め、月番で作刀させる御番鍛冶制を設けました。
人に指示するだけでなく自分でもやってみるというのは日本刀についても同じであり、時には後鳥羽院自身も鍛造を行い、それらの刀には銘に代わって菊花紋章が掘られました。
こうした後鳥羽院由来の刀剣は「菊御作」と呼ばれます。

菊御作は重要文化財に指定されている京都国立博物館所蔵のものが代表的ですが、皇室の御物として明治天皇に献上された二振が伝わり、他にも数か所の博物館等に所蔵されています。

こうした後鳥羽院への刀剣への興味関心も「宝剣なしに即位した」というコンプレックスの裏返しと考えるのが自然かなと思います。

次回予告

将軍実朝による代替わり徳政と鴨長明の鎌倉来訪について。

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